白い息、灰色の影
初投稿です。
もしよかったらみていってください。
すでに書き溜めてあって完結はしているので、途中で終わったりはしないです。
雪の降る夜だった。
風はそれほど強くなかったのに、空から落ちてくる白い粒は静かに、しかし絶え間なく地面を埋めていった。
寒いのは好きじゃない。だけど、雪が降る日だけはなぜか、嫌いになれなかった。
街灯に照らされる雪は綺麗で、それを見ていると、自分がこの世界のどこかに存在していることを確認できるような気がした。
そんな感覚を、誰かに話したことはなかったけれど。
その夜も、俺は残業を終えて、いつものように駅前のコンビニに立ち寄った。
時間は夜の十一時を回っていた。ネクタイはゆるく緩めたまま、コートの襟を立てて歩く。
コンビニの明かりは、まるで異物のように白すぎて、雪の色さえ浮かび上がらせていた。
買ったのは、カップラーメンと缶コーヒー。
何度も繰り返してきた一人暮らしのルーティンだ。
温かいものが欲しいというより、温もりを「持って帰る」ことができる気がするから、それを選んでいる。
そんな錯覚に、少しでも救われたくなる夜だった。
会計を済ませ、ふと視線を右にやると——彼女がいた。
コンビニ脇の、小さな喫煙スペース。
よく見なければ気づかないほど奥まった場所に、スチール製のベンチがひとつ。
彼女はそこに腰かけて、黙ってタバコを吸っていた。
あのときの光景は、今でも頭に焼きついている。
長い髪に雪が少し積もっていて、それを気にするそぶりもなく、淡々と白い煙を吐いていた。
横顔しか見えなかったけれど、目元にうっすらと濃いアイラインが入っていて、耳にはいくつものピアスが光っていた。
まるで、雪景色の中にぽつんと浮かぶ異世界の住人のようだった。
俺は、ただの帰り道の一部だったはずのその光景に、なぜか目を離せなかった。
タバコの煙というものを、俺はずっと嫌っていた。
父親がヘビースモーカーで、結局肺がんで死んだこともあって、その匂いを嗅ぐたびに喉の奥がざらつく。
吸うなんて絶対にあり得ないし、喫煙所の近くに近寄ることすら避けていた。
それなのに。
気づいたときには、俺の足はその喫煙スペースへと向かっていた。
彼女と視線が交わったわけでも、呼び止められたわけでもない。
俺はただ、無言で彼女から数メートル離れたベンチの端に腰を下ろした。
缶コーヒーのプルタブを引く音だけが、小さく響いた。
彼女は何も言わなかった。
こっちを一瞥することすらなかった。
それでも俺は、不思議なほど心が落ち着いていた。
冷たい缶コーヒーを手に持ちながら、ただただ降り続ける雪と、タバコの煙が空に溶けていくのを眺めていた。
言葉も、理由もいらなかった。
ただそこに、「誰かがいる」という事実が、あまりにも静かで、心地よかった。
その夜、俺はラーメンの湯を入れながら、彼女のことを考えていた。
いや、正確に言えば、“考えていないふり”をしていた。
名前も、声も知らない。
一言も交わしていない。
ただ、寒空の下でタバコを吸っていた、少し奇抜な見た目の女性。
それだけのはずだった。
なのに、頭から離れなかった。
あの横顔が、煙の揺れと一緒に、脳裏に焼き付いていた。
食欲はほとんどなかった。
けれど、口に運ぶことで何かを埋めようとしていた。
お湯でふやけた麺を噛みながら、目の前のテレビではニュースが淡々と事件を読み上げていた。
“30代男性、ひとり暮らし、独身、残業帰り、深夜のコンビニ”——
どこにでもいる凡庸なピース。
俺の人生は、たぶんこのまま誰にも知られずに、ゆっくり終わっていく。
そう思っていた。いや、そう思い込んでいた。
でも、あの煙の向こうにいた誰かが、それを少しだけ狂わせた。
⸻
次の日、俺はいつもより5分だけ退勤を遅らせた。
理由は自分でもよくわからない。
たまたまだ、と言い聞かせるようにコートのポケットに手を突っ込む。
コンビニの明かりは、昨夜と同じだった。
変わらない店の前。
けれど、ベンチには、彼女はいなかった。
そりゃそうだ、と自分に言い聞かせる。
あんなのは、ただの偶然。
今日も、昨日も、俺は何も変わらない。
そう思って、カップ麺と缶コーヒーを手にしてレジを抜けると——
その姿は、少し離れた自動販売機の影にいた。
やっぱり、いた。
今度はフードをかぶっていて、顔の半分以上が隠れていたけれど、間違いなかった。
背中を壁に預けて、タバコを咥えたまま、じっと煙を見つめていた。
俺の心臓は、どくん、と一つ鳴った。
こんなふうに、人の存在を意識したのは久しぶりだった。
それは「恋」なんて名前がつけられるような、華やかなものではない。
ただ、息をしている誰かの気配に、ひどく飢えていた。
そういう、もっと底の方にある感情だった。
再び、彼女の隣のベンチに腰を下ろした。
昨夜とまったく同じ場所。
ただ、今夜の俺の手には缶コーヒーの代わりに、ホットレモンがあった。
ぬるい湯気が手のひらを包む。
それだけのことが、少しだけ温かかった。
彼女は、やっぱり何も言わなかった。
目すら合わせない。
それでも、そこにいるという事実だけで、なぜか心が落ち着いた。
——ああ、これは、また来てしまうな。
心のどこかで、そう確信していた。
「こんばんは」
その声は、思っていたより低くて、乾いていた。
彼女の声だった。
五度目の再会の夜だった。
それまで俺たちは、互いに一言も言葉を交わさずに、ただ並んで座っていた。
雪が止んだ日も、雨が混じる日も、どこか似たような時間に、同じ場所で。
誰にも紹介されることなく、ルールもなく、俺たちはそこにいた。
言葉は必要なかった——
と、自分に言い聞かせていたけれど、本当は、ずっと声が聞きたかった。
俺は少し驚いたふりをして、目だけで彼女を見る。
彼女はタバコを咥えたまま、ライターの火をつけていた。
煙がふわりと夜に溶ける。
「……こんばんは」
数秒遅れて、俺もそう返した。
喉が急に乾いたような気がした。声がひどく浮いていた。
彼女は笑わなかった。
ただ「ふう」と煙を吐いて、何事もなかったかのように前を向いていた。
でも、その“ひとこと”があるだけで、まるで世界の温度が変わったような気がした。
「タバコ、吸わないの?」
彼女が続けた。
その目は、真正面ではなく少し斜め下を見ていて、
まるで会話の責任を負わないような距離感だった。
「吸わない。というか……吸えない、かな」
俺は缶コーヒーの蓋に目を落としながら答えた。
過去の記憶が喉の奥にざらついていた。
「昔、父親がタバコで体壊して。だから、なんとなく避けてる」
「あー、なるほど」
それだけ言って、彼女はまた煙を吐いた。
理解を示すわけでも、同情するわけでもなく、ただ聞いただけ、という感じだった。
その感じが、なぜか、心地よかった。
「じゃあ、なんでここ来るの?」
「……なんでだろうね」
俺は少しだけ笑って、空を見上げた。
白く滲む街灯の下、空には月も星もなかった。
彼女はもう何も言わなかった。
タバコの火が短くなるたびに、軽く灰を落とす音が聞こえる。
言葉の少ない会話だったけれど、それでも不思議と満たされていた。
誰かと話すこと自体、こんなにも久しぶりだった気がする。
「名前、聞いてもいい?」
不意に俺は、そう口にしていた。
声に出してしまってから、自分でも少し驚いた。
彼女は視線を外さないまま、口元にタバコをくわえて煙を吐いた。
それから、ほんの少しだけ唇を緩めた。
「未来。みくるって書いて、“みくる”。」
「え?」
「未来って書くの。未来みくる。……女なのに」
俺は思わず笑った。
そして、すぐに自分の名前を言った。
「……俺も、未来。“みらい”って読む。漢字は一緒」
彼女がこちらを見た。ほんの一瞬、目が合った。
「ダブル未来じゃん。気持ち悪……」
彼女はそう呟いたあと、口元だけで小さく笑った。
その笑いは、煙と一緒に空に溶けていった。
俺の胸の奥が、じん、と焼けた。
その夜から、俺の中で何かが静かに始まっていた。