第八話 グスタビオの幸福、過去との決別
春の陽射しが淡く射し込む書斎で、私はグスタビオの辞任届の写しを手に取った。
王宮の印が押された羊皮紙は、見慣れた筆跡でたった二行――「騎士団一等隊長グスタビオ・ウォータル、任を辞す。理由、私事により」と。
私事――その言葉の下に隠された真実を思う。彼はミゼットを守るために鎧を脱いだ。あの事故が偶然か否かなど、今となってはどうでもいい。選んだのは彼自身。私はただ、二人の幸福を祈るほかなかった。
挙式は二週間後に迫る。その前に、前世の残滓――滝川涼也とけじめを付けねばならない。怯えや迷いを抱えたままでは、カナディア行きの馬車に乗る資格がない。
* * *
約束した時間、ガーデンルームを訪れるとハーシェル・ニルカートは私の顔を見るなり叫んだ。
「香帆!」
翠の瞳が揺れ、記憶の中の涼也と重なる。足を組み靴先を揺らし、無造作に髪をかき上げる癖まで同じだった。
「俺の前世は滝川涼也だった。ずっと探していた、君を」
「……ええ。予感はしていたわ」
彼は一息に語った。前世で私が逝った後、姉を狙う狂気のストーカーに刺され命を落としたこと。その瞬間も私を想い、もう一度会いたいと願ったこと――。
私は静かに問い返す。
「それなのに、姉への求婚を口にしたのね」
「してない! 結婚したいと思ったのは香帆だけだ」
言葉は必死だったが、胸に響くものはなかった。涼也は、私が一番欲しい瞬間にその言葉をくれなかった人だ。
私は尋ねる。「姉は無事だったの?」
「俺がストーカーを押さえるあいだに逃げたから、生きているはずだ」
そう――最後まで姉を庇ったのね。
涙が頬を伝った。後悔ではなく、静かな別離の涙だった。
「わかったわ。ハーシェル様……私はもう香帆ではないの」
「それならローゼリアとして愛する!」
「貴方の愛はいらないわ」
彼の瞳に、あの頃と同じ傲慢な光が宿った。私は背筋を伸ばし宣言した。
「私は侯爵令嬢です。軽率な振る舞いはお控えください」
すると彼は顎を上げ、その顔に危険な熱を滲ませた。
「ローゼリア、異世界に転生した意味を考えたことは? この不公平で理不尽な国を、日本のように変えよう。前世の俺は成功者。俺の知識があれば《《王》》にだって――」
背筋に冷たいものが走った。
「やめて! あなたの夢に私を巻き込まないで」
「君が必要だ!」
「――ハーシェル・ニルカート伯爵令息! 二度と私の前に現れないで」
「どうして? 俺は君を王妃にだって──」
伸ばされた手を払い、私は声を張った。
「誰か! この方をお送りして」
侍女たちが慌てて駆け込み、彼を廊下へ導く。去り際、彼は叫んだ。
「香帆!」
その名はもう過去の私のもの。扉が閉じられ足音が遠ざかると、私は急いで父の執務室へ向かった。
ハーシェルとの縁談は断つ――それが本日付の決定だと、きっぱり告げるために。
過去の結末を知り、前世から香帆と涼也を結んでいた糸はたった今断たれた。
胸の奥で、香帆という影がそっと手を振る。――さようなら、私の哀しい恋。
これで本当に、前へ進める。私の名はローゼリア。カナディアの空の下へ新しい未来を迎えに行くのだ。
読んで頂いて有難うございました。