第七話 ハーシェルの正体、そして騎士団を去る者
気が付くと香帆としての私が涙を流しローゼリアの頬を濡らした。過去と現在、二つの時間が胸の内で交差し、意味もなく痛んだ。
ハーシェルの叫び――「香帆、待って!」――が耳の奥で切なく反響した。その声は前世の恋人・涼也の残響そのものだった。
「リア嬢、大丈夫ですか? ど、どこか痛みますか……」
隣でデミアン・スキュアート伯爵が狼狽した声を上げる。
「ごめんなさい……」私は嗚咽の合間に何度も謝った。何に対しての謝罪なのか、自分でも釈然としないまま。
* * *
屋敷へ戻るとミゼットが玄関で待ち構えていた。だが私の顔を見て気圧され、「あ、あら……」と逃げるように姿を消す。――情報を漏らし、ハーシェルを呼び寄せたのは妹に違いない。
伯爵に礼を言ったのち、私は自室で泣き疲れそのまま眠った。目を覚ますと部屋はランプが灯され、ベッド脇に長姉レイチルが腰を下ろしている。
「起きた? デミアン様から事情は聞いたわ。……今夜は二十二時を回っているけれど、少し話せる?」
私は頷いた。
「リア、彼を断る気?」
「いい人よ。でも……会ってまだ二日だもの」
「そうね、わかるわ」姉は深く息をつく。「彼ね、吃音とオッドアイのせいで家族に冷遇されてきたらしいの」
同情を誘う口調。私は沈黙した。姉は立ち上がり、廊下へ出て軽食を命じてから戻る。
「それからね――ミゼットなんだけど、もう社交界でハーシェルを“義弟”呼ばわりしているわ」
私は唇を噛む。
「グスタビオの件も、貴女が父に泣きつき無理やり奪ったって吹聴してる」
「……殴ってやりたい」
姉は肩をすくめたあと、ふと目を細めた。
「いっそカナディア国へ来ない? 私たちの屋敷で暮らせば、ミゼットの影響から逃げられるわ」
胸の奥が温かくなる。前世の記憶を最初に打ち明けた相手は、この姉ただ一人だった。
「……行きたい」
「決まりね。ミゼットの挙式が済んだら一緒に国境を越えましょう」
* * *
翌朝、姉と伯爵と私の三人で応接間に集い、カナディア国へ行く為の段取りを決めた。伯爵は驚きながらも「お、お力になれるなら嬉しい」と言った。
吃音も異色の瞳も、私には気にならない。穏やかでちょっと頼りなさそう――でも傲慢より遙かに良い。婚約の決定を下すには、まだお互いをよく知らない。
伯爵にお土産のカフスボタンを手渡すと、顔をほころばせた。
「つ、次にお会いできたら……愛情の証を必ず」
「婚約が整ってからね」と姉が茶目っ気を込めて肩をポン叩き、伯爵は照れてうつむく。その様子にやはり不安が広がる。
「お姉様、頻繁に男性に触れるのは……」
「勘違いしないで」
長姉が話すには、これは女性が苦手な伯爵への“慣れる為の練習”。これまでの練習で伯爵の苦手意識はかなり改善されたらしい。
「デミアン様は街で私に触れても平気でしたよね?」
「まぁ、そうなの?」
伯爵は何か思い出したようで、「もう練習はいい……」と耳まで赤く染め、長姉は嬉しそうに微笑み、私の中で燻っていた疑惑は晴れていった。
父には「カナディアへしばらく遊びに」と告げるだけ――これが姉の策だ。私は頷いて了承した。
翌日、姉と伯爵は馬車に乗り国境へ向かった。石畳に残る轍を見送り、急に邸が広く寒々しく思えた。
* * *
婚約を解消した私への社交界の招待状はめっきり減った。母も今やミゼットを連れてばかり外出し、二人で私の悪評を上塗りしているらしい。
自室でため息をつく夜、ほぼ毎日届く伯爵からの手紙を開いた。几帳面な筆跡で私への想いがびっしり綴られ、読み終えればふわりと胸が温まる。
一方、ハーシェルからの書簡は丁重に断った。ところが父とミゼットは執拗に「ニルカート家こそ得策」と迫る。
私は静かに答えた。
「ハーシェル様に嫁ぐくらいなら、デミアン様と結ばれます」
その瞬間、ミゼットの顔色が変わった。
「あんな男よりハーシェル様の方が数千倍いいわ! 頭がおかしいんじゃないの?」
「知らないわ。私は私の意思で決める」
口論の末、妹は私を罵り、私は淡々と応じた。
そのやりとりを、廊下の影でグスタビオが聞いていたらしい。後日、王宮騎士団に突然グスタビオの辞職願が提出された。
「アゼラン侯爵家の内情が穢れている。それを治められぬまま、私は剣を掲げられない」
――そう理由を述べたと、騎士団詰所の噂が邸へ届いた。
妹の栄光のために私を捨て、更に剣まで捨てたグスタビオ。前世で姉に魅入られ私を捨てた涼也。悲劇は巡るように似通うが、私はもうその輪の中に残らないと決めている。
カナディアへ渡り、新しい風を私の人生の中に吹き込むのだ。伯爵の手紙を胸に、私はランプの火をそっと吹き消した。
読んで頂いて有難うございました。