表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

第七話 ハーシェルの正体、そして騎士団を去る者

 気が付くと香帆としての私が涙を流しローゼリアの頬を濡らした。過去と現在、二つの時間が胸の内で交差し、意味もなく痛んだ。


 ハーシェルの叫び――「香帆、待って!」――が耳の奥で切なく反響した。その声は前世の恋人・涼也の残響そのものだった。


「リア嬢、大丈夫ですか? ど、どこか痛みますか……」

 隣でデミアン・スキュアート伯爵が狼狽した声を上げる。


「ごめんなさい……」私は嗚咽の合間に何度も謝った。何に対しての謝罪なのか、自分でも釈然としないまま。


 * * *


 屋敷へ戻るとミゼットが玄関で待ち構えていた。だが私の顔を見て気圧(けお)され、「あ、あら……」と逃げるように姿を消す。――情報を漏らし、ハーシェルを呼び寄せたのは妹に違いない。


 伯爵に礼を言ったのち、私は自室で泣き疲れそのまま眠った。目を覚ますと部屋はランプが灯され、ベッド脇に長姉レイチルが腰を下ろしている。

「起きた? デミアン様から事情は聞いたわ。……今夜は二十二時を回っているけれど、少し話せる?」


 私は頷いた。

「リア、彼を断る気?」

「いい人よ。でも……会ってまだ二日だもの」


「そうね、わかるわ」姉は深く息をつく。「彼ね、吃音とオッドアイのせいで家族に冷遇されてきたらしいの」


 同情を誘う口調。私は沈黙した。姉は立ち上がり、廊下へ出て軽食を命じてから戻る。


「それからね――ミゼットなんだけど、もう社交界でハーシェルを“義弟”呼ばわりしているわ」

 私は唇を噛む。


「グスタビオの件も、貴女が父に泣きつき無理やり奪ったって吹聴してる」

「……殴ってやりたい」


 姉は肩をすくめたあと、ふと目を細めた。


「いっそカナディア国へ来ない? 私たちの屋敷で暮らせば、ミゼットの影響から逃げられるわ」

 胸の奥が温かくなる。前世の記憶を最初に打ち明けた相手は、この姉ただ一人だった。


「……行きたい」

「決まりね。ミゼットの挙式が済んだら一緒に国境を越えましょう」


 * * *


 翌朝、姉と伯爵と私の三人で応接間に集い、カナディア国へ行く為の段取りを決めた。伯爵は驚きながらも「お、お力になれるなら嬉しい」と言った。


 吃音も異色の瞳も、私には気にならない。穏やかでちょっと頼りなさそう――でも傲慢より遙かに良い。婚約の決定を下すには、まだお互いをよく知らない。


 伯爵にお土産のカフスボタンを手渡すと、顔をほころばせた。


「つ、次にお会いできたら……愛情の証を必ず」

「婚約が整ってからね」と姉が茶目っ気を込めて肩をポン叩き、伯爵は照れてうつむく。その様子にやはり不安が広がる。


「お姉様、頻繁に男性に触れるのは……」


「勘違いしないで」


 長姉が話すには、これは女性が苦手な伯爵への“慣れる為の練習”。これまでの練習で伯爵の苦手意識はかなり改善されたらしい。


「デミアン様は街で私に触れても平気でしたよね?」


「まぁ、そうなの?」


 伯爵は何か思い出したようで、「もう練習はいい……」と耳まで赤く染め、長姉は嬉しそうに微笑み、私の中で燻っていた疑惑は晴れていった。



 父には「カナディアへしばらく遊びに」と告げるだけ――これが姉の策だ。私は頷いて了承した。


 翌日、姉と伯爵は馬車に乗り国境へ向かった。石畳に残る轍を見送り、急に邸が広く寒々しく思えた。


 * * *


 婚約を解消した私への社交界の招待状はめっきり減った。母も今やミゼットを連れてばかり外出し、二人で私の悪評を上塗りしているらしい。


 自室でため息をつく夜、ほぼ毎日届く伯爵からの手紙を開いた。几帳面な筆跡で私への想いがびっしり綴られ、読み終えればふわりと胸が温まる。


 一方、ハーシェルからの書簡は丁重に断った。ところが父とミゼットは執拗に「ニルカート家こそ得策」と迫る。

 私は静かに答えた。

「ハーシェル様に嫁ぐくらいなら、デミアン様と結ばれます」


 その瞬間、ミゼットの顔色が変わった。


「あんな男よりハーシェル様の方が数千倍いいわ! 頭がおかしいんじゃないの?」

「知らないわ。私は私の意思で決める」

 口論の末、妹は私を罵り、私は淡々と応じた。


 そのやりとりを、廊下の影でグスタビオが聞いていたらしい。後日、王宮騎士団に突然グスタビオの辞職願が提出された。

「アゼラン侯爵家の内情が穢れている。それを治められぬまま、私は剣を掲げられない」


 ――そう理由を述べたと、騎士団詰所の噂が邸へ届いた。


 妹の栄光のために私を捨て、更に剣まで捨てたグスタビオ。前世で姉に魅入られ私を捨てた涼也。悲劇は巡るように似通うが、私はもうその輪の中に残らないと決めている。


 カナディアへ渡り、新しい風を私の人生の中に吹き込むのだ。伯爵の手紙を胸に、私はランプの火をそっと吹き消した。



読んで頂いて有難うございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ