第六話 「香帆、待って」
灰色の雲が低く垂れた花冷えの朝だった。帰省二日目、長姉レイチルは早くも友人たちとの茶会へ出払い、置き土産のようにデミアン・スキュアート伯爵を私に預けていった。
昨夜、父と姉のあいだに交わされた声高な言い争い――「もっとましな男はおらんのか」という父の怒声――は、伯爵の耳にも届いていただろうに、彼は気にもかけぬ様子で「町をご案内いただけるなら幸いです」と穏やかに微笑んだ。
雨上がりの石畳に馬車の車輪が水滴をはねる。乗り込むなり、私は思わず頭を下げていた。
「昨夜は父が失礼を……」
「き、気にしないで。よく、言われますから」
ゆっくりと崩れがちな言葉。それでも昨日よりずっと落ち着いているのは、緊張の膜が少し剥がれたせいだろう。
「よく言われるの……?」
「はい。だ、だから、まだ独身です」
彼の自嘲の気配を感じて胸が痛む。父の暴言が、私自身にも深く刺さっていた。
「あ、あの、お、贈り物です。似合うと……思って」
伯爵に差し出された小箱 ──開いた瞬間赤い石が美しくきらめいた。それは 深紅のルビーを花房に仕立てた素敵なネックレスだった。
「まあ……綺麗。ありがとうございます」
「い、いえ」
* * *
賑わうメイン通りを護衛とメイドを従えて歩く。
「贈り物のお礼にカフスかネクタイピンを選ばせてください」
伯爵の頬がほのかに紅くなり。会話は途切れがちだが、どこか安らぐ静けさがあった。
歩き疲れ、白壁のカフェに腰を落ち着ける。冷えたレモンティーと小ぶりのチーズケーキを頼むと、伯爵も同じものを選んだ。薄切りのレモンの輪が、カップの中にゆらりと浮かぶ。
「リア嬢、つ、疲れましたか?」
「いえ。甘いもの、お好きなのですね」
「好、き嫌いはありません。……か、辛いのは苦手です」
「私も。――伯爵の領地はどんな町並みですか?」
「ここと、大差ありません。ただ……い、いつか貴女をお招きしたい」
伯爵は義兄コールマン侯爵の思い出を語った。幼いころ虐められていた自分に手を差し伸べてくれた、大切な友だと。
「彼の結婚式で、あ、貴女を見かけました。綺麗な方だと……」
式は三年前――まるで覚えがない。だが彼の視線は真っ直ぐで、偽りの気配はない。
「夫人には い、いつも叱咤されるばかりで」伯爵は苦笑する。
「度が過ぎるとプレッシャーになりますよね」
「プレッ……」
「精神的な負担、という意味です」
「な、なるほど……」
私は久しぶりに、自然な言葉の遣り取りに安堵を覚えた。
* * *
店を出ようと立ち上がったとき――
「ローゼリア様!」
呼び止める声に振り向くと、ハーシェル・ニルカートが近づいてくる。翡翠の瞳が据わり、肩で息を切らしていた。
「こちらも婚約者候補ですか?」
「ハーシェル様、場所をわきまえて」
「失礼。――僕はハーシェル・ニルカートです」
遮る間もなく伯爵へ名乗る。
「あ、わ、私はデミアン・スキュアート、と、も、申します」
吃りを聞いた瞬間、ハーシェルの口角がわずかに歪んだ。
「どうして僕が“保留”なのです? 理由をお聞かせください」
「後日にいたしましょう。今はお客様と――」
「僕はずっと返事を待っていた。なのに他の男とデートとは!」
周囲の視線が集まる。胸の奥でかつての涼也の影がちらりと揺れた。思わず耳を塞ぎたくなる。
「君、彼女を、こ、困らせないで」
伯爵が低く告げ、私に手を差し伸べる。「リア嬢、で、出ましょう」
店を出るとハーシェルが私の腕を掴もうとした。
刹那、伯爵の腕が私を抱き寄せ、護衛が素早くハーシェルを押さえ込む。
「離せ! ローゼリア、君は僕を選ぶはずだ!」
往来に響く傲慢な声。
自信過剰な確信――あれも涼也と同じだ。
冷え冷えとした空気の中馬車へ急ぎ乗り込む。背後で、拘束されたハーシェルの声が追いすがった。
「香帆! 待って! 香帆!」
その名を呼ばれるたび、前世の心臓が疼く。けれど私は振り返らなかった。馬車は逃げるように街角を遠ざけていく。
伯爵の腕はまだ私の肩を守る位置にあり、心配そうに私の目を覗き込む彼のオッドアイは何度も瞬いた。
――しばらく彼に体を傾けて、私はそっと息を継いだ。
読んで頂いて有難うございました。