第十一話 ――虚飾の花嫁、それは私
祝福の鐘の余韻が微かに揺れている。陽光は大理石の床を淡く照らし、薔薇水の香が奥まった披露宴の控室を満たしていた――ミゼット・アゼランは、婚姻証明書の末尾に署名を終えると羽根ペンを置いた。たった今、〈侯爵夫人〉という肩書を手に入れた。
胸の内で喜びが大きく弾けた。侯爵となった美丈夫グスタビオを“奪略”し、姉ローゼリアから未来の座を攫い取る――すべては、この瞬間のためだった。
* * *
グスタビオが元婚約者に向けていた忠誠には、盾のごとき堅さがあった。けれど諦めず誘惑を繰り返し続けた先で、運命はミゼットに味方した。
訓練場での“事故”。剣先が描く軌道は、それまでの縁を断ち切り、代わりに花嫁への道を開いた。
――神は努力する者の袖を引く。ミゼットはそう確信していた。
前世の名を“響子”といった彼女は男女の心を玩ぶ術に長けていた。だがその才覚も、ストーカーという災禍を呼び込み命を落とした。
だからこそ転生した今度は、栄華を独り占めし、誰の手も届かぬ高みへ立つ――そのために、グスタビオを手に入れたのだ。彼が王宮騎士団を退いたのも、愛の証。夫は執務を、妻である自分は社交界を掌握する、そう未来図を描いていた。
しかし、挙式後の披露宴を控えた控室で、耐え難い屈辱がミゼットを支配していた。ローゼリアの左手を飾っていた巨大なダイヤが脳裡に焼きつき、嫉妬で心が疼く。
「ねえ、あれより大きな石が欲しいわ」と甘えると、グスタビオは苦笑混じりに「我儘だな」と頷いた。
「愛しているなら用意できるでしょう?」――そう囁く妻に、夫は「後ほど」と静かに席を外した。
* * *
数分後、戻った彼は膝をつき、小箱を掲げた。
「ミゼット、私の愛の証だよ」
深紅のベルベットに包まれたその箱を開けた瞬間、ミゼットの表情は凍りついた。
そこにあったのは、蠟のように白い指――小指だった。
「ヒッ……!」 喉が潰れた悲鳴を漏らし、箱を落とす。前世の忌まわしい記憶が蘇り、冷たい汗が背を伝った。
グスタビオはノロノロと屈み、小箱をそっと掬い上げる。
「ひどいなぁ、響子」
――響子。隠し続けたはずの私の名前。
グスタビオの黒い眼がゆらゆらと狂った笑みを宿す。
「はっ……どうして……」息を切らすミゼットに、夫は嬉しそうに名乗った。
「サミュエル、と呼んでほしい。前世で命を捧げ、ここまで君を追いかけた男だ」
闇色の瞳は深い淵のようで、逃がすまいと追い詰める。
彼は語った。ローゼリアとの婚約を承知したのは、劣等感に苛まれる妹――響子である君が、必ず“奪略”に動くと信じていたからだと。あの訓練場での事故も、偶然ではない。
「君は追えば逃げ、逃げれば追う。だから罠を張った。前世の借りを返すために――いや、二人で幸せになるために」
言いながら差し伸べた手には、欠けた小指の痕が赤黒く残っていた。
心臓は今にも破裂しそうだ。頭のどこかで“ざまあ”と嘲る声が響くが、それは一体誰の声なのか。
――もし、何も仕掛けず、何も奪おうとせずにいたら。
――もし、ローゼリアが花嫁になっていれば。
──もし、前世の記憶が無ければ。
痛めつけるように、激しい後悔が鉛となって重くミゼットの体に沈んでいく。
「皆が待っている」
グスタビオ――否、サミュエルは、蒼ざめた花嫁を軽々と抱き上げた。小指の無い手が背を支え、もう片方の手は箱を握る。冷たい金属音を立て、扉が開いた。
祝宴の灯が眩しく輝き、ざわめきが押し寄せた。拍手と華麗な音楽が響く中、ミゼットの悲鳴は喉奥で凍りつき、誰にも届かない。
薔薇色だと思っていた未来は、花の一輪ごとに棘を立て、血の香を漂わせていた。
完結 最後まで読んで頂いて有難うございました。




