きっかけは転生者
「はぁ、なんかもういいかも」
思わず言葉がこぼれた。胸がたわわな女性の腰を抱いた婚約者の背中を見送って、ベアトリスはため息を吐き捨てた。
数年前、ライテルノ公爵家の一人娘ベアトリスは何の因果かジュスタン第二王子の婚約者に選ばれてしまった。先程背中を見送ったあの男のことだ。
突然の王家からの申し出を断ることができず、陰鬱な気持ちで受け入れた婚約話だった。貴族としてこの国で生きる以上、精一杯努めるしかないと心を切り替えて臨んだ。
最初は楽しかった王宮での王子妃教育は頑張れば頑張るほど厳しくなっていき、この世の嫌味を全て集めたような不快な時間へと変わった。ジュスタンの手前、出来の良いベアトリスを褒める訳にはいかなくなったからだ。
アーサイト王立学園に入学した頃からはジュスタンの書類仕事の補佐をするようになった。補佐の仕事はジュスタンからサインを貰うだけの状態に書類を整えておくことと教えられた。
添付するための資料の用意、関係各所への根回しや情報の裏取り、誤字脱字の確認も済ませておかねばならない。
学園での成績維持と締切ギリギリで渡される書類仕事とのバランスが難しく、睡眠を減らす日が増えた。睡眠時間が減ったご令嬢は何を失うのか。美貌、健康、やる気、記憶力、希望……
短期間でベアトリスはジュスタンが見初めた頃の愛らしさからはかけ離れた姿になっていった。良く言えばスレンダー、悪く言えば貧相。げっそりとした頬、鋭い眼光。チラッと見ただけなのに睨まれたと言われた。
誰に?ジュスタンに侍っている子爵令嬢、マルガリタ・リムドルに。さらにジュスタンの叱責が飛ぶ。
「おい!そんな目つきで彼女を見るなと言っただろう?リタの可憐さに嫉妬しても仕方ないだろが!お前のように老け込んだ女が俺に愛されるとでも思っているのか?図々しい」
誰のせいでベアトリスがこんなに疲れているのか想像もできないというのか、図々しい。
しっしっと追い払うように手をヒラヒラさせたジュスタンはマルガリタの腰に手を回してベアトリスの前を横切って歩いていく。あちらは自習室がある方向だ。
今は生徒会の会議が行われているはず。生徒会長は不要なんだろうか。そもそも勉強が苦手らしい二人が自習室に何の用があるというのか。ジュスタンの護衛が自習室にいた生徒を追い出し、誰も入らないように入り口に立った。
彼らはそんなことをするために日々鍛錬を重ねているわけではないだろうに。同情的な視線を送ったベアトリスに返ってきたのは侮蔑的な視線だった。
まるでベアトリスに魅力がないからこうなったとでも言いたそうな視線。彼らはベアトリスの何を知っているというのか。
王宮でごく限られた文官としか交流がないベアトリスは、ジュスタンの仕事を肩代わりしていることが周知されていないことを知らなかった。つい先日までは。
親切な文官が教えてくれた時は驚いた。それに補佐は上司の指示で動くのだとも知らなかった。
「信頼されているのですね」
彼はそう言って羨ましがったが、単純にジュスタンの指示を待っていたら間に合わないからだ。
疑問点を聞いてから答えが返ってくるまでどのくらいの時間がかかるかなど考えるまでもない。答えは返ってこないのだ。質問するだけ無駄な時間が増える。締切は待ってくれない。そもそもギリギリなので。
上司の許可なく動いているベアトリス。彼女がしていたことは越権行為なのかもしれない。王族への不敬?そう思い至ってからは尚更自分の存在が目立たないように振る舞った。その結果がこれだ。
王族に不敬を働いた後のことを思えば騎士のあんな視線、どうってことはない。単なる個人の問題だ。王族への不敬は家の問題。どちらがマシなのかはハッキリしている。
「はぁ、なんかもういいかも」
とうとうベアトリスは全てがどうでも良くなった。王子妃になりたいと思ったことは一度もない。妃という名の王族の奴隷。
「やーめた!」
そのまま職員室へ向かったベアトリスは学園を早退した。
学園からにしては早すぎる帰宅。ベアトリスを出迎えたのは昼食後のまったりとした時間を楽しんでいた母親のソフィーだった。最近は王宮で寝泊まりをしていたベアトリスが帰宅したのはほぼ一年ぶり。痩せ細った愛娘の姿を見たソフィーは顔色を変えた。
「ベス、一体全体何があったと言うの?なぜこんなに窶れてしまったの?」
ソフィーの瞳が涙でいっぱいになる。
「お母様、私、王族へ不敬を働いてしまったかもしれません。王宮では仕事漬けでした。締め切りを守るためにはジュスタン殿下の存在が邪魔だと考えるようになっていました。それがいけなかったのかもしれません。それに、ジュスタン殿下には既に懇意な女性が」
「何ですって!?」
哀しげな表情から一転、悪魔も逃げ出しそうな表情のソフィー。そばにいた執事にすぐに指示を出し、王宮で働く父親のライミと兄のニコラに使いを出した。
血相を変えたライミとニコラが帰宅したのは、ベアトリスとソフィーが夕食を食べ終えた後だった。締め切りに追われ、軽食ばかりで済ませていたベアトリスにとっては久しぶりのちゃんとした食事。
残念ながら胃が受け付けず、ほとんど食べられなかった。見かねた料理長が消化しやすいスープを作ってくれて、やっと栄養らしい栄養を摂取することができた。
ソフィーは食が進まないベアトリスを見て再び涙ぐんだ。学園入学後しばらくして、忙しいからと王宮で過ごすようになった愛娘との久しぶりの食事。
以前のベアトリスは食べるのが大好きで朗らかな娘だった。美味しそうに食べる姿、美しい肌、美しい髪、全て失われてしまっている。
王宮で大切にされているとばかり思っていたソフィーは怒りの炎を燃やしていた。ジュスタンがベアトリスを見初めたから、こちらで決まりかけていた婚約を断ってまで王家の意向に従ったと言うのに。
慰謝料を払って断った婚約者候補、ディディエ・タルナート侯爵令息。仲睦まじい二人を引き裂く者などいないと思っていたあの頃は遠い昔。彼は未だ新しい婚約者を迎えていないと聞く。
タルナート侯爵家との共同事業は計画通り実現したが、ディディエの想いを知っていた侯爵家の面々とは微妙な関係性のまま。こちらは多くのことを耐えたというのに、一番の被害者である愛娘に何をしてくれたのか。
「ソフィー、ベアトリスが虐待されていたというのはどういうことだ?」
ライミとニコラが勢いよく談話室に入ってきた。
「あれ?ベスは?」
ニコラは室内を見回した。
「疲労困憊でもう休ませましたわ。頬がこけて肌艶も悪く、普通の料理を受け付けない程でした。あんなに痩せてしまって……」
口元を手で押さえたソフィーの目からポロポロと涙がこぼれた。ニコラの前でソフィーが涙を見せるのは珍しいことだ。
「許せん!」
ライミは持っていたソフィーからの手紙を握りしめた。
「ニコラ、ソフィーにも情報の共有を」
「母上、帰宅が遅くなってしまって申し訳ありません。父上と私は後宮で何が起きていたのか情報収集をして参りました」
「丁度いい後宮の侍女がいてね。ニコラに興味津々だった」
ライミがニコラを労うように肩を叩いた。
「まあ!身体を張って調べてきてくれたのね」
「母上、ただのお茶会です。何なら使ったのは金銭の方です」
ニコラの報告を聞いたソフィーは悔しくて堪らなかった。ベアトリスへの仕打ち、利用するだけ利用して陰口を叩く陰湿な人々。ライミとニコラからの面会申請はベアトリスには届いていなかった。
「ベスは王宮にある後宮に入れられていたのでしょう?同じ王宮で働く家族にも会わせないなんて信じられないわ」
「過去の事件のせいだからそれは仕方のないことではあるよ」
家族という名目で後宮に男を連れ込み、愛人と愉しんだ強者がいたのだそうだ。
「そう言えば、ベスは王室では仕事漬けでジュスタンは役に立たなかったそうよ。それにジュスタンには既に愛人がいるようなの」
「侍女の証言とも一致します」
ニコラは確信を得て頷いた。
「我々は書類に騙されていました。ジュスタン殿下の書類はとても良くできているのです。添付資料が分かりやすい上に情報も間違いない。このような仕事をする方だったら、ベスとのことも上手くやるだろうと信じてしまいました。あの書類をベスが一人で作っていたのだとしたら、相当睡眠時間を削っていたでしょう。学園での成績も保っていたのですよね?」
「ええ。成績優秀で表彰されたのよ」
ニコラは何度も頷いた。涙を堪えているのか、表情は険しい。
「明日の朝一番に、ベスを修道院へ入れましょう。まずは療養が必要です」
ライミはニコラの提案に頷いた。
「確かに良い手だ。ライテルノ領の教会に預けよう。ニコラが病院を併設しておいたのが役に立つな。家族と言えど男性が入れないから、王子からの接触も避けやすいだろう。それにあそこにはうちの騎士が常駐しているからな」
「ルーシス伯母上の教会ですか?」
「ああ。ベスも見知った者がいた方が過ごしやすいだろう。それに姉上はベスを可愛がっていたからな」
「父上、今夜中に移動した方が良いかもしれません。ベスが目覚めるのを待っていたら仕事ができる文官連中に気付かれて横槍が入るかもしれません。彼らの職場も過労気味なのでベスがいなくなるのは避けたいはずです。伯母上の所ならこんな時間に連れて行っても受け入れていただけるのでは?」
「疲労困憊で休んでいるベスを移動させるのは心苦しいが、確かにそうだな。眠ったまま抱き上げて運ぼう」
「そうね。荷物は後でも良いわ。ルーシスお義姉様に甘えてしまいましょう。先触れもなしで良いと思うわ。その方が急に体調が悪くなったようにも装えるし」
ベアトリスの部屋で痩せ細った姿を見たライミは辛そうな顔で天井を見上げ、涙を堪えた。泣くのは後だ。毛布で包んで抱き上げると、あまりの軽さに心が痛んだ。
「誰?」
ベアトリスがうっすらと目を開けた。
「ベス、お父様だよ。姉上のところへ行くよ。安心して眠りなさい」
「はーい」
安心したように再び眠り始めたベアトリスを見て、そのあどけなさに胸が締め付けられた。
幼い頃のベアトリスを思い出す。未来には幸せしかないように思えたあの頃。王族への献身の代償がこの姿か……。
馬車で揺られながら父親の膝の上でスヤスヤと眠るベアトリス。愛娘の幸せを取り戻してやりたい。ライミは愛娘を腕に抱いて、先導する騎士と共に教会に隣接する家のドアを叩いた。
「ライミじゃない!こんな夜更けにどうしたの?腕に抱いているのは……、ベス?ベスなの?こんなに痩せてしまって……。とにかく私の部屋にベスを運んで寝かせましょう」
就寝間際に叩き起こされたというのに冷静に対応してくれる姉ルーシスには頭が上がらない。ライミは今分かっていることを全て伝えた。自分たちが異変に気付けなかったことも。姉に隠し事をすると碌なことがないのは経験上よく分かっている。
「そう。分かったわ。情報は保身のために届けなかったんでしょうね。嘆かわしいことだわ。ベスのことは王宮に婚約解消を願い出るのが良いと思うわ。王宮で無理をしたようで月のモノが止まってしまった、ルーシスにこのままでは世継ぎは難しいと診断されたので、とでも言っておけば良いわ。彼ならきっと診断書なしでも対応してくれると思うの」
「なるほど」
「ただ、ここまで痩せていると本当に止まっている可能性もあるわ」
「え。ではベスは……」
「ちゃんと療養すれば大丈夫よ。私たちには知識も実績もあるから安心してちょうだい。そもそもお産は命懸けなの。どちらにせよ今のベスには勧められないわ。後日正式な検査結果を王室に送ると伝えておいて」
「分かった。あんなに痩せてしまってなぜ噂にもならなかったのか……」
「過ぎたことを言っていても仕方がないわ。さあ、ベスは私たちに任せて、あなたはやるべき事をやりなさい。そうそう、しばらくは面会謝絶よ。体の回復にはたくさん眠った方がいいの。次にベスに会う時はあなたにそんな悲しい顔はさせないと約束するわ」
「姉上……。姉上にはいつも助けられてばかりだ。ありがとう」
「天使のような甥と姪に会わせてくれたことでお釣りがくるわよ。あなたはあなたの場所で戦ってらっしゃい」
ルーシスに見送られたライミはベアトリスの睡眠を邪魔しないように、顔を見たい気持ちを必死に抑えて帰宅した。寝る間を惜しんで婚約辞退の手紙を書き上げ、そのままライミとニコラは王宮へ向かった。宰相のモリス・ギルマンに会うために。
モリスはギルマン伯爵家の次男で、ライミの学園時代からの親友だった。ライミとモリスは側妃派なので、正妃や彼女の第一子ジュスタンに関連する情報が入ってこない。
ベアトリスとジュスタンの婚約は、正妃派と側妃派の和解の象徴でもあった。結局和解などできておらず、ボロボロになったベアトリスが帰宅するまで何が起きていたのか掴めてすらいなかった。無力だ。
ライミとニコラの訪問を受けたモリスは、緊急案件として王との謁見を捩じ込んだ。側妃が先に男児を産んだことから生じた妃の派閥争い。女同士のいざこざに疲れていた王は、手紙を読んで頭を抱えた。
「ライミ、ニコラ、すまなかった」
王の異例の謝罪と共に、婚約解消が即決された。慰謝料もくれると言う。口止め料も入っているのだろう。結構な額だった。そもそもライテルノ公爵家に負い目がある王。前回払えなかった分も含まれているのかもしれない。
「ライミ、すまなかった。ジュスタン殿下のこと、もっと疑うべきだった」
帰り際、モリスも謝罪した。
「私たちも同じだ。ベスに謝っても謝りきれない。モリス、顔を上げてくれ。これからもよろしく頼む」
「分かった。俺も今からでもできるだけの事はする」
モリスはライミとニコラを見送って、王宮へと戻って行った。歩く姿は心なしかやる気に満ちているようにも見えた。
明るい日差し、鳥の声、パンが焼けた良い匂い。ベアトリスは久しぶりにスッキリと目が覚めた。父親にお姫様抱っこをしてもらった幼い頃の夢を見ていた気がする。
「あら?ここは、どこ?」
知らない部屋の中を見回す。
「ベス、おはよう、お久しぶりね」
「ルーシス伯母様!」
破顔したベアトリスはベッドから飛び出ようとしたが体がついてこなかったようで、身体が傾いた。
慌ててベアトリスを抱き止めるルーシス。触れた身体の細さが痛ましい。
「まだ急に動いてはダメよ。あなたが思っているよりも体が悲鳴をあげているの。随分無理をしていたようね。全部伯母様に話してちょうだい。今日はじっくり聞かせてもらうわよ。仕事はお休みなの」
少しずつゆっくりと食事をしながら、ベアトリスはこれまでにどんなことがあったのか話し始めた。ルーシスは何度も頷きながら根気強くベアトリスの言葉を待った。怒りを抑えるのに必死だった。
深夜に運び込まれたあの夜から一ヶ月が過ぎた。病的な細さからは解放されつつある。そろそろ面会謝絶を撤回しても良さそうだ、という医師の言葉を受け、早速ライミとソフィーが訪ねてきた。
「お父様、お母様、ご心配をおかけしました」
「ベス、良かった」
三人の親娘は互いに抱き合って再会を喜んだ。教会の居住区にはライミが入れないので、隣接しているルーシスの家で会わせてもらった。弟特権だ。
ライミによると、ジュスタンとの婚約は無事解消された。しかし、その後も何度か登城命令が来たと言う。ニコラの懸念通り仕事が溜まってしまったようだ。第二王子の評判が良く、通常業務以外にも仕事が舞い込んで早々に許容量を越えたらしい。
あっという間にジュスタンの本来の仕事ぶりが露呈して、今ではほとんど任されなくなった。その方が良いかもしれない。依頼する側にとっても。
側妃派は今が好機とばかりに第二王子の下に何人かの文官を送り込んだ。仕事が回り始めるにつれ王宮内も落ち着きを取り戻し始めた。これで正妃派の情報が取りやすくなったし、仕掛けやすくもなったとライミは嬉しそうだった。
「当時は正常な判断ができない状態だったとは言え、もっと早く相談するべきでした。お父様にもお母様にもご心配をおかけしてしまってごめんなさい」
ベアトリスは申し訳なさそうにそう言った。げっそりとした様子が薄れ、健康を取り戻しつつある様子が分かる。
「お父様こそ、王宮で働いていながら正確な情報を得られず申し訳なかった。誰が本当のことを言っているのか今回のことでハッキリしたから、今後に活かしていこうと思っている。とは言え、ベスとやつの再婚約はあり得ないから活かす場はもうないかもしれないがな。はぁ、名前を呼ぶのも忌々しい」
まだ回復期ということであっという間に面会の時間は終わってしまった。また来るから、と名残惜しそうに両親は帰路についた。
それから数日が経ち、また面会者が教会を訪ねてきた。お忙しいのに、と両親を慮ったのも束の間、ルーシスの家ではなく、教会の面会室に通された。中にいたのは長髪の女性だった。
誰だろう?仕事に追われていたベアトリスに親しい友人はいない。顔を入り口から背けていたその女性は、ベアトリスがドアを閉める音に気づいて振り向いた。
「美人……」
思わずそう言ってしまった。でもどこかで見たことのある顔。そう、彼に似ている。
「ディ」
ベアトリスがそう言いかけた途端、その女性はすごい速さで近づいてきてベアトリスの口を塞いだ。
「ディーですわ。ベアトリス様」
少し低めの艶っぽい声で耳元で囁かれた。この香り、そして瞳の色。封じ込めた過去の想いが一気に溢れ出てきた。口を押さえた手を掴んで両手で包む。
「ディー、あなたなの?会いに来てくれたの?」
「ええ。良い方法が他にあったら良かったんですけれど」
「なんて美人なの。素敵。どんな姿の貴方でもかまわないわ。会えて嬉しい」
「まあ、ベスったら情熱的ね。ねえ、座りましょう?まだ本調子ではないのでしょう?」
「だいぶ戻ったとは思うのだけれど、伯母様はまだまだだとおっしゃるの」
「体を壊す時は一瞬に思えるかもしれないが、負荷がかかっていた期間は気づかないものだ。その倍以上の時間をかけて体を癒すと聞く。今はまだ無理をしてはいけない時期なんだろうな」
「ふふ。口調が戻ってしまっているわよ。この部屋は防音ではないのよ」
「二人きりだからつい。今日ここへ来たのはあなたの考えを聞いておきたかったからなの」
「私の考え?」
「ええ。あの花畑での約束はまだ有効か?」
ベアトリスの心臓が大きく跳ね上がった。王子妃教育の影響かつい冷静さを装う。
「もちろんよ。一度は諦めたけれど、もし諦めなくても良いのなら、あの約束を守れるのなら、そんなに嬉しいことはないわ。もちろん体が治ったら、という条件が付くけれど」
「体が治らなかったとしてもかまわない」
「そういうわけにはいかないのではなくて?」
「なんとでもなるし、なんとかする」
「そのことについては時間がほしいわ。そもそもお医者様の許可がないとここからは出られないし」
「そうだね。まずは療養だね。今日は貴方の気持ちが聞けて嬉しかった。こんな姿になってまでここに来て良かった」
ディーはベアトリスに手を差し出した。真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳から目が離せない。ベアトリスは差し出された手に自分の手をそっと重ねる。ディーはベアトリスの手を取ってその指先に唇を寄せて微笑んだ。
花畑での約束の時にはなかった大人の色気にベアトリスは頬が熱くなった。ディーの瞳に宿る何かに今は気付きたくなくて、ベアトリスは目を逸らしてディーの耳を見た。
髪の間から覗く少し色づいた耳。余裕があるように見えるけれどそうではないのだと知って、喜びが体中を駆け巡る。ベアトリスにとって特別な人はディディエただ一人。心の奥底から喜びが溢れ出てくる。彼から離れて生きていくのは心を無くすようなものなのだとやっと理解した。
ベアトリスの体調が戻り、社交界に復帰した頃には二人の婚約が整った。ジュスタン諸共正妃が失脚したのだ。ジュスタンの横暴が露見し、彼の被害にあった女性たちが王族を相手に何度も訴訟を起こした。
敗訴続きで求心力を失った正妃は後宮で居場所を無くした。被害者の弁護をしたのはディディエだった。飛び級で学園を早々に卒業した彼は弁護士になっていた。
側妃の侍女にもジュスタンの被害者がいた。裁判後、ディディエが挨拶に行った時「前正妃に害された親友の仇が取れた、単なる自己満足だけれど」と哀しげに微笑まれた姿がお気の毒だったそうだ。
ジュスタンの裁判の後、ディディエはアレンドル侯爵家が持っていた爵位の一つを継いで、フォルツァ伯爵となった。
彼は伯爵位だが、実家は侯爵家、妻の実家は公爵家、側妃の庇護下にもある。側妃はルーシスの親友で、ベアトリスの最愛であるディディエのことも可愛がってくれている。
こうして真実を炙り出しても潰されない最強の男が誕生した。彼は、地位にものを言わせて横暴に振る舞う者たちを次から次へと断罪していった。
ジュスタンの裁判が落ち着いた頃、側妃が正妃となり、第一王子が王太子として指名された。継承の儀に合わせたお祭りに各国からの旅行者で街が賑わう。
ディディエの弁護士事務所はお祭りの喧騒が少し聞こえるくらいの裏通りにある。今日は夫婦になって初めての大きなお祭りの日だ。街歩きを楽しんだ後で、その事務所に立ち寄った。
執事の男性が事務所で迎えてくれた。どうやらお客様がいらっしゃるようだ。清楚な印象の女性だ。
「ディー、お客様がいらっしゃるのなら、私は別室で時間を潰していようかしら」
「彼女はマルガリタ・リムドル子爵令嬢、君のお客様だよ。全てが終わったら会わせる約束だったんだ。よく分からないことを言うとは思うが、君の熱烈な信奉者のようなんだ。害はないはず。もし、何かあっても僕がなんとかするから」
あの時ジュスタンと自習室に消えていった女性の名がマルガリタだったような?混乱したままそのお客様の前のソファに座る。隣にはディディエ。そのお客様は突然泣き出した。
「……生でディーベアの幸せそうなツーショットが見られるなんて嬉しい!あたしまで幸せな気分!それに成長したベア様想像以上に美しいし素敵!あー、ここまで辿り着けて良かった。あたし頑張った!やり遂げた!星道のモブに生まれた時はどーしよっかと思ったけど、推しカプのためになんとかできるのはあたししかいないって命懸けで頑張ったの。あの花畑での告白シーン、あのままの幸せな二人が見たかったからこのエンディングに辿り着けてマジで良かった。それにベア様が過労死してディー様が闇堕ちしちゃうとうちの可愛い義弟達の生活が困窮しちゃうの。だってディー様が国を崩壊させちゃうでしょう?そうなったらあたしも困るし。血が繋がらない先妻の忘形見のあたしにもほんっとに良くしてくれる良い家族なの。だからとにかくなんとかしたくって!はー、ほんっとに良かった!」
「ディーは聞き取れたの?」
「僕は何回か聞いてるから大体分かるよ。それに僕が法律を学び始めたのは婚約が解消された後に王家を転覆させてやろうと思ったのがきっかけだったからあながち間違いでもない」
「情報ありがとうございます!やっぱりそうだったんだ!嬉しい。合ってた。友だちとそうじゃないかって話してたことがあったんです!正しかったー!伝えたいけど伝えられないのがもどかしいなー。何か連絡方法とかないですかね?」
「マルガリタ様」
「リタって呼んでください。ピザみたいな名前であんまり好きじゃないんです」
「リタ様」
「リタ、でお願いします」
「リタ、あなたのおかげよ。ありがとう。あなたがジュスタンと自習室に行くのを見送った後、全てが好転したの。あれが私の考え方を変えたんだと思うわ」
マルガリタはまた涙を流した。
「光栄です。どうかずっとずっとディー様と幸せでいてください!」
困ったように微笑んだベアトリス。その微笑みを見てさらに何かを言いながら感激している様子のマルガリタ。彼女の話はほとんど分からなかったが、ベアトリスの幸せを願ってくれていることだけは分かった。
完
*誤字報告ありがとうございました!
助かります!