ぺちぺち虫
以前別のところで書いた作品の手直しなので、ごく稀に読んだ方がいるかもしれません。
ブーン、ぺちっ。
学習机正面の出窓に、不快な音が響く。机に向かってまじめに宿題をしようとしていた三月は、恐怖で固まった。
この音は――ぺちぺち虫。やつが窓にぶつかったときに発する音だ。
ぺちぺち虫。正式な名称なんて知らん。知りたくもない。形状はカブト虫のような殻に、てんとう虫のような丸形。コガネムシってやつかもしれないけど、色は黄金でもなんでもなく、茶てゆーか、う○こ色。空を飛びやがって、意味もなく壁や窓にぶつかって、ぺちぺち音を立てるからこう呼んでいる。
昔は、男の子に混ざって雑木林でカブト虫とかとって遊んでいた三月だが、気付くとちゃんと、ゴキブリを見て悲鳴をあげられるようになった。あぁ、これがこの時期に言われる、女の子らしくなるってやつなのね、などとひとり納得していたりする。今ではゴキブリじゃなくても、昆虫一般、蛾だろうが蝶だろうが、部屋に入られたら大騒ぎなのだ。
ぺちぺち虫は、夏に現れる害虫だ。光に誘われて明るいところにやってくる。だったら昼間生活しろ、とツッコミたくなる。
エアコンのないこの部屋は蒸すため、網戸状態にせざるを得ない。三月は恐る恐る、音のした出窓を見た。心臓が止まりそうになった。いた。黒い粒が張り付いている。しかも、三つも!
視線をそらさず、ゆっくりと立ち上がる。手探りで、学習用国語辞典を手に取ると、網戸に向かって突きを加えた。
「消えろっ。この下等生物っ。おとといきやがれ――じゃなくて、くるなっ」
ばし。ばしっ。ばしっ。ばしっ。ばしっっ。
三匹より多い回数の突きを網戸に加える。網戸は反動で大きく揺れ、くっついていたぺちぺち虫が、はがれて消えた。
はぁ……はぁ……はぁ……
三月は大きく息をついた。気付くと汗がびっしょりだ。だが、私は勝ったのだっ。これでやっと安心して勉強もできると言うことだ。とりあえず、勝利の報酬として漫画でも読もう。
しばらくして……まだ、漫画を読んでいたころ、またあの音が聞こえたのだ。
……ブーン…………ぺちっ……
…………まさか?
三月は耳を凝らす。確か、今の音は、背後から聞こえたような……。机の正面の出窓に視線を移す。さっき撃退したにもかかわらず、黒い粒が性懲りもなく二つ張り付いていた。二つ……?
網戸の防御は完璧ではない。窓と網戸の隙間から虫どもは入り込んでくる。でなければ、あの足長虫との決闘(階段まで追い詰めて、新聞紙で勝利)や、巨大蛾との死闘(カーテンと窓ガラスのコンビネーションで、外に追い払うことに成功)があるはずがないのだ。
だからといって、なんで、何で今日、ぺちぺち虫が来なくちゃならないのよっ。勉強しなくちゃイケナイのにっ――とさっきまで読んでいた漫画のことは忘れる。いや、これは宿題せず漫画を読んでいた自分への、神様の罰なのでは? ごめんなさい神様。三月はちゃんと勉強しますんで、今日のところはなにぞと、ぺちぺち虫を追い払ってくださいませ。お願いします……
お祈り中……
ぺちっ、という音は聞こえない。
「……ふひゅぅ」
三月はほっと胸をなでおろす。どうやら消えてくれたようだ。もしかしたら部屋に入り込まれたのも気のせいかもしれない。そうだそうに決まっている。
ぺちっ。ぺちっっ。
「………………」
今のは、確かに聞こえたよな……
これは気のせいではない。現実逃避するな三月。やつはこの部屋に潜んでいる。ここでやつを見逃して、就寝することなんて、できるはずがないっ。
三月はゆっくりと振り返った。白い壁紙が基調の部屋。やつの姿は目立つはず。そして……いやな予感は的中してしまった。いた。
はめ込みの本棚の上の木枠の縁の上。黒い丸粒が見えた。
いや、あれはきっとゴミよ。お母さんったらちゃんと掃除してくれないんだから、といまだに信じたくなかった三月だが、黒い粒が移動した途端、表情から精気が消えた。
よく確認はできない(したくないし)が、やつは例のぺちぺち虫である可能性は高い。
やつの姿を見逃さないように、視線を固定したまま、机の引き出しを開けて中を漁る。書道セット入れから、筆をくるんでいた新聞紙を取り出す。筆をぺちぺち虫を刺激しないように、静に放り投げて、三月は立ち上がった。ゆっくりと、ゆっくりと本棚に寄る。
はぁ……はぁ……息が荒い。あとは、あとはこの新聞紙を一閃させるだけで事足りるのに、その勇気が出ない。やっぱり家族を呼んでヘルプを頼んだほうが良いかもしれない。いや、いくら虫を怖がるのが女の子らしいとしても、もう中学生になるのに、虫一匹始末できなくては、笑いの種だ。けどけど……
葛藤していると、突然、虫がぴくりと動き出した。
「とりゃーーーーーっ」
反射的に、三月は右腕を振るった。本棚の縁に新聞紙を叩きつける。べしっ。
新聞紙をどかす。ぺちぺち虫は縁に止まったまま。動きはない。
仕留めたのか? 仕留めたに決まっている。死骸は縁の上のままだが、処分する勇気も気力も、もう残っていない。とりあえず寝てしまえ。あとは学校に行っているうちに、掃除に来たお母さんが見つけて捨ててくれるはずだ。
そう結論付けて、三月は漫画本を手に取った。宿題はもういい。あした学校でしよう。とりあえず漫画を読んで気分を変えて、烏龍茶飲んで歯を磨いて寝よう。
それでもぺちぺち虫が気になって、なんども振り返る。振り返る。そして、何回目だっただろうか。異変が。縁に黒い粒がないっ!
まさかまさかと視線をめぐらすと、絨毯の上に探していた黒い粒が。
「……ひゃっ」
しかも動いているっ! まだ生きていたなんて、神様の意地悪。こうなったら意地でも宿題しないで漫画読んでやるんだからっ。と、無視して漫画に目を通してみたが、ぜんぜん頭に入らないっ。集中できるはずない。背後にはぺちぺち虫がいて平然とできる奴がいたら見てみたい。今はまだいい。けれどいつ、飛んで壁に当たって発生する、あの不快な音を立てるか分らない。例え音が聞こえなくたって、存在自体が悪。
……やっぱり、殺るしかないのか。
三月は嘆息して、念のための備えとして、机の上に置いたままにしておいた丸めた新聞紙を手に取った。絨毯に視線を移す。ぺちぺち虫は、さっきと同じ位置にいた。実はやはり死んでいたのかなぁと淡い期待を持ったら、あざ笑うようにてこてこ動いた!
がたっ。三月は椅子ごと後ずさる。幸い、ぺちぺち虫はその音に驚いて飛び出すこともなく、しばらく動いて、また止まった。
「……もう……やだよぉ」
心の中で泣きながら、三月は立ち上がった。天井の照明を確認。自分の影がぺちぺち虫に重ならないよう注意しながら、やつのそばに移動する。
やりたくない。生きているのも嫌だが、死骸だって、やだ。プールから帰ってきた後、ごろごろ転がりまわるのが大好きな絨毯を汚したくもない。けど、けど。やつを仕留めないことには、人生の平穏は訪れないのだ。
(ごめんね。君に恨みはないけれど、ていうか人間様の部屋に入った時点で自業自得なんだから、大人しく死んどりゃー)
ぺしっ。
少し手加減をして(思いっきり潰して変な汁が絨毯に付くのがやだった)叩いた。反動で新聞紙をどかす。潰れてはいない。衝撃で右の羽が飛び出している。動きはない。死んでいる。勝ったのだっ。三月は新聞紙を右手で持ったまま、左手をティッシュ箱に伸ばし、しゅしゅしゅしゅと十枚連続で取る。紙というより、厚手のタオル並みなったティッシュの塊を死骸の上に放り落とし、そうっと端を握って持ち上げる。やつを手に取った感触は感じないが、ティッシュがどいた後に、やつの姿はない。
三月はそれを確認すると、ダッシュで机脇のゴミ箱へ向かい、ティッシュごとそれを放り込んだ。愛用した武器である新聞紙も同じように捨てた。
………………
しばらく呆然とゴミ箱を見つめていた三月は、ぺたりと絨毯の上に座り込んだ。
終わった……。勝ったのだ。私はっ!
あぁなんていうんだろうこの気持ち。まるでレベルアップした感じ。幸せな人生に万歳。お父さんお母さん私を生んでくれてありがとー。人生バラ色だぁぁ。
ころころと絨毯の上(もちろん、殺害現場は避けているが)を転がりまわる。
幸せと勝利を充分堪能した後、三月は机に向かった。宿題をしよう。漫画も読もう。徹夜でラジオを聴いちゃうのもいいかも。とってもハイな気分。嫌いじゃない。
ランラン気分で、順調に宿題が進む。ちょっと一息しようかな、と思って手を止めた。
そのとき、
じじじ……ぺちっ。
三月の全身の毛が逆立つ思いをした。いや、まさか、そんなわけが……
ぺちっ、ばちっ! ごとごそ……っ
無視するには激しすぎる音が、三月の座る机の隣のゴミ箱の中から音が発生していた。三月はすでに全身に冷や汗をかきつつ、ゴミ箱をなるべく遠くから覗き込んだ。広がったティッシュの下で、あきらかに、何かが動いている。
――なんでやねん?
思わず三月の脳裏に関西人でもないのに関西弁。現実逃避への憧れがあろうとも、目の前の現実は事実であり真実である。
さっきまで大人しかったのが嘘のように、ぺちぺち虫はその名の通り、激しくゴミ箱に衝突しているのだろうか。派手な音がひっきりなしに耳に入る。
生きていたのだ。奴は。私をあざ笑うかのように、死んだフリをして、このときを待っていたのだ。
こんな状態で、すぐ隣の机で勉強なんてできるはずがない。もちろん漫画だって。だからと言って、この部屋で寝るなんてもっと出来るはずがない。この部屋を封印して、別の部屋で寝ることもできるけど、封印の理由を家族に説明するのは、恥だ。仮に締め切りに成功したとしても、翌日、必ずどこかにぺちぺち虫が生息している部屋。入るなんて、出来ない。
ならば、やることは一つ。ここで決着をつけるしかないのだ。
虫の生息度が高い中島家だが、スプレー式殺虫剤などと言う文明の機器のないアナログな家だ(殺虫剤がデジタルかと言えばそんなことはないけど)。武器と言えば、ぺちぺち虫と一緒に捨てた丸まった新聞紙。縦に放り込んだので、少しゴミ箱からはみ出ている。今座っている状態でも、腕を伸ばせばつかむことができる。だがそれは、ぺちぺち虫に接近すると言うことで――
(ええぃっ)
三月は身体をよじってゴミ箱の新聞紙をつかむと、ゴミ箱につっこんだまま、それを左右に振り回した。ここで決着をつける。ティッシュに覆われてぺちぺち虫の姿は確認できない。それ以前に三月の顔面はゴミ箱とは正反対の窓に向いていてかつ瞳を閉じている。バシバシと鳴る音。これはゴミ箱を新聞紙で叩く音か、ぺちぺち虫の反撃の音か。手ごたえは感じられない。もどかしい。永遠にも感じる時間が経ち、いらだつ三月の手に力がこもりすぎて――勢い余ってゴミ箱を倒してしまった。
「――ひぃっっ!」
白いティッシュが散らばる。がぺちぺち虫の姿は見えない。恐る恐る新聞紙でティッシュをどかした瞬間だった。
なにか黒い物体が、見えたかと思うと飛び立って、避ける間もなく、三月の頬に触れた。
ぺち。
「―――――――っ!!」
声は出なかった。ただ、三月の中で何かが、切れた。やっぱり自分も、よく言われる「切れやすい小学生」だったんだ、などという後悔など感じる余裕もなく、切れた。
「ぶっ殺すっ!」
飛び回る黒い輩に向けて、むやみやたらに新聞紙を振り回す。手ごたえっ。ぺちぺち虫が絨毯に落ちる。三月は全身で大きく呼吸しながら、ゆっくりと後退する。後ろ手で部屋のドアノブを手にして、ゆっくりと閉める。これでこの部屋は密室となった。逃がさない。この人間様――三月様にたてついたことを死ぬほど後悔させてやるていうか実際死なす。
ぺちぺち虫はしつこく飛び上がって、また壁に当たって音を立てるが、もう恐怖も怖さも感じない。
「逃げたいのかい? にがしゃぁしないよ……いっひっひっひ……」
やがてぺちぺち虫は、動きを止めた。そこは絨毯の上に置きっぱなしになったマンガ本の上。にやりと三月は笑みを浮べた。最初の縁のように、角の隙間で新聞紙から逃れることも出来ない。絨毯の上のように衝撃を和らげることも出来ない。おまけにあのマンガは弟の部屋から勝手に持ってきたもの。思いっきり叩くのに遠慮はいらない。
やつは自ら死地に乗り込んだのだ。
三月は大きく息を吸い、ゆっくりと歩み寄り……
「死ねやぁぁぁぁぁぁ!」
本気モードの一撃。激しい音。大きくしなる新聞紙。手ごたえはあった。ゆっくりと新聞紙をどかすと、かなりひしゃげて変な汁にまみれたぺちぺち虫が姿を見せ、ぽとりと絨毯に落ちた。だがこれまでの失敗は繰り返さない。さらに追い討ちをかけるようにぺしっっと新聞紙を絨毯に叩きつけた。さらにぐいぐいと押し付けてやる。
勝った――
ゆっくりと勝利の実感がわいてきた。ティッシュ箱から大量のティッシュを取り出して死骸の上に掛ける。出来たティッシュの山をつまみ、死骸を掴んでいることを確認。
今度はそのままゴミ箱に捨てずに、丸めこむ。さらにティッシュを取り出しては、球体に加えてゆく。ひと箱丸ごと使い終わると、ティッシュの塊は、たっぷりソフトボール(というよりドッチボールの方が近いかも)のような球体となった。やつの感触は完全にない。それを思いっきりゴミ箱に投げ込んだ。
――終了
完全勝利だ。私は奴に勝ったのだ。
あぁなんていうんだろうこの気持ち。まるで魔王を倒した感じ。幸せな世の中に万歳。弥生、愛してるよー。人生虹色だぁぁ。
たっぷり幸福を堪能していると、汗がどっと噴き出てきた。
そういえば、部屋を閉めっきりだったことを思い出す。這うようにしてドアを開けると涼しい空気が入ってきた。
「あー、きもちー」
窓と、思い切って邪魔な網戸もあけると、より快適になった。あ、お月さまがきれい。
そのとき、何かが顔のそばを横切った。
ブーン、ぺちっ。
泣きたくなった。
これもまた「夏のホラー」ですよね。
季節はずれですいません(笑)