2 アーニーとの出会い
寝返りを打とうとして、激しい痛みで目が覚めた。
(痛っ……)
目を開けたが、頭がグルグル回る。熱が出ていたのか、身体が火照って熱い。
(ここはどこなのかしら……)
誰かに落とされて、断崖から真っ直ぐに落ちて行った。水面に落ちた瞬間のことは、もう覚えていない。
(あの高さから落ちて無事だったなんて。自分の強運に驚くわ)
目だけをキョロキョロと動かしてみる。どうやら、木造りの小屋のベッドに寝かされているようだ。
(親切な人が助けてくれたのかもしれない)
小さなストーブの火ががパチパチと燃えていて、その上に鍋がかけられている。スープでも煮込んでいるのか、いい匂いが部屋中に漂っていた。
(お腹……空いてきたかも)
お腹が空くくらいなら元気だろう。そう思って身体を動かそうとしたが、
「痛たたたっ……」
思わず声が出てしまった。
「起きたのか」
その時、ドアが開いて一人の青年が入って来た。歳の頃は二十二、三だろうか。艶のある黒髪に切長の瞳。瞳の色は深い紺で優美な光をたたえていた。面長な顔は彫りが深いのに角張っておらず、一瞬女性と見紛うほどの美しさであった。
青年は真っ直ぐにベッドへ近寄ってくると、屈んで顔を覗き込んだ。
「瞳に生気が戻っているな。熱はだいぶ下がったようだし」
額に手を当てて熱を測りながら言った。柔らかな声とひんやりした手がとても心地良い。
「あの……貴方が私を助けてくれたのですか?」
青年は鍋の蓋を開けてスープを器に注ぎながらコクリと頷いた。
「水音が聞こえたので見に行ったら、ちょうど君が浮かび上がってきたところだった。滝に流される前に引き上げなくてはと、少し焦ったよ」
スープをテーブルに置くと、背中とベッドの間に手を入れ、そっと起こしてくれた。
「あっ、痛い……」
「痛いだろうな、あの高さから落ちたんだ。しかし、打ち身だけで骨折はしていないようだ。綺麗に落ちたようで運が良かったな」
痛みをこらえてなんとかベッドの上で座ると、温かいスープを手に持たせてくれた。
「キノコのスープだ。これを食べて薬を飲んだらまた休め」
「ありがとうございます……」
フーフーと冷ましてからゆっくりと口に運んだ。ミルク色のスープはキノコの出汁が出て、とても美味しい。
綺麗に食べてしまうと青年は解熱の作用があるという丸薬と白湯を渡してくれた。それを飲み、ひと心地ついてから改めてお礼を言った。
「本当に、ありがとうございました。こんなに良くしていただいて、何とお礼を言ったらいいか」
「礼など別に構わない。森の中ではお互い様だ」
「貴方は、ここに一人で住んでらっしゃるの?」
動きやすそうなベージュの開襟シャツに茶色いズボン。農夫か狩人のような服装をしている青年に尋ねた。
「私は、アーニーだ。アーニーと呼んでくれていい」
アーニーは横に来て白湯を飲み終わったカップを受け取ると、毛糸で編まれたショールを肩に掛けてくれた。
「ここに住んでいる訳ではないんだ。ここは……そうだな、気分転換したくなった時に来る所だ。一人になりたい時とか」
「じゃあ私、一人の時間をお邪魔してしまったんですね。ごめんなさい」
「そうだなあ。せっかくのんびりしていたのに、とんだハプニングだったな」
彼は笑いながら冗談で返してくれたのでホッと安心した。
「ところで、どうしてあんな所から落ちてしまったんだ? 差し支えなければ聞かせてくれないか」
「ええ、お話したいのですけど、実は……私、何故落ちたのか覚えていないんです」
「それは……どういうことだ?」
「誰かに落とされたのは覚えているんです。崖の上には二人、いました。彼らの笑い声も覚えています。でも、顔も名前もわからない。それどころか、自分の名前も思い出せないんです」
そう、さっきからそこだけが思い出せないのだ。真っ白な世界で引き出しをあれこれ引っ張ってみるのだけれど、いくら開けても中には何も入ってなくて、どの引き出しも空っぽーーいわば、そういう感じ。
うーん、と腕組みしながら考えているアーニー。
「頭を打っている様子はないし、おそらく精神的なショックだろうな。……そうだ、君の着ていた服に何か手掛かりがあるかもしれない。びしょ濡れだったから外で干してあるんだが」
(ん? という事は、今着ているこの服は)
思わず下を向き、自分が着ている服をまじまじと見た。いい感じに着古された寝間着は大きくて、袖丈がかなり余っていた。
「ああ、とりあえず私のを着せておいた。大き過ぎるが我慢してくれ」
「ちょ、ちょっと待って! という事は貴方が着替えさせてくれたという事で……」
「そうだが?」
(は、裸を見られちゃったの?)
ショックで真っ赤になっているところにアーニーのトドメの一言が飛んで来た。
「心配するな、私はもう少し肉付きのいい方が好みだ」
(肉付きって! そりゃあ確かに、胸とかまだ未発達だけども! )
「そ、それはそれで失礼ですっ!」
あまりの恥ずかしさに急いで布団に潜り込んだが、身体が痛いのをすっかり忘れていたので全身に激痛が走ってしまった。
「アイタタ……! 」
「こら、無理するな」
アーニーは愉快そうに笑うと、布団を綺麗に掛け直してくれた。
「今日はもう眠るといい。私は床で寝ているから、何かあったら起こせよ」
「ありがとうございます……」
布団に隠れたまま小さな声で礼を言った。自分の名前も忘れてしまったというのに、明るいアーニーのおかげであまり不安に襲われることもなく、ほどなく眠りに落ちていった。
翌朝、目覚めると熱は下がっており、身体の痛みも幾分良くなっていた。
(薬のおかげかしら。ちょっと身体を起こしてみよう)
全く痛まないとは言えないが、なんとか動けている。
(良かったわ……あら、アーニーは? 出掛けたのかしら)
そっとベッドから降り、窓辺に立って外を覗いてみた。すると、剣で一心不乱に素振りしているアーニーが見えた。
(狩人かと思ったけれど、何のお仕事をしている人なんだろう。軍人さんかしら? でもそれにしては物腰が柔らかいし)
美しい素振りに思わず見惚れていると、アーニーの向こう側の木にドレスが吊り下げられているのを見つけた。
(あっ。あれがきっと私の着ていたドレスね。調べてみなくちゃ)
ゆっくりとドアまで歩いて行き、押し開けようとした。しかし、ドアは案外重たく、少しだけ開いたがまた閉まってしまった。
(うーん、まだ力が入らないみたい)
すると突然勢いよくドアが開き、目の前にはアーニーが立っていた。朝日を背にして立つ彼は、まるで後光を放つようにきらめいていた。
「あ、おはようございます、アーニーさん」
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい、おかげさまで。身体もだいぶ楽になりました」
「外に出るつもりだったのか?」
「ええ、アーニーさんを見ていたらあそこに干してあるドレスが目に入ったので」
アーニーは首に掛けていたタオルで汗をゴシゴシと拭うと、失礼、と近付いてサッと横向きに抱き上げた。
「な、何するんですか?」
突然の事に驚いて声を上げたのだが、アーニーは気にする様子もなく抱き上げたまま庭をつっきって行く。
「靴も流されて裸足なんだから、こうしないとあそこまで行けないだろう?」
「あ、ああ、そうですよね。ありがとう、ございます」
木に吊るされたドレスは、触ってみるとまだあまり乾いていなかった。
「まだ干しておかないとダメですね。それに私を抱き上げるんじゃなくて、ドレスを部屋に持ってきた方が早いし良く乾くのでは」
「あ。確かにそうだな」
二人は目を合わせて笑った。
「じゃあ朝食にしよう。もう川で魚を釣ってきてあるんだ」
「ええっ、すごいですね、アーニーさん。なんでも出来るんですね」
ふふん、とアーニーはちょっと得意げに笑った。
昨日のスープの残りと焼いた川魚を食べながら、アーニーは覚えていることと忘れていることの確認をしていった。
名前、家族、友人、住んでいた場所。それらはまったくわからない。しかし言葉や物の名前、使い方などは覚えているので、日常生活を送るにはまったく困らないことがわかった。
「着ていたドレスからして、貴族だろうと思う」
アーニーは言った。
「言葉使いも庶民とは違うしな。貴族の令嬢が行方不明になっているのだとしたら、調べればすぐわかるとは思うのだが」
「この場所って、エルニアン王国とガードナー王国の国境の辺りなんですね。私、どちらかの国の人間なのかしら」
「どちらも同じ言葉を話すからまだわからないな。とりあえず、その二つから調べるのが早いだろう。ガードナーならすぐに調べがつくから、まずはそこからだ」
「どこに行けば調べられるのでしょうか?」
「まあ任せておけ。ドレスが乾いたら、着替えて出発しよう」
「はい、よろしくお願いします」
「そういえば、君の名前を決めないとダメだな。仮の名前、何がいい?」
「名前、ですか」
何も思いつかないのでしばらく考え込んでいると、アーニーが提案してくれた。
「じゃあ、メアリでどうだ? 我がガードナー王国の守り神、母なる聖女メアリの名前は子供の名付けで一番人気なんだ」
(そうね……記憶を取り戻すまでの仮の名前なんだし、よくある、ありふれた名前がいいかも)
「では、メアリでお願いします」
「よし、じゃあメアリ。出発まで休んでいろ。私は用事を済ませるから」
少し疲れてきていたのでありがたくベッドに横にならせてもらった。一部屋しかない小さな建物なので、アーニーが片付けや火の始末をしているのがよく見える。
(とてもマメに動く人なのね。手際もいいわ。どこかのお屋敷の執事だったりして。うん、それ、すごく似合いそう)
アーニーを見つめるうちに食後の薬が効いてきたのか、『メアリ』はまた眠りに落ちていった。