将棋の神様へ
手のひらからスマホをぶん投げた。
悔しさが乗ったスマホは、畳の上にしかれた薄い布団に、叩きつけられドンと跳ねて転がった。
それが、礼を重んじる日本の伝統的な芸ごとの将棋を観戦していた事すら忘れたような
暴挙である。
暴挙であるというのは、わかっているけれど、それでも感情はこうすることが正しいと、身体を動かしていて、スマホをぶん投げた。
もしも、将棋の神様とやらがいて、この暴挙で勝てなくさせているとかだったら、今すぐにでも悔い改めるだろう。
必死に祈ってた時にもそんな事を考えてあたから、ご利益とかはないか、この薄汚い思想的に辟易しているかのどちらかだろう。
都合の良いことしか考えないなぁと思われているのだろうか。
真剣さに欠けると、そう思われているのかもしれないし、一々、都度都度、長々と祈りと言うよりは怨嗟の声に近いかもしれないのだから。
お願いいたします。
勝利を。
相手をリスペクトもせず悪手を願い。
あぁ あぁ あぁ あぁ
思い返すだけでも、ろくなことを願っていないこともある。
願いですらないものが、届く道理はないと言うことだろう。
頭をかきむしったり、水を飲んだり、のたうち回ったり、興奮したり、希望をもったり、絶望を受け止めたりしているこの心身で応援
しても、届くことはない。
神様にも。
応援している棋士にも。
届くことはない。
応援で強くなること、応援で勝つこともないだろ。
両者の健闘を、いの一番に称えられたら素晴らしいだろう。
正論も理想もわかってはいる。
だけども、相手を称えるより、悔やむのだ。
恨めしいし、無力だし、何で、どうしてと問いかけ、血がのぼり、吐き出した息と声に理性は締め付けられる。
将棋の神様がいるのならば。
棋士がこちらを見たのならば。
勝てば喜び、負ければ苦しむ、当事者でもないファンをどう思っているのだろうか。
薄汚く、ただ棋士を応援している。
どうにもならないような祈りを捧げて、勝利を待ち望む僕をどう思っているのだろうか。