母の遺言
真一はすでに三十一歳になり、会社は順調であったが、ただ彼の恋愛だけは霞がかかっていた。
彼が玲子を訪ねたのは、好子が別れを告げた二日後であった。翌日にでも飛んでわが子に会いに行きたい思いであったが、あいにく北海道への出張が欠かせず、その翌日になってしまった。
彼は空港で三歳の女の子が喜びそうなものを店員に選んでもらい、その足で玲子の家へ向かった。彼が彼女の家についたのは午後四時を回っていたが、店員に尋ねると玲子は恵利佳を保育園に迎えに行っているらしい。家に入るわけにもいかず車の中で待っていると、五分もしないうちに玲子とかわいい女の子が手をつないで、楽しそうに歌をうたいながら帰ってきた。
急いで車から出て立ち尽くす真一に気が付くと、玲子は友達にでも会ったようににこやかに手をふった。
「ママ、だあれ?」
「どこかのおじちゃん」玲子はしゃがみ込んで恵利佳の目を見てそう言うと、真一に向って微笑んだ。彼には二人の会話が聞き取れなかったが、そばまで来ると「久しぶり」そう言って右手をかるく上げた。
「どうぞ、上がってください」
「えっ、上げてくれるのか」
「どこかのおじちゃん、どうぞ」かわいい女の子が手で促してくれた。
「かわいいねぇ。お名前は?」
「恵利佳よ」
「そう恵利佳ちゃん、いい名前だね。はい、これはお土産だよ、どうぞ」
初めてわが子を見る喜びに真一は唇を震わせながら目頭を熱くした。
「うわっー、ありがとう」恵利佳がはしゃぐ横で
「そんなところで泣かないでよ」
それを見ていた玲子が突然冷たく言い放った。
「おじちゃん、どこか痛いの?」愛娘に聞かれ、
「うん、ここが痛いの」彼は胸を押さえながら赤ちゃん言葉で答えた。
「結婚するんでしょ」玲子の言葉にはっとした真一は
「逃げられたよ。全く……」
何か言いかけたが言葉にはしなかった。
「どうして?」他人事のように玲子が問う。
「どうしてって、君たちのことを話したら責任取りなさい、二人を見守りなさいって、なんか人の不幸の上に自分の幸せを築くことはできないとか、わずかに残っている可能性を自分が断ち切ることはできないって……」
「そう……」玲子はどんな人だろう、会ってみたいと思った。
信也には好子の言葉が胸に突き刺さっていたことに加えて、恵利佳の存在は何ものにもかえがたく、そのことが玲子への思いを再燃させ、やはり結婚相手は彼女以外にはいない…… と思うようになっていた。
「玲子さん、もういいんじゃないか。皆で来るのがいやだったら俺がここに住むよ」
「バカなこと言わないで……」
「……」真一には返す言葉がない。
「今ね、親子三代ですごく幸せなのよ、静かに時が流れているのよ。今はとても緩やかに人生が流れているのよ。今はとてもこの流れを変えることはできない。ごめんなさい。本当に感謝している。でも、あなたはあなたの幸せを見つけて……」
俯く真一に
「おじちゃん、ママに何お願いしているの?」恵利佳が尋ねる。
「おじちゃんはねぇ、ママに結婚して下さいってお願いしているんだけどね。ママが嫌がっているの」
「そう、かわいそうね。でも、ママに嫌われたら仕方ないわね」
突き刺すような愛娘の言葉であった。
「今日は帰るよ。でも、諦めないから……」
彼は、病床にある母親に挨拶をして玲子の家を後にした。
翌日、彼が玲子の家を訪ねたのは午後五時前であった。
玲子は恵利佳と買い物に出かけているらしく、その時、店員が出てきて玲子の母が会いたがっていることを真一に伝えた。
彼は病床にある玲子の母のもとへ急いだ。
「お義母さん、すいません。二日も続けておしかけて……」
頭をかきながら照れ笑いする彼に向って玲子の母、珠代は話し始めた。
「ほんとにごめんなさい。この年寄りが生きながらえているばかりに、あなたやお父様にご迷惑をおかけしてしまって……」
「いえいえ、とんでもないです。こちらこそ知らずに長いことほったらかしにしてしまって本当に申し訳ないです」
「ありがとう、この年寄りは娘と孫の幸せを犠牲にして生きながらえてきました。この身が口惜しくて、口惜しくてなりません。でも運命を断ち切ることもできず、ここまで生きてしまいました。真一さん、ご結婚は?」
「いえ、まだです。先日、逃げられてしまいました」
「正直な方ね」
「そんな……、でも考えたら玲子さんしかいないんですよ。彼女が受け入れている運命が私にはよくわからない」
「ほんとに長いこと待たせてすいませんでした。でも、もう後、そんなに永くありません。どうか、玲子と恵利佳のことよろしくお願いします」
「お義母さん、任せて下さい。でも、そんなに気弱なこと言わないでくださいよ。私がここに住んだっていいんですよ。だから永くないなんて言わないでくださいよ」
「あなたは優しい人ね、ほんとに優しい人ね。でもね、その優しさが玲子に意地を通させてしまうかもしれない……」
「えっー、お義母さん、どういうことですか?」
「私が死んだあと、あの子は、絶対に……、母親が死んだからって、はい、待っていました、それじゃあ結婚します、そんな恥知らずなことはできないって、絶対にそう言いますよ」
「確かに」俯く真一に
「強引に進めて下さい。四十九日が済んだら、玲子には有無を言わさず、私の遺言だと言って強引に進めて下さい。恵利佳には言い聞かせますから…… それから、遺言は仏壇の下の段の奥に入っていますからあの子にお願いします」
「わかりました。でもお義母さん……」
「でもよかった。あなたがもし結婚していたら遺言は処分するつもりでした。よかった。絶対にお願いしますよ」そういうと彼女は目を閉じて静かに眠り始めた。
その夜、残されたわずかな力を振り絞って、その思いを、まだ幼い恵利佳に伝えた玲子の母は、安心したように眠りについた。
そして彼女は、その日が変わって深夜一時、静かに息を引き取った。享年六十八歳、早すぎる死であった。早くに夫を亡くし、女手一つで玲子を育て、六十五歳を前に病床につき晩年はベッドの上での生活が続いた。
枕もとで涙を流しながら母を見つめる玲子は、それでも、この苦悩の中、母がその天寿をまっとうしてくれたことに感謝していた。
家事を任されていた頼子から連絡を受けた高井彩がすぐにやってきた。故人に手を合わせた彩が玲子に「全て仕切らせていただきますので……」静かに伝えた。
彼女も「お願いします」といつになく素直に頭を下げた。
初七日の法要を済ませ、七日ごとのお参りも真一は欠かさなかった。
四十九日の法要が済むまで真一は何も語らなかった。玲子は納骨を済ませ、お寺さんが引き上げる時、「それではまた明日」と言い残して去って行ったことをやや不思議に思ったが、住職を見送ると、再び墓前で手を合わせ皆にお礼をいった。
家に帰り、そこで膳を食べるのは、玲子に恵利佳、真一に欣也、そして高井彩、薬局の朝子に家事手伝いの頼子、親族のない珠代にとってはありがたい人々であった。
膳に箸をつけながら故人の思い出話が進む中、おもむろに立ち上がった真一が仏壇の下の戸を開けごそごそ始めると、
「何わしているの?」玲子が驚いたように尋ねる。
「うん、お義母さんの遺言があるはずなんだ……」とぼけたように彼が答えるが
「えっ、そんなこと聞いていないわよ」驚いたように玲子が口を挟む。
「うん、言っていないと思うよ」腰をかがめた彼が覗き込むがよく見えない。
「おじちゃん、どけて」恵利佳が小さな手を入れて、さらに奥にある隠し扉を開けると、そこから封書を取り出した。
「はい、おじちゃん、これでしょ」封書の表には力ない文字ではあったが『遺言書』と書かれていた。
「恵利佳、おばあちゃんから聞いていたから……」誇らしげに小さな女の子が言うと
「えっ、どうして私が聞いていないの」再び玲子が驚く。
「頑固だからじゃないか」真一が笑いながら言うと
「やめてよ」玲子は参ったと言わんばかりにため息をついた。
「恵利佳ちゃん、これママに渡して」
母の遺言書を手にした玲子はおそるおそる封を切り、中身を取り出すと静かに目を通した。か細い字ではあるが、母の字に間違いなかった。
最初に、四十九日の法要が済んだら、父さんと母さんの位牌は永代供養にしてくださいということ。
次に、この家と薬局をどうするかは、真一さんに任せて下さい、ということ
そして最後にはこう記してあった。
『 玲子、長い間有難う。私は、娘と孫の幸せを犠牲にしてここまで生きてきました。この身が恨めしく、いつも死ぬことばかり考えていました。それでも、この試練を乗り越えれば、きっと玲子と恵利佳は幸せになれる。そう信じて、今日まで生きながらえてきました。
でも、もうそんなに永くありません。あなたは真一さんのところへ嫁ぎなさい。そして恵利佳にお父さんと呼ばせて上げて。ここからは、あなたのきれいごとや、意地だけでは生きていけませんよ。
後のことは真一さんに全てお願いしてあります。だからここからの人生は、光園持の家に捧げなさい。あなたの意地を許してここまで支えて下さった真一さんのお父様に恩返しなさい。それができないあなたは、人として恥ずかしい人間ですよ。
真一さん、そして真一さんのお父様、ほんとに長い間、有難うございました。玲子は、これからは光園持の家のため、精一杯努めると思います。どうかこれからも、娘と孫のこと、よろしくお願いします。
最期に、田川の家は私たち一代で終わらせます。だから、永代供養を考えました。お墓のことも含めて細かいことはお寺さんにお伺いして進めて下さい 』
涙でかすむ亡き母の遺言を最後まで読み終えると、玲子はそれを真一に渡した。それを読み終えた真一も、目を真っ赤にして「おやじにも見てもらうよ」そう言って欣也に手渡した。
欣也が読み終えるのを待って、玲子はきちっと座りなおすと
「お父さん、彩さん、本当にありがとうございました。お二人のお力添えがなければ、恵利佳と私はここにいなかったかもしれません。こんな穏やかな思いで母を送ることなんてできなかったと思います。本当にありがとうございました。これからは光園持の家で精一杯尽くさせていただきます。どうかよろしくお願いします」と深く頭を下げた。
その決意を聞いた時、真一はもちろんだが、欣也と彩の張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れた。
「よかった。ほんとによかった。うれしいよ。玲子さん、こんなうれしいことはないよ。有難う。有難う、よく決心してくれた」
喜ぶ欣也の横で、彩の目頭もあつくなっていた。愛人ではないのか、と噂されながらも、ここまで光園持の家を影で支えてきた彩の肩の荷が一つおりた瞬間であった。
「恵利佳ちゃーん、ここにおいで」
恵利佳を胡坐の上に座らせた真一は
「恵利佳ちゃん、おじさん、本当は、恵利佳ちゃんのパパなんだ」と告白をした。
「えっ、ほんとのパパなの?」恵利佳は振り向いて真一の顔を見ると
「そうなの? 恵利佳ね、ほんとのパパはもっと若くてイケメンかと思っていた」
そこにいた者全員が声を上げて笑った。
「ごめんね、イケメンじゃなくて」
笑いながら謝る真一に向って恵利佳は続けた。
「でもいいよ。ゆるしてあげる。パパ、お金持ちみたいだから」
もう誰もがお腹が痛くなるまで笑い、その明るさは全てを振り払うかのような勢いだった。
そしてついに、玲子と恵利佳が光園持の家へ入った。
一九八九年、八月の暑い日であった。
これを機に、離れに移った欣也は五十四歳になり、静かで穏やかな時間を過ごしていた。