光園持に宿る命
欣也はその後しばらくの間、会社へは顔を出さず自宅で事務をこなしていた。
その日も、秘書の高井彩が持ってきた文書に目を通し、一段落して暦を目にした彼は、ふと玲子のことが気にかかった。
彼はいつも傍らで影のように寄り添い、彼にかかわる全てを仕切っている女性、高井彩に彼女の近況を調べるように頼んだ。彼女が去って既に三ヶ月が過ぎていたが、その特殊な事情を理解している彩は他人に依頼することなく自らが動いた。
その二日後、玲子が妊娠していて、間違いなく真一の子供を宿しているとの報告を受けた欣也は驚いた。会社は大きな課題もなく、彼を悩ますような案件はほとんどなくなっていたが、それでもさすがにこの報告には動揺した。
初孫だ、どうする、何ができる……
彼にしては珍しく考えがまとまらないまま、彩を伴って玲子を訪ねた。
玲子は大学の講師は止め、実家で病床にある母の面倒を見ながら薬屋を営んでいた。
突然の来訪者に彼女は驚き、欣也の瞳に見つめられると、涙が急にあふれ出して止まらなくなった。
欣也にはその涙の意味が痛いほどよくわかった。
女性でありながら頼る人もなく、病弱な母を世話しながら生活の糧である薬屋を懸命に守ってきた。その女性がお腹が大きくなるにつれ将来に不安を覚えないわけがない。
欣也はそう思うと、彼女が挨拶に来たあの日が最後と思いこんでしまった自分がとても情けなかった。
「玲子さん、申し訳ない。今まで気がつかず、本当に申し訳なかった……」
彼は始まりよりも終わりを大事にする人間であった。
懸命にお願いをしてきても、ことがなった後はほっとしてお礼を忘れてしまう人が多い。彼は常に終わりを大事にするように人に説いてきた人間であったのに、自分がそのことを怠ってしまったために、初孫の母親にとんでもない苦労を強いて精神的に追い詰めてしまった。
彼は一瞬の内にその後悔で覆い尽くされてしまった。
玲子は涙にぬれた目を上げて、
「とんでもないです。全て私が選んだ道ですから。お義父様には十分していただきました。それなのに、こんなところまで…… 」
そこまで言うと、
「真一にすぐ知らせるから……」そう言いかけた欣也は、玲子の強い言葉に遮られた。
「それはやめて下さい」静かにそう言って俯いた彼女に向って、
「何故なんだ、意地を張っちゃいかんよ。状況は変わったんだから、三ヶ月前とは違うよ」
と欣也がなだめるように語り掛けると、
「いいえ、違うんです。三ヶ月前と同じなんです。挨拶にうかがったあの日、私はこの子が既にお腹の中にいることを知っていたんです。病弱な母の世話と、この子を父親のいない子にすることとの狭間で悩みました。でも私は別れを選択しました。それは覚悟の上で決めたことです」
涙ながらに話す玲子だったが、欣也は少し興奮して目を閉じた。考えようとしても頭が全く回らない、言葉が思いつかない。
何とか彼女を説得しなければ…… 懸命に考えるが、一ミリも前へ進めない。
しばらくの沈黙の後、
「お義父さん、有難うございます」気を取り直した玲子が静かに続ける。
「今はだれも煩わせたくないんです。ここは、私が頑張らなければいけないんです。別れてはみたけれど、やっぱり大変なので結婚します。母もまとめて面倒見て下さい、なんて、そんな人間にはなりたくないです。この子にいつか私の人生を話してあげる時に、恥ずかしくない母親でいたいんです。」
玲子はお腹をさすりながら微笑んだ。
欣也は再び目を閉じて、小さく何度も頷きながら玲子の言葉に耳を傾けた。
「ですから真一さんには知らせないでください。いつかはそんな時が来るかもしれません。でも今はその時ではないと思っています」
そう続ける玲子に向って、欣也は
「そうか、わかった。でも何かあった時には必ず頼ってほしい。君が真一の妻でなくても、この子は私の孫なんだよ。何か力になりたい」
言い知れぬ不安は残ったが、それでも玲子のこの思いは遮ることはできない、そう痛感した彼が静かに、さみしそうに、そして訴えるように思いを言葉にのせた。
「もちろんです。何かあったら頼れる人はお義父さんしかいませんから……」
さみしく微笑む玲子に、欣也は頷きながらほんの少し気持ちが楽になるのを感じて、一瞬なごんだ空気が流れた。
しかし、ここまで後ろで静かにこのやり取りを聞いていた高井彩が突然、この空気を切り裂いた。
「会長、だめですよ。おかしいですよ」
驚いて振り返る欣也と玲子をかわるがわる睨み付けるように見つめながら彩が続けた。
「お二人のやり取りは、とても美しくて、心をひかれます。でも、それは玲子さんの自己満足とわがままじゃないですか…… 真一さんのところを去ったのはわかります。今ここを逃げ出して真一さんのところへ帰ることができないというのもわかります。でも、誰も煩わせたくないという思いは玲子さんの自己満足だと思いますよ。ここは子供のために精神的にも、経済的にも会長の力を借りるべきです。何かあってからでは遅いですよ。壊れたものは新しく買いなおせばいいですが、子供の命はそうはいきませんよ。そんな軽いものではありませんよ。もし今後、玲子さんが無理をされて、流産でもしたらどうなさるんですか! 流産してから、助けて、なんてことになるんですか。子供の命がかかっているんですよ。放っておいても子供は元気に生まれてくるなんて考えていたら大間違いです。お二人とも、今ここで最優先するべきことは、この子を無事に出産して、この子の命を守っていくことではないですか!」
妊婦に使ってはいけない【流産】という残酷な言葉をあえて持ち出し、彩は二人に迫った。
欣也が、彼女を大事にするのはここであった。自分を理解し、全てを自分に代わって取り仕切っていくこの人ほど欣也を理解している人間はいなかった。欣也は十分にそのことを知っていた。それに何よりも、立場をわきまえているにも拘らず、遠慮しないで異を唱えてくれることで、これまでに何度も彼は救われた思いがしていた。彼女はそれを信じさせるに十分値する人間であった。
欣也は彩に向って微笑むと
「また君に救われた。危うくこのまま帰るとこだった。君がいてくれてよかった。君の言うとおりだよ……」
彩も欣也の表情が緩み、いつもの彼に戻ったことを認識すると微笑み返してきた。
「どうすればいい?」彩を見つめて彼が尋ねる。
「はい、まず薬局を主で仕切ってくださる方をお一人、そして家事一切を仕切って下さる方をお一人手配して、玲子さんは子供のことを最優先にできるようにして、その間で気ままに薬局を手伝ったり、家事を手伝ったり、そんな思いで生活されるのがいいかと思います。さらに、お母様は訪問診療でドクターがニ週間に一度来られていますが、加えて週に三日、訪問介護をお願いし、お風呂や身の回りのお世話をしていただいてはどうかと思います」
何度も頷きながら、欣也は満足していた。
「もう段取りしているのかい?」
「はい。後はゴーサインを出すだけです」
欣也はうれしそうに笑った。これが彼の出すべき答えと考え、事前にことを起こす、この女性の鋭さは計り知れないものがあった。
「玲子さん、そういうことだ」
彼女は彩の【流産】という強い言葉に、この人の言うとおりだ。意地だけでは元気な子供は授かれないかもしれない…… そう思って目を伏せた。
玲子は欣也の手厚い保護のもと、翌年四月に元気な女の子を出産し恵利佳と名付けた。