恵利佳劇場
ピンポーン……
「入るわよー」
突然の恵利佳訪問に信也は慌てた。
「やばい……」時計を見ると六時半を回っていた。そろそろ理穂が来る時間であった。
考えて見れば、恵利佳はこの一ヶ月の間、全く顔を見せなかったが、彼女がこんなに長い間、信也のもとへ立ち寄らないのは珍しいことであった。
一方、恵利佳はドアを開けて足を一歩踏み入れたものの、「えっ」どことなく違和感に襲われ、入りかけていた身体をもう一度外へ出すと部屋番号を確認した。
「間違いない、信也の部屋だ」背で扉を閉めると部屋を見まわしながら
「信也、いるの?」少し声を張り上げた。
「いるよー……」つまらなさそうに彼が答えると
「何よ、その気の抜けた返事は…… 出てらっしゃい」
「ちょっと今まずいんだ」理穂と鉢合わせになった時を心配して色々と考えてみたがいい案が浮かばない。
「姉ちゃんには無理か……」
姉は騙せない…… そう思いながら、彼は奥の部屋から出てきた。
彼は、不思議そうにあたりを見回しながら突然流しのところへ行き、洗い物を確認する恵利佳を不安そうに見つめていた。
「ふうーん、あんた、彼女ができたの?」
突然、彼女はにやりとして信也を睨み付けるように尋ねた。その目は鋭く、全てを見透かしているようだった。
「いや……」
「うそおっしゃい、姉ちゃんに隠すつもり?」
「いや、食事を……」と言いかけたその時だった。
チャイムが鳴って「こんにちは……」明るい声と共に理穂が入ってきた。彼女は玄関にきちんと後ろ向きに並べられた高級そうなヒールを目にして、あわてて顔を上げ恵利佳がいることに気づくと驚いて、
「あっ、あの、出直してきます」そう言って立ち去ろうとしたが
「大丈夫よ、この子の姉です」
なんとも幸福感あふれる明るい声で答える恵利佳に、理穂は戸惑いながらも食材を持ったまま頭を下げた。
「あのっ、わたし……」困惑している彼女に向って
「いいから、いいから、とりあえず上がって!」
恵利佳のやさしく暖かい言葉に
「はい」とだけ答え、スリッパをはいて恵利佳の正面に立つと、
「安沖理穂といいます」改めて頭を下げる彼女に微笑みながら
「座って、座って!」と恵利佳が手招きする。
「私は多田恵利佳、この子の姉です。よろしくね」
そう言うと彼女は、信也と理穂をかわるがわるに見つめながら
「あなた達は、つきあっているの…… よね」と念を押すように問いかける。
信也があわてて「姉ちゃん、違うんだ、食事を作ってもらっているだけなんだ」
理穂に申し訳なさそうに言い訳すると
「はぁー……」恵利佳のトーンが少し高くなり、信也は一瞬「やばいっ……」と感じたが遅かった。
「何それ!」
恵利佳の大きな愛くるしい目がつりあがり信也を睨み付けた。子供のころはこんな状況の後で何度も叩かれたことがある。
信也が回答に窮していると理穂が続けた。
「材料費を信也さんが全て出して下さる代わりに、私は料理を作って食べさせていただいているんです。そのことで私は食費を節約できてとても助かっています。ほんとにすいません。でもお姉様がおいやでしたら、もうやめますので本当にすいません」
先ほど入り口で初めて恵利佳を見た時、理穂は想像とはあまりにかけ離れていることに驚いた。線が細く美しく、まさに華麗という言葉がよく似合うこの女性は明るくて、とても信也が話してくれた人のようには思えなかった。しかし、大きな目を吊り上げて怒りを表した恵利佳は、全くの別人になっていた。
「ちょっと待ってよ。そんなことは言っていないのよ」
そう言って信也を再びにらんだ。彼は姉が何を怒っているのか全くわからず途方にくれていた。
ただ、姉以外の人間の怒りなら気にもしないのだが、この姉だけには頭があがらない。
気を取り直して、恵利佳が再び尋ねる。
「いつ頃からなの?」
信也が思いだそうとしていると
「ちょうど一ヶ月前からです」と理穂が答えた瞬間
「はぁー……」恵利佳のトーンが一段と高くなり、再び信也を睨み付けると同時にテーブルをバシッと叩いた。
「あんた、ばっかじゃないの!」
彼女が呆れたように言葉を投げ捨て、空気が張り詰めた中で『ばしっ』という音だけが余韻を残した。
「姉ちゃん、何を怒ってるの?」信也が戸惑いながら問いかけると
「あんたねぇ、付き合ってもいない女に一ヶ月もの間、めしを作らせたの?」
「でもそれは彼女も納得した上で……」
「ばかっ!」彼女は腹が立つと、信じられないほど言葉使いが悪くなる。
「あんたねぇ、独身女が、三十日も続けて男の家に食材もって、めし作りにきているんだよ。それがどういうことかわからないのっ! それはもう男と女でしょ。それを男のあんたは『めし作ってもらってるだけです』って平気で言う? 女の立場はどうなるのよっ!」
「お姉さん、すいません! 私が悪いんです。すいません。本当にすいません」
慌てて早口で詫び続ける理穂に向って
「あなたは何も悪くないわよ」理穂に対しては口調がやや柔らかくなる。
「本当にごめんなさい。こんなばかな弟で……」
信也は、自分が世間の一般的な評価を理解できていないことに姉が激怒している、そう思ってほんの少しわかったような気がしたがそれは全くの勘違いであった。
「あんたねぇ、生まれて初めてそんな気持ちになって、どうすればいいのかわからなくて…… それはわかるよ、でもね、好きになったらはっきり言わないとわかんないわよ!」
「えっ」驚いたのは理穂の方だった。
彼女は大きな瞳を見開いて、恵利佳を見つめた。
「もし、彼女があんたに好意をもっていてくれたとしても、それでもあんたの気持ちがわからかったら、心がそんな時、もしいい男が現れたらそっちに行っちゃうわよ」
姉の言葉は弟の胸にぐんぐん突き刺さってきた。
「えっ」という顔で彼が理穂を見ると、
彼女は、とんでもありません、そんな人現れません…… というように、顔の前で小さく手を振り懸命に否定していた。
「欲しいのなら、はっきり言わないと…… 」
「……」信也は理穂を前にして返答に困った。だが、恵利佳は理穂の前で信也の思いを言葉に載せたかった。
「わかったの?」彼女は絶対に引かない。
「あっ、うん」恵利佳の前ではまるで子供である。
「こんなばかな弟だけど、それでもいい?」
何がどうなってこんな結論になるのか、理穂には全く理解できなかったが
「とんでもないです。信也さんはそんな風には思っていないし、ましてわたしなんか婚約破棄された女なんです。私なんかが彼女だったら信也さんが笑われます」
理穂は慌てて顔の前で『いえいえ』というように手をふって否定すると、俯いてしまった。
思いもよらない返事に、恵利佳は
「えっ、あなた、婚約破棄されたの?」
「はい」理穂が俯いまま、小さな声で囁くように答えると
「ははははははっ」恵利佳はお腹を抱えて笑い始めた。
「おもしろい」
「姉ちゃん、笑うなよっ!」
「ごめん、ごめん、でも、おもしろい、ありがたい男がいるね、おかしくて……」
この笑いを機に彼女はその場の雰囲気を一気に変えると、建設的な話を始めた。
「理穂さん、あなたの過去なんてどうでもいいのよ。あなただってこの子のことが嫌なら、いくら食費が助かるからといってもご飯なんて作らないでしょ。好意をもってくれているから続けているんでしょ」
「……」理穂は回答に窮した。
「私の言っていること難しい?」
「いえ、よくわかります。でも、私は婚約破棄されたような女で、そんな資格はないです」
「あのねっ、それは破棄した男のあなたに対する評価でしょ。信也の評価はちがうわよ。あなたのことが大好きよ。絶対にいっしょになりたいって思っているわよ」
「えっ」呆然とする理穂の傍らで
「姉ちゃん、露骨に言うなよ」信也はそう言いながらも理穂の反応が気になった。
「えっ、どうしてわかるの? って顔よね」
理穂の驚いた表情に恵利佳が突っ込むと、理穂は不安そうに無言で静かに頷いた。
「わかるのよ。この子はね、私が育てたみたいなものなのよ。この子が好きでもない女を一歩たりとも部屋に入れたりするもんですか。まして三十日もの間、めしを作ってもらうなんてありえない」
「……」理穂は、ただ、恵利佳に聞き入っていた。一言も聞き漏らしたくない、そんな思いで懸命に恵利佳を見つめていた。
「何度この子に女の子を紹介したことか。ある女の子にはアパートまで教えて、けしかけたのよ。アパートに上がり込めばこっちのもんだからねって、でも、その女の子は門前払いよ。少しは気にいっている感じがしたんだけどだめだった。そのうちに、私ももうあきらめたわよ。でも、今日はびっくりよ。こんなに驚いたの久しぶりよ」
真剣なまなざしで聞いていた理穂は
「本当に私みたいな婚約破棄された女でもいいんですか?」恵利佳に向って言ったものの、すぐに気になって信也に目を向けた。
「それ、あなたのトレードマーク?」
「えっ、そんな……」
「そんなこと誰も気にしないわよ。この子が選んだんだから。私だってそうよ。今日初めてあなたに会って、あなたのことはまだ何も知らないわよ。でも、この子がどれほどあなたを求めているのかはわかるわ、それだけで十分よ。この子がこんなに必死になった人なんて今までにいないもの…… これまで想像もできなかったことよ。それだけでもあなたを知ることができるわ。それにあなたを見ているとわかるわ、この子がぞっこんになるのが……」
「あ、ありがとうございます」
それでもよくわからない理穂は不安そうに微笑んだ。
「信也、それでいいのね」
「えっ、何が……」
「あんた、叩くわよ。ほんとに、もう! 一緒にいたいんでしょ、彼女と! 一緒になりたいんでしょ…… 結婚したいんでしょ!」
驚いて、再び目を見開いた理穂は信也の反応が気になって、祈るような思いで瞬きもしないで彼を見つめた。
返事に困った彼も理穂の反応が気になって彼女に目を向けたが、目と目が合った瞬間、彼は下を向いて「したい」とはっきり言った。
理穂はうれしかった。こんなにうれしいことはなかった。
かつて元カレとデートしていた時は義務に駆られているようなところがあって、信也といる時のようなときめきを感じたことはなかった。
休みだからデートに出かけ、結婚するから一緒に食事をする。そんな流されているような恋愛に疑問を持ったことはなかったが、信也と出会い、彼の食事を作るようになり、食事に対する彼の反応が気になり「おいしい」という彼の一言に幸せを感じ、いつもドキドキしながら彼の全てが気にかかり、一緒にいると幸せで心が穏やかになった。
それでも自分は婚約破棄された女だからと懸命に気持ちを抑え、心と身体がばらばらになってしまい、その持っていき場のない気持ちをどう整理することもできずに魂がさまよっているような感覚の中で、理穂は、この人ともっと早くに出会いたかった…… これがいつまでも続けばいいのに…… そんな思いに逃げていた時だったから、信也の『したい』という言葉を聞いた時、涙が滝のように流れ落ちるのをどうすることもできなかった。
彼女が泣き出したのを見て、信也は慌てた。
「みろ、姉ちゃんがあれこれ言うから、かわいそうに……」そう言う彼に向って
「お前は、ほんとにあほか」恵利佳が冷たい眼差しで呆れたように言った。
慌てた理穂が
「違います。信也さん、違います。うれしいんです。うれしくて……」涙にぬれた目を上げて懸命に気持ちを伝えた。
「信也ね……」恵利佳が子供に諭すように話し始めた。
「これが女の子なの。理穂ちゃんはね、あんたが結婚したいって言ってくれたから、うれしくて涙が止まらなくなったの。この小さい胸で、三十日間あんたのめしをつくりながら、あんな気持ちでいてくれたんだよ。それでも婚約破棄された女だから、そんな思いをもっても迷惑かけるだけだし自分が悲しいだけ、自分にそう言い聞かせてバカなあんたのためにめし作ってくれていたんだよ。あんたは三十日もの間、彼女がそんな思いでいることも知らずに、『食事を作ってもらっているだけ』ってそう言ったでしょ。姉ちゃんが怒るの、わかるでしょ」
「……」信也は無言のまま、静かに頷いた。
理穂は自分の心を理路整然と代弁してくれる恵利佳を涙目で見つめながら、再びあふれ出す涙を懸命にぬぐっていた。
信也も彼女の肩先の震えが愛おしくて、姉がいなければ抱きしめたい衝動をおそえることができなかったかもしれない。
「理穂ちゃん、大丈夫だからね、もう何も心配しなくていいよ」そんな彼女に向って恵利佳が微笑む。穏やかに包み込むような温かい恵利佳の言葉に、彼女はハンカチで目頭を押さえながら、何度も小さく頷いた。
理穂がやや落ち着きを取り戻したころを見計らって、恵利佳が話しかけた。
「理穂ちゃん、こんな弟でごめんね。ほんとだったらここで男が言うのよ 『結婚してください、絶対に幸せにしますから』とか気の利いたこと言ってさ…… でもね、ごめん! この子には無理、この子が言うとね 『ぼっ、ぼくとけっ、結婚してください』 こんな感じになるからダメ、こんなの言われた日にゃぁ、あなたね一生頭から離れなくなるよ」
「姉ちゃん」信也が気まずそうに言うのに合わせて、理穂も押し殺すように笑った。
「だからね理穂ちゃん、ごめん、わたしからお願いする。この弟と結婚してやってくれる?」
「はい、ありがとうございます。でもほんとに私でいいんですか?」
背中をシャキッとさせ、はっきり答えたものの、やはり婚約破棄のことは気がかりだった。
しかし、信也も「はい、お願いします」と彼女の不安に応えた。
「理穂ちゃん、このバカな弟のために言っておくけど、この子は決して話ができないわけじゃないの。得意な分野だと、いやになるぐらい話すわよ。人生なんて語らしたら一時間でも話すよ。でもね、女性をいたわるとか、女性を口説くとか、女性を楽しませるとか、その辺りは全くだめ。そこをわかってやって欲しいの!」
「……」 理穂が頷く。
「三十日もめし作って、一緒に食べていたらわかると思うけど、こんな優しい男はいないと思うよ」
「はい、私もそう思います」理穂の確信に満ちた思いであった。
「弟じゃなかったら、私が嫁になりたいぐらいだよ」
「えっ、俺いやだよ」
「ばか、こんな時は姉ちゃん立てて、俺もって、言うんだよ」
「そんな……」
「本当にありがとうございます。お姉さんに会えてよかったです。ほんとに、ほんとによかったです。ありがとうございます」
「この子はね、私には会わせたくなかったんだよね、たぶん」
「そんなことはないよ」
「だけどあんた、考えてごらんよ。姉ちゃんが今日来てよかったでしょう。姉ちゃんが来てなかったら、あんた、理穂ちゃんにまだ辛い思いさせているよ」
「感謝しているよ」そう言いながら、信也は、やっぱり姉ちゃんはすごい、俺はめし作って下さいって、ひきとめておくのが精一杯だったのに、姉ちゃんは、あっと言う間に結婚まで持ってきてくれた…… そう思いながら姉に感服していた。
「それじゃいいわね、これからは結婚に向けて準備を進めるわよ」
「えっ」驚く理穂に向って
「時間かけてもしょうがないでしょう。こんなことは邪魔が入らないうちにだだっとやってしまうのよ」
「だけど理穂さんにだって都合があるよ」信也が言うと
「何があるのよ。婚約破棄されたのに全て準備はできてるわよ。それにあんたねぇ、理穂ちゃんに気を使ったつもりかもしれないけど、そんなの思いやりじゃないわよっ。今の一言で理穂ちゃんはあんたが急ぎたくないのかって思うわよ」
「ええっ!」信也は目を丸くして慌てた。
「男だったらしゃきっとしなさい。決めたらその方向に向かって進む。わかった?」
「う、うん」
「ねぇ、理穂ちゃん、準備は問題ないわよね」
「えっ、そうなんですけど、本当に私でいいんですか。こんなに走ってしまって後から破棄されるようなことになりませんか?」
「ははははははっ」恵利佳はまたお腹を抱えて大笑いした。
「大丈夫!」強く言い切る恵利佳に理穂は不安そうに頷いた。
信也を大事に思い、彼を、特に、その心を育んできた恵利佳は、信也のチャンスを絶対に逃がさない。ともすれば、自然消滅するかもしれなかった二人のこの小さな愛をあっという間に結婚へと結びつけてしまった。これが彼女のすごいところである。
思いのかなった信也は、その喜びをどう表現すればいいのかわからなかったが、生まれて初めて味わうこの幸福感は尋常ではなく、とても言葉で言い表せるものではなかった。
「あっ、それから、どうせわかることだから先に言っておくけど、光園持グループって知っている?」
「あの大企業の光園持グループですか?」
「そう、この子の父親、そこの社長、おじいちゃんが会長」
「えっー!」理穂は、一瞬、頭が真っ白になった、と同時に息が止まりそうになり大きな瞳を見開いたまま思考が停止してしまった。
「でもね、この子は後を継ぐ気はないのよ」
「あっ、そうですか。良かった、ほんとに良かった……」彼女は心から安堵したように大きく息を吐いた。
「どうしていいのよ。この子が継いだら、理穂ちゃん、社長夫人よ」
「とんでもない、とんでもないです」理穂は顔の前で懸命に手を振りながら否定した。
「欲がないねぇー」
「いや、お姉さん、トレードで自立してちゃんとやっている今の信也さんでも、私にとっては天空の人です。なのに、社長さんなんかになられたら私みたいな凡人はとてもついていけません」
「残念だねぇー、あんたが社長夫人になりたいって言ったら、この子、覚悟したかもしれないのに……」
「えっ、そんなー」
恵利佳は理穂がそんなことを望む娘ではないこと、そしてそんなことを望む彼女だったら、信也はこの娘に魅かれていないこと、そのことがよくわかったうえで暗に光園持家の課題を彼女に伝えていた。
「わたしね、子供のころからこの子には厳しくしてきたのよ。私だって子どもだったのよ。でも子供心に、この子がパパの後を継ぐんだって思ってたのね。だから何度も手がでたわ」
「はい、聞いています」
「えっ、あんたそんなことまで話していたのに、食事作ってもらっているだけ、っておかしいでしょっ」恵利佳は信也をちらっと睨んだ。
「姉ちゃん、そこはもうよくわかったから……」
「それでね、この子、たいていのことは私の言うこと聞くのよ、怖いから。でもね、会社のことだけはだめだった。『ちゃんとしなさい、パパの後つぐんだからねっ』って言ったら、『それはいや』って言うのよ。『だって長男なんだから仕方ないでしょっ』って言っても、『それでもいや』って言うのよ。もうみんな諦めているけどね…… パパの後継ぎがいなくて困っているのよ」
そう言って軽くため息をつく恵利佳に
「でも、贅沢な悩みですよね」と理穂が他人事みたいに微笑むと
「そうなのよね。他人から見るとそうなんだけど、家族にとっては大変な問題なのよね。でもね、理穂ちゃん、あなたもそれを考える側になるのよ」
恵利佳が迫るが
「そんな、私には無理です。だめです。お姉さんがんばって下さい。お願いします」
驚いた理穂が拝むように言うと
「あんた、ほんとにおもしろいね…… あっ、ママに電話しとくわ」
突然の恵利佳に
「えっ、まだいいって」慌てて信也が止めにはいる。
「だめ」そう言って彼女は携帯を操作する。
『あっ、ママ』
『どうしたの?』
『ママ、信也、結婚するから』
『えーっ、どうしたの、そんな人いたの?』母の驚いた顔が目に浮かぶようである。
『いたのよ、こそこそやっていたのよ』茶かすように話す恵利佳に
「姉ちゃん!」信也が横から咎めるように口をはさむ。
『あなた今どこにいるの?』
『信也のところ、彼女もここにいるわよ』
『えっ、どうして急にそんなことになったの?』
何が起きたのか、想像がつかない母親の玲子は何をどうすればいいのか、先が見えてこないことにいら立ち、突き刺すような口調になってきた。
『どうしてって、二人がウジウジしているから、喝を入れたのよ』
恵利佳が楽しそうに答えると、
『えっー、あなたまた無茶したんじゃないでしょうね』
母は心配でならない。
『何もしないわよ。せき止めていたものを壊しただけよ』
さもあっさりという恵利佳に、
『心配だからママもこれから行くわ……』
『えっ来るの?』
恵利佳の反応に、信也はあわてて、手を振り拒絶するが
『あっそう。来るのなら、待ってるわ』
そう答えた恵利佳を見て、信也は慌てて
『行くから、行くから来なくていいって!』横で声をはりあげた。
それは母にも届いていた。
『これから行くんだって……』恵利佳は間髪をいれない。
「ちょっと待って、今日は無理だよ」あわてる信也をよそに、
『これから二人、連れて行くから』と彼女はあっさりと言った。
『そう、じゃあ、待ってるわ』少し落ち着いた母親がほっとして答えた。
「姉ちゃん、勘弁してよ。今日はダメだって!」
彼は今のこの喜びを、もっとじっくりとかみしめていたかった。
「何言っているの。親に会わせておけば、理穂ちゃんだって『やっぱり止めます』なんて言えないっしょっ」
これが彼女のやり方であった。方向が決まれば間髪入れずに外堀をどんどんと埋めていく。いつの間にか彼女の描いた果実が実をつける。信也は今までもこうして彼女に守られてきたのである。
一方理穂はその間のやり取りを、息を止めて見ていたがもう目がまわりそうだった。
「あっ、着替えないと……」 そんな心配をよそに恵利佳は「大丈夫、大丈夫」にこにこしながら帰り支度を始めた。
そして、奥から、淡いベージュのいかにも高級そうなジャケットを出してくると
「そのスラックスは、清潔感があるし、色合いもこのジャケットが合うんじゃない」
彼女はそう言ってそれを理穂に渡した。
理穂はおしゃれに気を遣う人間ではなかったが、それでも信也の所へ来るときは可能な限り気をつけていた。ブラウスの上に高級感あふれるジャケットを羽織ると、それだけで雰囲気がかわり、家へ帰って着替えるよりもはるかに素敵な服装になったように思えた。