欣也の最期
彼はその後、約一年を何もなかったかのように過ごした。
信也夫婦に三人のかわいいひい孫も間もなく三歳と一歳になろうとしていた。
先月からは、本人の入院はしないという断固たる望みに沿って、訪問ドクターの診療を受けていた。真一はドクターに、何をしてもいいから、逝くときは楽にいかせてやって欲しいと、そのことだけをお願いしていた。
ここ一週間はベッドで横になる時間が多くなり、駆け付けていた高井彩と玲子は心配そうにその傍らで見守る時間が多くなった。
信也と理穂も最初の双子を授かって以来、同居を続けている。
すでに酸素ボンベも装着され、呼吸が苦しそうなこともあった。
「今後は、痛み止めを使いながら、緩和に重点を置くことになります」
そういう医者の説明に、誰もが考えていなかった欣也の死を意識しないわけにはいかなかった。さらに三日間は、薬の量が増えるにしたがって、欣也の意識が飛ぶことも多くなり
「あと一週間はもたないと思います」と言う医者の言葉に皆は唖然とした。
誰も欣也のいない光園持を考えたことはなかった。誰もが見守る中、突然目を覚ました彼がか細い声で
「みんなどうしたんだ。葬式みたいな顔して、まだ死んでいないぞ。もうみんな帰れ。自分の生活があるだろ」
そう言って再び眠り始めた。
その二日後の夜は高井彩のたっての願いで、彼女が傍らで寝ることになった。理穂も深夜までそばにいたが、十一時を回ると信也と子供がいる部屋へ帰った。
深夜一時、目が覚めた理穂が、再び欣也の部屋へ行くと
「ちょっとお風呂に入ってくるから、しばらくお願いしてもいい?」小さく囁く彩に
「どうぞ、どうぞ、私がいますから……」
理穂は答えると傍らの椅子に腰かけた。欣也を見ていると静かに眠っている彼が何か語り掛けてきそうで、それでも彼は眠ったままで、彼女は目が潤むのをじっとたえていた。
その時、欣也の右手がかすかに動いたのを見て、彼女はその手を握って
「おじいちゃん、痛むの?」
静かに耳元でささやくと、欣也の口がかすかに動いた。
「ありがと」声にはならないが欣也の思いが強く伝わってきた。
それまで、かすかに上下に動いていた顎が静かに停止した。驚いた理穂は、
「おじいちゃん」小さな声で呼んでみたが反応はない。
ボンベの音で呼吸音が聞き取れない。誰かを呼びに行きたいが手を放したくない。
「おじいちゃん、おじいちゃん」少しずつ声が大きくなり、それを聞きつけた彩が慌てて戻ってきた。
「会長、会長」泣き崩れる彩に欣也の手を預け、すぐに玲子と信也に連絡した。
享年八十七歳、壮絶な人生を、糸のような細い自らの道を、苦悩を重ねながらも踏み外すことなく、迷うことなく、家族のために生き抜いた男の最期であった。
最も慈しんだ孫、信也の妻であり、そして玲子の後を託すに十分と思った女性、理穂に最期を看取られ、この世を去ったこの男の人生は、他人から見れば、財力に恵まれ家族に恵まれ、誰よりも幸せに見えたかもしれない。
事実、その通りであったが、それは恵まれたものではなく、人として生きる道を誤らず、苦悩を重ねてもなお、道を踏み外すことなく、この人生を懸命に生き抜くことで、彼自身が自らつかみ取り、築き上げてきたものだった。
二日後、葬儀を終え、理穂は斎場で義祖父に最後の手を合わた後、庭に出て、池のほとりにたたずんでいた。
水面に映る影が、風邪におされる小さな波に揺れているように見える。
(でも、影は揺れていない。水面が揺れているから、そう見えるだけ……
信也さんと出会った頃、波紋に映った私の影は揺れていた。心が乱れていたから……? )
理穂は、婚約破棄され、信也と出会い、この義祖父の導きでここまでやって来たことを思いだしていた。
(ファミレスGの入り口前で婚約破棄されたあの一瞬からこの人生が動き出したに違いない。大変なことも色々あったけれども、それでも腐らないで頑張ってきた。
それが今の幸せにつながっているのかもしれない。
この道はまだまだ続いていく。信也さんと二人、お祖父ちゃんがつけたこの道筋を大事していこう…… )
彼女はそう思って水面を見つめていた。
その理穂の所へ彩が近づいてきた。
「理穂さん、元気だしてね。玲子さんのことお願いしますよ」静かに彼女が語る。
「彩さん、もう、うちには来てくれないんですか」悲しそうにつぶやく理穂に
「会長が亡くなったあの夜、私には予感があったの。今日が危ない、そんな予感があったの。だから、あの日は無理言って会長のそばにいたの。会長が亡くなるとき、会長の手を握っているのは絶対に私、この役目は玲子さんにも理穂さんにも渡さない。そんな強い思いで会長をじっと見つめていたの…… ごめんなさい」彩が胸の内を語った。
「……」理穂は、いいえと言うように無言で頭をふった。
「でも、たったの五分、会長のそばを離れてたったの五分、たったの五分よ。会長はあなたが来るのを待っていたのね、どんなに尽くしても、私はやっぱり他人。光園持の後を守っていくあなた達にはかなわない。命を懸けても礼が尽くせないと思っていた会長の旅立つ瞬間を私は見送ることができなかった。最期の最期に、私は務めを果たせなかった。笑って下さい。本当にごめんなさい」
「とんでもないです。でも、それは違いますよ」理穂がはっきりと言った。
「えっ」彩は驚いて彼女を見つめた。
「おじいちゃんは言っていました。ほんとにもう時間がないと思ったんでしょうね。私を呼んで、後をたのむ、何かあったら、彩さんを頼りなさいって…… 」
彩の瞳は涙で潤んでいた。
理穂はさらに続けた。
「旅立つ時に、彩さんに手をにぎってもらうのだけはいやだって、死ぬ前にはあなたを解放してあげたい、だから、あなたに手を握ってもらって旅立つのだけはいやだって……
あなたにそこまで仕事はさせたくないって…… 私はそう聞いています」
そこまで聞くと彩は、両手で顔を覆い、人目をはばかることなく泣き崩れてしまった。
「私を待っていたんじゃなくて、彩さんが離れるのを待っていたんだと思いますよ……」
彩は恥じらいもなく子供のようにただ泣き続けた。
四十年近い歳月をささげてきた会長の思いに彼女は胸が苦しくなっていた。
自らは命の恩人である欣也に全てをささげることで納得した人生を送って来たつもりであった。
しかし欣也もまたその彩に応えてくれていたことを初めて感じて、彼女は、これで良かった、この人生は間違っていなかった……
そう確信して、ここに終止符を打つことができるような気持になっていた。
彼女の瞳からあふれる大粒の涙がこれまでの思いを洗い流すかのように零れ落ちた。
愛人ではないのかと噂されながらも、恩ある人のため、学ぶことを惜しまず、時間を費やすことを悔やまず、自らの人生をかけて、この道を歩いてきた高井彩は、その翌年、会長の一周忌を待たず、駆け付けた真一夫婦と信也夫婦、そして息子夫婦と二人の孫に見守られ、静かに息を引き取った。享年六十七歳であった。
会長に命を救われて以来、四十年に及ぶ長い歳月、会長と光園持の家を支え続けた彼女の人生もまた、悲しい歴史の中で彼女が選択した道であったが、彼女はその道を休むことなく走り続け、天寿をまっとうした人であった。
欣也が亡くなって、はや半年が過ぎようとしていた。
恵利佳は既に三十六歳になっていた。母には「子供は諦めている」と言いながらも、運命を変えてやる…… そう思いながら、その夜も子づくりに励んでいた。二人は愛し合った後、ベッドに横たわり、暗闇の中で静かにながれるモウダウに聞きいっていた。
恵利佳は頭の下で両腕を組み天井を見つめながら
「エイト、子ども、できなくてごめんね……」静かにつぶやいた。
すかさず、恵利佳の方へ横向きになった彼が
「いいよ、恵利佳が俺だけの恵利佳になってくれたらそれでいいよ。その辺でのたれ死んでいたかもしれない俺を医者にしてくれて、誰もが欲しくても手を出せなかった恵利佳お嬢様を妻にして、この上、何かを望んだら罰があたるよ」と答える。
「エイト、有難う」静かに彼女が微笑む。
「それに、俺のせいかもしれないし……」慰めるつもりで言った英人だったのだが、
「えっ、それほんと?」突然恵利佳の口調がかわった。
「ちょっと待ってよ、可能性の問題だよ」慌てて英人が言い訳をした。
「そうね、二人の責任よね、調べたって事実はかわらないしね」
さわやかに話す彼女を見て、さっきまでのしおらしい恵利佳はどこへ行ったんだ…… 彼はそう思って静かに彼女の横顔を見つめていた。
ちょうどその時、母から電話がはいった。
「何かあったの?」時計を見ると十時を回っていた。
「大変よ。明日の役員会で、多田恵利佳新社長が決定するらしいわよ」
「はあー、私、承諾書にはサインしていないわよ」
「パパが言うのには、そんなの、どうにでもなるって言っていたわよ」
「はぁー、あいつ殺す」
恵利佳はそう言うと、急いでシャワーを浴び、慌てて化粧をすると
「ごめん、ちょっと行ってくる」そう言うと飛び出していった。
英人は、まだまだ俺だけの恵利佳にはなってくれそうにないな…… そう思いながら煙草に火をつけて、深く吸い込んだ煙を静かに吐き出した。
完
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
昨年の2月、深夜に突然目覚め、書き始めた人生初の物語です。何度も何度も読み返し、検証を重ねて、ここに公開しながらも修正を繰り返し、ようやく完結いたしました。
本当にありがとうございました。
現在、執筆中の長編が2作あります。いずれも最終段階に入っていますので、納得できたものから公開したいと思っています。
ぜひ、ご一読ください。




