屑(くず) 女
翌日、二人は初めて並んで外を歩いた。うららかな春の日差しが心地よく、お互い口には出さなかったがデートのようなこの雰囲気がとても楽しくて、さわやかな暖かさがいっそう二人の心を近づけてくれた。
誰が見ても二人は恋人どうしにしか見えなかったが、ただ、そのことを自覚していないのは二人だけであった。
ファミレスGに入ると、無言の気まずさがいやだった理穂が、窓越しに入り口付近に目をやりながら静かに口を開いた。
「ここの入り口だったんです。婚約破棄されたの……」
「えっ、じゃあ、別の店の方がよかったでしょう!」
心配そうな信也に向って
「いえいえ大丈夫です。四週間ぐらい前だったかな。でも、不思議に辛くも悲しくもなくて、ただ、後のこと考えて煩わしかったことだけはよく覚えています。だから、なんてことはないです。あんなことのためにAランチを諦めるわけにはいきません」彼女が微笑む。
やはり笑顔が似合う、この人に暗い話は似合わない…… 彼はそう思うと自分も口元が緩んでいることに気がついた。
注文を取りにきた女性にAランチを二つお願いしたその時だった。
「理穂さん、お元気? もう大丈夫? 大変だったわねぇ」二人の女性が近づいてきた。
「こんにちは」理穂は冷静に会釈した。
「心配していたのよ。でも、あんなことがあったのに元気そうで何よりだわ……」
その女は不気味な甘ったるさを漂わせていた。
「ありがとうございます」
動揺することなく答えた理穂に、少しいらだった彼女はさらに続けた。
「でも、もう新しい彼ができたのね。安心したわ」
信也の方を見て意味ありげに頷くと「それじゃーね」と奥へ進んでいった。
一見、美しくは見えるが、目の奥に潜んだ性根の悪さが言葉の節々に現れ、彼女の周囲は灰色のカスミがかかっていた。信也は彼女の目を見て瞬時にそれを感じた。
もう一人の女性は一歩下がって申し訳なさそうに俯いたまま顔を上げなかった。
おそらくもと同僚なのだろう…… 信也はそう思ったが理穂が気の毒になった。
「ごめんなさいね、もといた銀行の同僚なの」
彼女は特に気にしている様子はなかったが、それでも彼に不愉快な思いをさせたのではないかと心配になっていた。
「あんな人ってどこにでも必ず一人はいますよね。言わなくてもいいことを世間話のようにさりげなく話して、そこにいやな空気だけを残して去って行く。他人の不幸が大好きで、他人に何かあるととても幸せな気分になる。自分の立ち位置は変わらないのに他人の不幸を知るだけで幸せになる…… 人間の屑です」
また何か小説の一説が、まるで彼が産みだした言葉であるかのように立て板に水のごとく語られ、理穂は目を丸くして聞き入っていた。
同僚が座ったテーブルを見ると、彼女は理穂達を見える側に座り、こちらの様子をうかがっていた。
信也が続けた。
「だから、他人とかかわるの、あまり好きじゃないんです。あんな人を見るといやになるんです」
いつになくよく話す信也に、理穂は彼のいたわりを感じていた。
「信也さんって、すごいですね」
その同僚は、理穂がいた時から、まさにそうした女性で、仲間のミスを何気なく上司に伝えたり、根も葉もない噂を針小棒大に広めたり、問題の多い女性であった。
そうした思いを持つだけの人間はいくらかいるが、人には自分を見つめ自制する力があるから、実際にそれを言葉に乗せて発射する人間はほんとにごくわずかである。
「いや、彼女の全部がわかるわけじゃないけど、少なくてもさっき言ったような一面は必ずもっている人ですよね、そりゃ人間だからいい所もあると思いますよ。でもあのいやらしい一面がそれを全て黒く塗りつぶしてしまいますよね。絶対にかかわりたくないし、言葉も交わしたくないですよ」
いけないこととは思いつつ、理穂は気持ちがスカッと晴れていくのがうれしかった。
そこへ、Aランチが運ばれてきた。
少し甘めの煮込みハンバーグ、エビフライにホタテフライと白身魚のフライ、さらに温野菜が盛り付けられ、これにコーンスープと野菜サラダ、もちろんライスもついてくる。
「お姉さんって、どんな人なんですか?」
食事のあい間に理穂が突然切り出した。
「姉は僕と母親が違うんです。私の母は六歳の時に亡くなって、小学校の入学直前に光園持の家に引き取られました」
淡々と話す信也に
「つらいこと思い出させてごめんなさい。もういいですよ……」
泣き出しそうな理穂に向って
「全然、大丈夫ですよ」
なぜか自分の生い立ちを彼女には知っておいてほしい、そんな思いが彼にはあった。
「だから、入学式は今の母と行きました。世間では継母と言われる立場の人なんですが、とてもいい人でいつもやさしく見守ってくれました。ただ、姉は怖かったです。何度も叩かれました。小学生の頃から姉が家に帰ってくると、いつも第一声が『信也、宿題したの?』でした。自分だって宿題あるだろうに、人のことは放っておけよって、いつも思ってました。もし済んでなかったら、何やってんの、パチン、こんな感じです」
「へえー、すごい」
「まるで姉が継母のようでした。母には叩かれたことなんて一度もないのに、姉にはもう何十回、叩かれたか。たった三つしか違わないんですよ」
「でも信也さん、お姉さんのこと、信頼していますよね」
彼はしばらく考えて
「ええ、そうですね。静かに見守っている母とは形が違いますが、彼女がどれだけ私のことを心配しているのかが、この頃よくわかります。でも、姉が怒ると未だに怖いですよ」
「へぇー、信也さんのお姉さん、会ってみたい」
「いやいや、会わない方が幸せですよ」
多くを語らない人であったが、ツボにはまるといくらでも話す。頭がいいから話は理路整然としていてとてもわかりやすい。
「お父様は?」
「父は本当の父なんです。だから今の母からすれば、私は愛人の子どもなんですよ。でもなぜか今の母は、私の実の母に、なんていうか、すごく恩みたいなものを感じていて、とても大事な人だって言うんですよ」
「ふーん」彼女は不思議そうに応じた。
「亡くなった母に、私のことを託されたらしいです」
「亡くなったお母様が?」
「そうです。どうも二人の関係はよくわからない。でも今の母がどんなに大事にしてくれているかということだけはよくわかります。なのに私はこんなことになってしまって……」
「こんなことって?」不思議そうに理穂が尋ねると、
「いや、仕事もしないでこんな株の世界に埋もれてしまって、世間との交わりも避けて……」
「そうですか? 私は立派だと思いますよ。トレーダーって立派な仕事でしょう。むしろ、他人からはうらやましいって思われる仕事ですよ。誰にでもできるものじゃないでしょ」
「えっ、そんなもんですか」信也はうれしかった。
「そんなもんですよ。ちゃんと自分の足でたって生活基盤築いて、しっかり財産も作って、誰が文句言うんですか。お母様は安心していると思いますよ」
彼女がテンポよく話し出すと、聞いている相手は引き込まれてしまう。
「でも、世間でトレーダーしています、なんて言ったら、白い目で見られますよ」
さらに肯定して欲しくて、信也は続けた。
「それは実態を知らないからですよ。信也さんという人間を知らないからですよ。一般的には失敗した人が頭に浮かびますからね。以前の銀行にもいましたよ。資金運用部にいた人で、銀行止めてトレーダーしていた人がいましたよ。でも最後は大きな借金作って個人破産したそうです。私だって信也さんに会う前だったら、その人、想像したと思いますよ」
「そうですか」
「もっと胸張るべきですよ。親に迷惑かけずにちゃんと仕事しているんですから」
「ありがとう。そんな風に言ってもらったの初めてです」
信也は、理穂に認めてもらっていることが何よりうれしかった。
「そうでしょ。私いいこと言うでしょ」
二人は笑顔でレストランを後にしたが、それを見ていたもと銀行の同僚だった屑女は、二人があまりに幸せそうだったので少し気分が悪かった。
その二日後の月曜日であった。昼前に活動を開始した信也は、お昼のおにぎりを買いにコンビニへ向かったが、突然、見知らぬ女性から声をかけられ目が覚めた。
「理穂さんの彼氏さんですよね、先日、ファミレスGでお会いしました。田中と申します」
あの屑女だとわかった信也は気分が悪くなったが、平静を装った。
「理穂さんねぇ、大変だったんですよ。大事にしてあげてくださいね。聞いています?」
「いいえ、わかんないですけど……」彼はとぼけた。
「ええっー、そうですか。困ったな。どうしよう。でも、私から聞いたのは内緒にしてくださいね。でも知っておいてもらった方がいいと思いますから……」
さも自分は友人思いのいい人であるかのように彼女は話し始めた。
「彼女ね、婚約破棄されたんですよ。かわいそうに…… まだひと月にもならないと思います。今度何かあったら……」
そこで信也が遮った。
「そのことなら知ってますよ」
「えっ」
思惑が外れて驚く彼女に信也の冷たい言葉が襲いかかる。
「あなたは、恥ずかしくないんですか。人の不幸をあたかも親切心を装って、取り繕って広めていく。人が不幸になっても自分が幸せになれるわけじゃないでしょ」
「いや、私はただ……」彼女は思いもよらない相手の攻撃に慌てていた。
さらに信也が続ける。
「彼女は確かに婚約破棄された女性ですが、人として、女性として、それに勝る魅力と知性にあふれた人です。あなたは、婚約破棄されたことはないでしょうが、醜い異臭が漂っています。そんな生き方は止めた方がいいですよ」
信也は静かに冷たく言い放つと、背を向けて歩き出そうとした。
その背中に向って
「なっ、何ですって、私は親切で言ってあげたのに、なぜそんな言い方されなくっちゃいけないの。あなたみたいな人には彼女がおにあいよっ、ふん」
その女性も背を向けて足早に歩きだした。
だが、怒りも現さず静かに冷たく言い放った信也の軽蔑したようなまなざしが、彼女の頭から当分消えることはなかった。