沈みゆく屑女
ゴールデンウイークが明けると、信也と理穂の時間は静かに流れていた。
しかし、理穂が以前に勤めていた丸菱銀行丸々支店では、預金課長の突然の入院によって、銀行初の女性融資課長が、その職を兼務することになった。
預金課には、依然、信也に異臭がすると打ちのめされた田中という女子行員がいた。
融資課長は、以前からこの田中の噂は耳にしていたのたが、いざ部下として向き合ってみるとあまりにも人として問題が多いことに頭を痛めていた。
課長は融資課の高取洋子が同期であることを知って彼女に意見を求めた。
「あの田中さん、何とかならないの……」
「いやー、とても私の手には終えません。でも、毎月、女子行員の中ではトップで仕事は頑張っているじゃないですか」
「とんでもないわよ、無理やり相談させて、若い子の成績を横取りして…… もう信じられないわよ」
「えっ、そこまでやっているんですか……?」
「もう…… あなた、同期でしょ、何か手を考えてよ」
「他の支店に差し上げるというのは……」
「支店長が、相手から恨みを買ってしまうって……」
「確かに…… 資料室でも飛ばせばどうですか?」
「何か起きれば、それもできるけど、とりあえず現状では明確なその理由がないよ」
「じゃあ、創りますか……」
「えっ、いい案があるの?」
「顧客の中に光園持信也さんて言う方がいて、トレーダー何ですけど、生活用の口座に六千万くらいあるんですよ」
「それで……」
「女性のトップなんですから、彼からせめて百万でも国債を買っていただきなさいって命令するんですよ」
「そりゃ、証券課からは、国債の売却について依頼があるんだからおかしくはないけど…… それがどうしたのって感じよね」
「課長、ここからはマル秘情報なんで、聞かない方がいいと思います」
「えっ、何なのよ。ちゃんと言ってよ……」
「実はですね、理穂ちゃん結婚するんですよ」
「ええっ、報告は受けたわよ」
「その相手が光園持信也さんなんですよ」
「へえー、だけどあのお人好しの理穂ちゃんだったら、直ぐに百万くらいならって、買ってしまうでしょ」
「それがですね、ここからはトップシークレットなんで、課長は知らない方がいいです」
「もう、何なのよ」
「いいじゃないですか、百万でも取って来ればそれはそれでいいし、何か起きればそれはそれで…… もし何か起きた時には、私が責任もって理穂に説明しますから……」
課長は高取洋子の頭にある物語がはっきりとは認識できなかったが、それでもこれまでの彼女を見てきた課長は
( 何か、見えているものがあるのだろう )と思い、加えて、自分自身も理穂とは懇意にしていることもあって、動いてみようと考えていた。
「田中さん、成績は女性行員トップを維持しているのね」
微笑んで尋ねると
「ありがとうございます。協力して下さる皆さんのおかげです」
彼女が謙虚さを醸し出す。
「実はね、証券課から依頼があるのは知っていると思うけど、国債の契約が全く取れないで困っているのよ。それでここは実力ナンバーワンのあなたに頑張って欲しくてね」
「そっ、そんな…… ナンバーワンだなんて」
「顧客の中に光園持信也さんて言う方がいて、普通預金に六千万くらいあるよ」
「……」
「何とかこの人から百万だけでもいいから契約を取って来てくれないかしら……」
「おいくつぐらいの方なんですか?」
「確かね三十前だと思う。世を忍んで生活しているんだけど、光園持グループの御曹司なのよ」
「ええっー、あの光園持グループですかっ!」
「そうなのよ」
( よし、もしかしたら…… 運が向いてきたかもよ )
「わかりました。頑張ってみます」田中は微笑んで答えた。
その翌日の昼前、田中は意気揚々と光園持信也のアパートを訪ねた。
( さすがに世を忍んでいるだけあって、汚いアパートだなあ、でも上手くいけば何かが動き始める……! )
ビー、ブザーを鳴らすと
「はーい」
( げっ、女の声、彼女がいるのかっ……!)
一瞬、不安になった彼女は、中から扉を開けてくれた女性の顔を見て、心臓が止まるのではないかと思うほど驚いた。
「どっ、どうして……!」
「えっ、何か……」
「どっ、どうしてここに居るの?」
田中が気を取り直して尋ねた。
「えっ、どうしてって言われても……」
理穂が返事に困っていると
「何かあったの?」
奥から信也が不思議そうに顔を出した。
「えっ……!」信也の顔を見た田中は、頭が真っ白になってしまい、一瞬目まいがしたが、
「あの…… 光園持信也さんですか?」消え入るような声で尋ねた。
「そうですが、何か御用ですか?」信也の侮蔑がはっきりとわかる。
「あのー、私、丸菱銀行丸々支店の田中と申します」
「知っていますよ。その田中さんが何の用ですか?」
「あのー、国債を買っていただけないかと……」
「お引き取り下さい。理穂さんがお世話になっていた銀行なんですから、お付き合いしたいですが、正直に申し上げてあなたとは関わりたくないです。お引き取り下さい」
顔色一つ変えることなく、静かに、そして冷たく信也が言い放つと、田中は俯いたまま、今にも泣き出しそうな顔をして帰って行った。
「信也さん、あそこまで言わなくても……」
「理穂さん、以前にあの人から嫌な思いをさせられたから、あんなことを言ったわけじゃないんです」
「……」
「人生では、色んな人や物に出会っていきます。私はその流れだけは大事にしたいんです。だけど、関わってはいけないと判断したものは徹底的に遠ざけておかないと、私やあなたに害が及んでしまいます。これもまた流れだと思っています。この生き方だけは変えることができない。まして守らなければならないものができた以上、ここは譲れないです」
「ごめんなさい、つい、いい人ぶって…… 正直言ってスカッとした自分が情けなくて……」
「理穂さん……」
しかし、彼はまだこのことを終わらせなかった。
支店長に電話を入れると「できることであればあの方とは関わりたくないので今後はよろしくお願いします」と意を伝えた。
彼が光園持グループの御曹司であることを知っている支店長は慌てて原因の究明にあたった。
そして、いつも田中に連れまわされている青木にたどり着いた支店長は、ファミレスでの田中の嫌味、加えて翌日、偶然に会った信也に理穂の婚約破棄の話を切り出して田中が罵倒されたことの報告を受け、直ちに融資課長を呼びつけ、現状の調査を依頼した。
融資課長は、預金課の行員、一人ずつと面談し、誘われた合コンに参加しなかったことにより、徹底的に嫌がらせを受けたことがある者、個人的な買い物を頼まれ、断ったために、同じような目にあった者、合コン後の宿泊を断って同じ目にあった者、同じような思いをした者が数えきれず、驚くばかりであった。
もちろんこれらのことについては数人の証人もいたことから事実に間違いないことは明白であった。
さらに、融資課長が驚いたのは、若い子の成績を横取りする手口であった。
報告書に目を通して、自らがその顧客に一度でも接したことがある場合は、「私がお願いしていたのよ」と言い張って、自分の成績にしていたのである。
若い行員たちは、彼女の虐めの実態を知っていたので、反抗することもできず諦めていたらしい。
ただ、融資課長は、入院してしまった預金課長に報告した者もいたのに、なぜこの実態が今まで表に出なかったのか、不思議でならなかった。
そのため、彼女は病院に出向き、預金課長から副支店長に報告はしたのだが、結果として握りつぶされてしまったことを打ち明けられ驚いた。
その実態を聞いた融資課長は、副支店長と田中の関係を耳にしていたこともあり、何となく事情が見えてきたような思いだった。
その状況を全て報告したところ、支店長が頭を抱えてしまった。
支店長は、キャリア組の中でトップを走る人で、3年間を無事に乗り切れば、本店の資金運用部長の席が約束されているらしく、
「何とか、穏便に済ませてくれないか」と融資課長に泣きついてきたのである。
この話の核心は、もう光園持の御曹司が電話してきたこと等とは全く次元の違う話に発展してしまい、預金課の女子行員を守るという大きな大儀の中で動き出したため、融資課長も引く気はなかった。
「それでは、私から副支店長に話させていただきます」そう言って、副支店長室に向った。
部屋では、副支店長と田中が話をしていたらしく、ノックをすると慌てて田中が出てきた。
「あなた、何をしているのっ?」
「お願いされた資料をお持ちしただけです」
彼女は俯いたまま答えたが、中からは笑い声が聞こえていたこともあり、融資課長は不愉快極まりなかった。
「支店内異動について、ご相談があります」
「どうしたんだ、穏やかじゃないね」副支店長は田中のことだろうと思ったが、
( 女課長に何ができるんだ…… )
そんな思いで、ゆったりと構えていた。
「これを見ていただきたいのですが……」
彼女は報告書を副支店長に示した。
それを手にして目を通した彼は
「以前から、同じような報告書が上がってくるのだが、いくら調べても実態がないんだよね」
「どういうことですか」
「預金課長からも同様の報告を受けて、私なりに調べてみたんだが、そんな事実は全くないんだよね。どうも、妬んでいる者の仕業ではないかと思っているんだよ」
「いいえ、そんなことはありません。預金課全員から聞き取りを行った結果です。それぞれの案件には、複数の証言者もいますので紛れもない事実です」
「きみ、副支店長の私が、『事実がない』と言っているんだよ、理解してくれないかね」
「どういうことでしょうか、副支店長が言っているのだから、黒でも白だということですか?」
「これだから女は困るんだよ、男性の課長なら、私が調べたことで納得してくれるよ」
「そうですか、わかりました」意味ありげにそう答えた融資課長に
「どうだろう、私が預金課の全員と話してみようか?」副支店長が親身になった装いで語りかける。
「いいえ、結構です。副支店長を前に若い行員たちが、言いたいことを言えるとは思いませんから……」
「じゃあ、ここで決着かな…… 理解してもらってうれしいよ」
「失礼します」
あいさつして部屋を出た融資課長は、直ちに本店に向い、人事課長に面会して、資料と副支店長との会話を録音した携帯を預けた。
「やっと出てきたか…… 」
「えっ」
「こんなことは耳に入っているんだよ」
「いつ出て来るんだって待っていたんだよ」
「支店長も知っているんだね」
「もちろんです。副支店長人事は本部に権限がありますから、止む無しと判断されました。ただ、今回の件は、光園持グループの御曹司からのクレイムで動いたこともあり、できるだけ静かに進めたいということで、内々に私がやってきました。」
「わかりました。やはりお宅の支店長は切れますね」
「はい、ありがとうございます」
支店に帰った融資課長がこのことを報告すると、最初は驚いた支店長も、
「あなたに大きな借りができてしまった」と言ってとても喜んだ。
ことなかれ主義で進もうとした支店長を見殺しにしても良かったのだが、この支店長は何故か憎めない所があって、融資課長は、(まっ、貸しにしておくか)と思って人事課長に対応したのである。
直ちに人事課が動いて、副支店長は、課長に降格の上、別の支店へ異動となり、田中は、本店、総務課に異動となった。
出勤初日、自らに課せられた総務課での仕事を聞いた彼女は、体調不良を理由に当分の間、銀行へはでてこなかったが、その後、彼女が退職したのか、屈辱的な仕事を続けたのか、融資課長の耳には入ってこなかった。
信也にお詫びしたいという融資課長に気を使った理穂は、彼を説得し、高取を含めた四人で昼食を共にした。
多くを語らない信也ではあったが、融資課長と高取は、理穂のこの出会いをとても喜んでくれた。




