初めての夜
世の中はゴールデンウイークに突入し、街はいつになく華やかで、行きかう人の流れはカップルであったり、家族連れであったり、理穂は誰を見ても楽しそうで幸せそうに見える自分がうれしかった。
自分達は周りの人からどのように見えるのだろう…… そんなことを思いながら信也と歩いていた。
信也は絵画を見るのが好きであった。高校生の頃、玲子に連れ出され、恵利佳、弟の義一と四人で出かけた絵画展で彼は衝撃を受けた。
若い女性を描いた油絵であったが、真っ赤なバラの傍らで真っ赤なドレスを身にまとった少女が微笑んでいた。今にも飛び出して語り掛けてきそうなその少女の瞳に枯れは心を奪われてしまった。
その日以来、彼は絵画展を好むようになったが、その鑑賞時間は極めて短く淡白なものだった。道を歩いていれば必ず画商店に入る、絵画を取り扱っていそうな店にも必ず入る、しかし、未だに二度目の感動にはめぐり逢えていない。
そんな彼に恵利佳が銀座で行われている絵画展を教えてくれた。
珍しく信也から誘われた理穂は喜んで彼に続いたが、鑑賞時間はあっという間で、彼女は驚いた。
会場を出ると、信也が「どこか行きたいところがある?」と聞いてきたので
「おいしいコーヒーがのみたいですね」理穂がそう言うと、
「ごめん、俺よくわからないけど、知っている店がある?」
「信也さんの口に合うかどうかわからないけど……」
「行ってみようよ」
理穂は、かつて、ここカフェモカのコーヒーが大好きでよく一人できていた。路地裏の小さな店で、席はカウンターだけだがゆったりと十二席とってある。
店へ入るなり、マスターと目があうと、彼が微笑んで「久しぶりですねぇー」と嬉しそうに挨拶してくれた。
理穂も、「ご無沙汰しています」と、同伴の彼がいるためか少し恥ずかしそうに答えた。
「ブレンドでいいですか?」
「はい、覚えていてくれたんですか?」
「もちろんです。私のブレンドをご指名下さる方は数少ないですから……」
「とてもおいしいですよ」
ほめる理穂にマスターが目で軽く頷いた。
店の客は四人だけだったので二人は空いている側の端にすわった。
「彼はどうされますか?」信也にもここのブレンドを飲んでほしかったが、期待は外れた。
「あの、モカは酸味ありますか?」信也の問いかけに、
「内のモカはやや強めですかね」
「じゃあモカをください」
「はい、かしこまりました」
「信也さん、モカが好きだったんですか。言って下されば買ってきたのに……」
「いや、今頃のモカは酸味がなくて、なんなのかよくわかんないんです。だったらブレンドでいいかって思うんです」
「お酒は飲まれないですよね」マスターが問いかけると
「はい、一滴も飲みません」
「私はモカっていうのはもともと酸味が特徴のコーヒーだと思っています。昔のモカは酸味の良し悪しはありましたが、誰にでもわかる味でした。ところがおっしゃるように、今頃は酸味の薄いモカが多くて、かつての味を知っている方には気の毒ですよね。でもね、この酸味の強いモカを好まれる方は、酒は飲まず、その代わりコーヒーの良し悪しがわかるんですよ。だから下手な豆を使うと叱られますからね」
「そうなんですか」不思議そうに理穂が問うと、
「そうですよね」と信也に向ってマスターが問いかける。
「とんでもないです。わたしなんか、味はわかんないです」
「ご謙遜を…… まっ、そういうことにしときますか」コーヒーがニつ運ばれてきた。
マスターは、「ごゆっくり」と一言いうと、席に戻って静かに本を読み始めた。
一口飲んだ信也は、「おいしい」そう囁いてカップの中のコーヒーをまじまじと見つめた。満足感にあふれた信也の横顔はとても穏やかで幸せそうであった。飲み終えた信也がお代わりを注文すると、マスターが
「お客さんそれの二杯目は勘弁して下さい。お代わりはぜひブレンドでためしていただけませんか。お代は結構ですので、必ず満足いただけると思います」
信也は少し驚いたが、しばらく考えて
「わかりました。そこまで言われるのなら……」
「ありがとうございます」
やがて、運ばれてきたブレンドを飲んだ信也からは、先程にも勝る歓喜が感じられた。
「ほんとにうまい! 同じブレンドなんですか?」
「同じものです。でも彼女は一杯目のブレンドでおいしいと言ってくれますが、あなたがもし一杯目にこのブレンド飲んでいたら、『なんだ』って思いますよ。お客さんの舌はあの酸味の強いモカのあとだから、このおいしさが解っていただけるんです」
「難しいものですね」信也が呟くと
「いや全然難しくないですよ。このモカとこのブレンドの相性が最高なんです。お二人もそうでしょ」マスターが微笑むと
「マスター」恥ずかしそうに理穂が囁いた。
店を出ると、二人はゆっくりと歩き始めた。
「とてもおいしかったです。いい店に連れてきてもらってほんとよかったです」
信也が喜んでくれたことで理穂はとてもうれしかった。
「よかったです」
彼女はそう言いながらも、彼がいつも何を考えているのかよくわからない、何をしたいと思っているのかわからない、何が嫌なのかよくわからない、そう思いながら懸命に彼を探ってみるがわからない、ただ、理穂を支えているのは、カレーをお礼に持っていったあの日、懸命に自分をとどめようと必死に語ってくれた彼の熱い思いと、彼を愛する家族達の自分に対する思いやりであった。
「ふーっ」小さく胸の奥の思いを吐き出したとき
「ごめん、退屈だよね」彼がぼそっと呟いた。
二人で食事を楽しんでいるだけの時は何も問題はなかった。食事の話を中心に、時折、理穂が喜びそうな話を交え、彼には流れて行く時間に何の不安もなかった。
しかし、結婚が決まって以来、共有する時間が長くなると、彼は沈黙の時間を上手く操ることができずに理穂の思いが気になって不安になることがよくあった。
「ごめんなさい、そうじゃないの。信也さんが何を考えているのかよくわからないの…… もう私のこと嫌になったのかなあとか、何か嫌なことがあるのかなあとか、いつも探ってみるけどわからないで参っているの、さっきのため息は、どうしたらいいんだろう? って思った時に出たの……」
理穂は慌てて自分の胸の内を説明した。
彼女は自分に起因する相手の不安をいつまでも維持させない、これは人に思いやりを持つように努めてきた人生の中で身につけたものであった。
「……」彼は何か言おうとして軽く口を開けたが、一瞬間があいて前を見つめたまま静かに語り始めた。
「いつも理穂さんのことばかり考えている……」
「えっ」
「いつも、何か話さなくっちゃ、理穂さんに喜んでもらわなきゃって思っている。だけどどうすればいいのかわからない。私の世界は狭いから、生きている世界は株とそれにかかるものだけだから。いつも話題を、話題をって思うんだけど、何も出てこない。理穂さんはいつかこんな退屈な男は見限って、どこかへ行ってしまうんじゃないかって、不安になるんだ。不安になって、また何かを、って思うけどどうにもならない。女性と付き合うのは初めてだから余計に迷路に入ってしまって……」
それを聞いた理穂は目を見開いて驚いた。
と同時に彼がそんな深いところまで沈み込んでしまっていることに気づいていない自分が情けなくて仕方なかった。
その時、彼女は初めて会ったあの日、恵利佳から言われたことを思い出した。
『この子は決して話が嫌いなわけじゃないの。得意な分野だと、いやになるぐらい話すわよ。人生なんて語らしたら、一時間でも話すよ。でもね、女性をいたわるとか、女性を口説くとか、女性を楽しませるとか、その辺りは全くだめ。そこをわかってやって欲しいの…… 』
そう話した恵利佳の言葉の裏側に、信也は気持ちを上手に言葉に載せる事はできないけれども、彼の思いを信じてやってね、そして彼を守ってやってね、そうした大きな意味があったことを理穂は、今初めて理解することができた。
カレーを持っていったあの日、信也はあんなに懸命に自分を留めようとしてくれた。
そして、これまで婚約破棄されたことを気にしていた自分を彼はいつも気遣ってくれていた。自分の心の負担を少しでも小さくしようと彼は懸命に気遣ってくれていた。
なのに私は……
当初、彼女の思いは信也と一緒にいるだけで幸せであった。
しかし結婚が決まり共に過ごす時間が多くなっていくのに伴い、気持ちを上手に言葉にのせることができない信也を前に自分が愛されている事、大事にされていることを実感したい、そのことによって安心して日々を過ごしたい、彼女は自分の心が満たされることばかり考えていた。そこには彼の心を満たしてあげたい、彼を幸せにしてあげたい、そうした思いが全くないことに気づいてしまった彼女は俯いてしまった。
私はなんて愚かな女なんだ、自分のことしか考えていなかった。彼のことを全く考えていなかった…… 私に覚悟がないからだ、私に覚悟がないことが彼を不安にさせてしまった……
そう思った彼女は今更ながらに身勝手な自分に腹が立ち、唇を噛み締めながら言葉を探していた。
「信也さんごめんなさい、私は自分のことしか考えていなかった。あなたがそんな気持ちでいたなんて…… 本当にごめんなさい、でも信じて欲しいの! 私は信也さんと一緒にいるだけで幸せ、だから何があっても信也さんから離れる事は絶対に無いから…… それに信也さんが上手を言えない事はよくわかっているから、だからお願い、そんな事は思わないで…… あなたが隣にいてくれるだけで私は大丈夫 !」
彼女は真剣に自分の覚悟を話した。
「……」信也は嬉しかった。無言のまま顔を上げた彼は、理穂の大きな瞳が自分に訴えてくるものを感じた。この彼女の大きな瞳が語り掛けてくる、訴えかけてくるその思いの輝きが彼にはまぶしくて直視することができなかった。
これだ! 彼女の不思議な魅力はこれだ、今までわからなかったけど…… 私を虜にしたのはこの大きな瞳からあふれ出てくる彼女の人を包み込むような力だ!
そのことに初めて気が付いて信也も不安から解放され、穏やかで嬉しそうな表情を見せた。
「話題がなくてもいいです。私は、これからは無言の信也さんでも、二人の空間と時間にゆったり浸かってくれているんだなって思えます。信也さんの気持ちが解ったからそう思えます」
笑顔で話す理穂を見て、彼は今さらながらに彼女に魅かれた自分を思い出すのであった。
そうだった、初めて会った時もこの大きな瞳に語り掛けられて驚いたんだ。あの時は何なのかはっきりわからなかったけれど、魂で訴えてくるこの大きな瞳に魅かれたんだ!
彼はその確信を深め、心が何かに抱かれたように穏やかになって行く自分がとても心地よかった。
理穂はさらに信也に思いを寄せた。
話したいことを話させればいいんだ!
「信也さんは株の話をするのはいやなんですか?」突然、彼女が尋ねた。
「いや、株の話だったら一時間でも二時間でも必死に話すと思うよ」
信也はどうして株の話が出たのか不思議であった。
「じゃぁ、どうして私に株の話、してくれないんですか?」
「えっー、でも株の話なんて面白くないでしょう」
「そんなことないですよ。どうして株に魅せられたのかとか、大もうけした話とか、失敗した話とか、何故儲かっているのかとか、絶対聞きたいですよ」
興味津々と話す彼女に向って照れくさそうに
「でもそれ、全部自慢話になってしまうから……」と信也がかすかに微笑みながら言うと
「それおかしいですよ。私と結婚するんでしょ。私はあなたの妻になるんですよ。その私に自慢話しないで誰にするんですか?」
恵利佳同様、突然まくしたててくる理穂にやや押されながら
「有難う」彼は小さく呟いた。
「それからね、高い確率で上がるものがあれば少しは父にも教えてやりたいんですよ」
「ええっ」突然の父親の出現に彼は驚いたが楽しそうに聞き入った。
「昔ね、母に頼んでなけなしの百万円で始めたらしいけど、バブルの崩壊で三十万円になってしまって母に蹴飛ばされたらしいですよ」
「ええっ、わかった、何かいいもの探してみる」
信也はにこにこして、楽しそうであった。
「あっ、でも私は信也さんのこと、蹴飛ばしたりはしませんよ」
慌てて理穂が打ち消したが、彼は笑うだけであった。
二人が初めて結ばれたのはその日の夜であった。




