理穂の両親
理穂はいつ両親に話をしようか迷っていた。
婚約破棄されてからまだニヶ月にもならない。
何から話せばいいのか、幾度も整理してみたがまとまらず、早く話さなければ…… そう思いながらも一日一日が過ぎていった。
でもちゃんと話さないと…… やっとの思いで母に電話をした。
「話したいことがあるから、明日帰る……」
食い下がる母にそれだけ言って電話を切った。
翌日、意を決して実家の玄関に入るとカレーのいい香りが漂っていた。
「ただいま」静かに玄関の戸をしめ、まず仏間で手を合わせるとキッチンへ向かった。
「おかえり」母親が笑顔で迎えてくれた。
「父さんは?」
「もうすぐ帰ってくると思うわ。幸一は麻雀だって」
「そう……」
しばらくして父親が帰ってくるとすぐに三人で食卓を囲んだ。
まず父親が口を開いた。
「大事な話なのか。あのことか」これは暗に婚約破棄のことを意味していた。
「ううん、でも私、結婚するから……」理穂は静かに口火を切った。
「えっ」両親は口をそろえて言った後、お互いに顔を見合わせた。
「婚約解消を解消したのか?」
そう言う父親に「十点」ダジャレかと思った理穂が評価すると、
「えっ」父親は驚いて「おもしろいじゃないか」と笑いながら彼女を見つめる。
「あの人なの?」心配そうに母親が尋ねる。
「まさかやめてよ」理穂があわてて否定すると
「だってまだニヶ月たっていないでしょ。もう次の人ができたの? それもこんな急に結婚するだなんて……」
「あんなことがあったからといって焦る必要はないよ。焦って変なのつかむより、遅くなってもじっくり見極めて、確信の持てる人を探した方がいいんじゃないか」
諭すように優しく話しかけてくる父親に向って
「やはり、そう思うわよね。私も自分で驚いているのよ……」
「どこの人なの、ちゃんと話して」母親の問いかけに
「光園持信也さんていうの。年は私と同じ、男性」
「いやー、もうお前を幸せにしてくれるのなら女性でもいいぞ」
「お父さん」父親のじゃれごとに母親が睨み付ける。
「申し訳ない。でも、この前テレビで誰かカミングアウトしていたからさぁー。もう何があっても驚かないだけの覚悟はしておかないと、なっ理穂」
「お父さん、今日はさえているわね」
いつになく父のあほごとに付き合う娘に、母親は何か今までとは違う一回り大きくなった娘を感じていた。
「それで、何をしている人なの?」
「うん……、自営業」
「えっ、車の修理とか、パン屋さんとか?」
どこからの発想なのだろうと思いながら
「少し違うかな」
「なんだよ、はっきり言えよ」
じれったい思いを全面に表す父親に向って「言わないとだめ?」
「そりゃー、お前、娘を嫁に出すんだ、相手の仕事ぐらい聞いておかないと……」
「そうよね」
「えっ、まさか人に言えないような仕事なのか」
「人に言えない仕事って何よ」
「そりゃ、お前、秘密警察とか、どこかの国のスパイとか、ひょっとしたら怪盗ルパンとか」
「いい加減にして、何よそれ、ちゃんと何している人か説明して!」
母親がついに切れた。
両親が理穂をじっと見つめていると、その思いに堪えられなくなったように彼女は
「株……」ぽつりと答えた。
「えっ」という父親に向って彼女は再び、「株取引」と繰り返した。
「なんだ、証券会社か」安心したようにほっとした父親に
「違う、自分で株の売買をして、その利益で生活しているの……」今度は理穂も明確に答えた。
「そりゃー、だめだよ。人間、嫌なこともあるけど、やっぱり、ちゃんとした仕事しないとだめだよ」父親が呆れたように話す。
「……」理穂が何か言おうとしたが、父親がさらに続けた。
「父さんも、昔、母さんに頼んで百万円だけってお願いして、株やっていた時があったんだ。最初はよかったよ、たしか十万円ぐらい儲かっていた時もあった。でも、あのバブル崩壊でえらい目にあったよ。だだっと下げて慌てていたら、戻りだしたから、もう大丈夫、そう思ったらまた下げて、今度こそ、今度こそって思っているうちに三十万円ぐらいになってしまって、母さんに蹴飛ばされたんだぞ」
「蹴飛ばしてはいないでしょっ」睨む母に
「いや、それぐらい叱られたってことだよ」
「確かに」
「父さん、その時思ったよ。これはギャンブルだなって」
「そんなことないわ、一か八かでやるわけじゃないのよ。しっかりとした検証をして売り買いしているのよ」かばうように説明する理穂だったが、父親が続けた。
「だけどあんなバブルの崩壊みたいなのがきたら、検証もくそもないだろう。そういう意味ではギャンブルだよ」
「いいじゃない父さん」突然、母親がさみしそうに微笑んだ。
「母さん」どうしたんだと言わんばかりに父は母を見た。
「だめだ、昔、俺の部下で、パチンコで小遣い稼いでいる奴がいて、パチプロになりますって、市役所止めたやつがいるんだよ。そいつについ先だって会ってさ、あまりにみすぼらしいかっこしているから、昼飯おごってやったよ。奥さんや子供に逃げられて、寂しい人生らしいよ。『なんてバカなことしたんだ』って後悔していたよ。つらそうに涙流すもんで、俺ももらい泣きしたよ。だからだめ、娘の家庭があんな風になるなんて考えられない」
「お父さん落ち着いて」母親が子供を諭すように語り掛けた。
「お父さんの心配もわかるけど、仕方ないよ、いいじゃない……」
「何がいいんだよ」父親は少しいらついていた。
「婚約破棄された娘をもらってくれるのよ。あっ、その人は知っているのよね」
母が念をおす。
「もちろんよ」理穂が頷くと母は続けた。
「それだけでもありがたいことよ。何かあったら食べさせるぐらいなら私達にだってできるでしょ。あと十年は働けるわよ」
こうなれば肝が据わるのは女の方である。
父親は何年か後に、娘夫婦がこの食卓で寂しそうにご飯を食べている光景を目に浮かべ大きなため息をついた。
「今後は母さんたちもがんばるから大丈夫よ」
母親が笑顔で娘に語り掛けると、娘は首を傾げ、ちがうんだけどなー…… と思いながらも
「ありがとう」と小さな声で呟いた。
「だけどね、その人にいくら蓄えがあって、いくら持って株をしているのか、それだけは教えてちょうだい。お金がなければ式はしなくてもいい、だけどそれだけは聞いておかないと母さんたちにも都合があるからね。ちゃんといざという時のためにもっと蓄えておかないと……」
心配そうに語る母をよそに
「そんな心配いらないと思うけどなぁー」と他人事みたいにつぶやく娘に、どことなく心がそこにないことを感じると、母親の心配はさらに大きくなっていった。
「聞かない方がいいと思うんだけど……」
「ちゃんと教えて」あまりにも隠そうとする娘に母親は少しむきになっていた。
「生活用のお金は…… 今は六千万円」
「えっー、ろ、ろ、六千万円」
父親が目をまるくして驚いたが、その次の瞬間
「そりゃ騙されてる。詐欺かなんかだ」
「父さん……」理穂が、やめて…… と言わんばかりに語気を強める。
「だってそうだろ、お前とおなじ歳だろっ、六千万円もあるわけないじゃん。そりゃ騙されているよ」
理穂はため息をつきながら続ける。
「でもね、それは毎年、利益の二十%を生活費に充てるためによけているお金で、運用している原資は二億円……」懸命に説明する娘に、父親は、頭打ったのか…… と思いながら
「はぁー、理穂、お前、大丈夫か?」
父親が心から心配して不安そうに彼女を見つめると、母親も何を思ってか、大きくため息をついた。
「理穂、よーく思い出してごらん。その男は、どうせ、すらっーとしたイケメンで、ぼくはねー、トレードで生活しているんだ、原資はねー、二億ぐらいかな、でも別に生活費は六千万ぐらいあるんだよー、って、そんな感じの男じゃないか?」父親が追い詰める。
「父さん、今日はほんとに冴えてる。きれきれね」
理穂は呆れたように言うと、バックから通帳を取り出しそれを開いて父親に差し出した。
通帳を見た父親は、目を丸くして無言のままそれを母親に渡した。単位になれている父親とは異なり、母親は「一、十、……千万」まで数えて「うわっ、ほんとだ」横を向いて、小さな消え入るような声で呟いた。
「昨日、五万円おろして、その時の打ち込みだから、偽の通帳ではありません。キャッシュカードも預かっています。何度も使っているから本物です」
驚いた二人を見て理穂は続けた。
「だから言いたくなかったのよ」
「でもなー」何かほころびを探そうと父親が頭をひねる。
「バカみたい。毎月の貯金、がんばって一万かニ万、増やそうって思っていたのに、六千万だ、二憶だって、バカみたい。なんだかばからしくなってきた!」
「でも家族はいるのか?」父親は、何か問題があるだろう…… というような顔で問い詰める。
「できればそれも言いたくないんだけど…… 」
「でも、それこそ大事でしょ。結婚したら親戚になるんだから。ご両親は健在なの?」
「うん、元気だけど……」
「わかった、刑務所にでも入っているのか」
「父さん、三点」理穂がほんの少し怒りを返した。
「ご健在なら、まだお仕事しているでしょ」
「うん、しているけど……」また歯切れの悪い娘を見て
「ちゃんと言って」母が少し強く言う。
「光園持グループって知っている?」
「ああ、一流企業…… えっ、同じ名前じゃないか。そこに勤めているのか?」
「ううん、勤めているっていうか、そこの社長さん」
「社長? 車掌の間違いじゃないのか」
呆れた父親は、もうぼけて見せるしかなかった。
「うん、惜しい、なかなか良かったけどね」
「それでお父さんには会ったの?」母親が心配そうに尋ねると
「いやまだ……」
「見てみろ。やっぱり刑務所だ」父親の頭は少し混乱していた。
「もう、お父さんいい加減にしてっ」妻がついに怒った。母親はこみあげてくる不安に胸がいっぱいになっていた。
「お父さんには会ってないけど、おじいちゃんとお母さんには会ってきた」
「えっ、いつ?」
「ううん、三、四日前」
「そうなの……」
「家はね、内の家の十倍ぐらい」
「ほぉー、だけどそんな家の息子が、なぜお前なんだ。その息子は長男か?」
「そう、長男」
「そしたらお前、将来は社長夫人か?」
「いいえ、彼は会社を継ぐ気はないの。いやなのよ。社長の息子だとか、金持ちだとか、そんな色眼鏡で見られるのがいやなのよ。だから自分ひとりで、親とは経済的にかかわらないで生きているのよ。住んでいるアパートだって私のとこよりひどいわよ」
「……」父親にはもう言葉がなかった。
「ああ、疲れた」父親は心底ぐったりして
「でも、そんな中でやっていけるのか。あの婚約破棄の方がよっぽどかわいいぞ」と続けた。
「ほんとに違った意味で心配だわっ」そう言いながら、母親は何を心配すればいいのか、頭の中が整理できなかった。
「……」理穂も言葉を探していた。
「そんな、なんか肩くるしそうな家族の中でちゃんとやっていけるの?」
「うーん」
「それにだいたい、なんであんたなのよ」
頭で整理できない母親が、貧乏くじでも引いてしまったかのように言うと
「私も不安なのよ。いろんなことがだっーと決まっていって、住居の話になって、おじいちゃんがいくつかマンション持っていて、どれにするか見に行こうなんて話になってね、思い切って言ったのよ。そんな高級マンションで、周囲のセレブ達とうまく付き合っていく自信がないって、今の信也さんのアパートだったら安心してくらせるって。私は普通の家庭で育った普通の娘だから、私みたいな人間がこんなすごい家に住んでる皆さんの中に入っても、かえって信也さんに迷惑かけるんじゃないかってすごく不安ですって言ったのよ」
「おう、さすがわしの娘……」
「そしたらね。おじいちゃんが言うのよ。あの会社を創った会長よ。その人がね、お金があるとか、セレブだとか、そうしたものはあくまでも外見にすぎない、大事なのは、それをまとう人の本質なんだって。いくらお金があっても人として駄目な人間ではどうにもならない、大事なのは身にまとうものがどうであれ、己を見失うことなく生きていくことだって……」
「なんじゃそりゃ」父親はもう訳がわからない。
「ふたりのこともほめてたわ。ちゃんと私に生きて行くうえで大事なことを教え、どんなに大事に育んできたかよくわかるって言ってたわよ」
「おう、わかってるじゃないか」
「私がこんなに早く話が進んでいって、後からやはりだめですね、なんてことになるんじゃないかって心配してたら、光園持の家は光園持の家で逃げられたら困る、っていう不安があるんですって。でもね、ここは上手に言っているだけだと思うのよね」
「何かほめられたのか化かされたのか、よくわかんないわね」母親が不審そうに語る。
「いい人達よ。お義母さんなんて継母なんだけど、信じられないくらいいい人……」
「それで、住まいは結局どうなったの?」
「うん、おじいちゃんがね、結婚して、家庭をもって、その内に子供もできる。やはり、しっかりとした生活基盤がないと、家庭というものの根をはっていくことができない。だから、住まいは、どこか気に入ったマンションを使ってほしいって。それでね、何も気にすることはない、今のままの自然なわたしでいい、私らしく生きて行けばいい。それが一番大事だって言ってくれてね、それですごく安心したの」
「そう」
「それで結局、お姉さんの家に一番近い青山のマンションにしたの」
「小姑の近くで大丈夫?」と母親が心配そうに尋ねると
「お姉さんといるとすごく安心するのよ。お姉さんが近くにいてくれたら、大丈夫って気がするの」穏やかに話す娘に、
「ふーん」と生返事を返したものの、母親にはよくわからなかった。
「あっ、それから、正式な申し込みはね、もう少し色んなことの案ができたら、お伺いしたいって言ってたよ」
夜は静かに更けていったが、三人の食卓はいつまでも会話が続いていた。
派手なことを嫌う信也の強い思いで、式は九月二十九日に家族だけで執り行うことになり、信也の両親、欣也、恵利佳に弟の義一、さらに信也の義父である松山一家の三人、そして理穂の両親と弟、総勢十三人での食事会となった。
彩は、同行はするものの同席はかたくなに断わり、衣装は前日、理穂の両親を招いて前撮りをして、食事会でその様子を流すこととなった。
信也も、この出席者で納得し、堅苦しさを嫌がる理穂の両親も、この提案をとても喜んだ。




