光園持の日の出
話は戻るが、恵利佳によって強引に光園持の家へ連れていかれた理穂は家に着くと、その途方もない大きさにただ息をのむばかりであった。
一方、光園持の家は大騒ぎになっていた。
信也が結婚相手を連れてくると聞いた祖父の欣也と彼の秘書、彩は目を丸くしてお互いに顔を見合わせた。まさかそんな相手がいるとは思ってもいなかった二人は驚いて、いろいろと推察をしてみたが答えの出よう筈もなかった。
いつも冷静なこの二人があたふたしているのが、玲子には何とも滑稽でならなかったが、それでも、恵利佳がかかわっていることを知った欣也は、とりあえずは一安心して彼らを待っていた。
玄関でヒールを脱ぐと、恵利佳の隣では自分の靴はあまりにもみすぼらしく、とんでもないところに来てしまった。もう少し心の準備をする時間が欲しかった……理穂は不安にさいなまれながら俯いたまま信也の後ろをとぼとぼと歩いていった。
ダイニングの部屋をノックし
「どうぞ」返事を待たずに恵利佳が扉をあけると、玲子はあわてて料理の手を止め、振り向きざまにエプロンで手をふきながら
「いらっしゃい。ごめんなさいね、お迎えにもでないで……」
そう言って三人に近づいてきた。
「ママ、安沖理穂さんよ」
「初めまして、安沖理穂と申します。突然に申し訳ございません」
「いえいえ、突然は恵利佳のせいでしょ。初めまして、信也の母です。よく来てくれたわね。さぁ、どうぞ、どうぞ、おかけになって」
母がこんなに明るく、嬉しそうにふるまうのは久しぶりであった。
「お腹すいているでしょ。もう少し待ってね、すぐできるから」
「先にじいちゃんのとこ行ってくるよ」
「そうね、首を長くして待っているわ……」
部屋を出て欣也の住まいにつながっている地下通路へ入り、そこを抜けると一枚の扉があった。信也が指紋認証のため指を押し付けた後、三三とプッシュすると扉が自動で開き、再び扉の前でノックした。
「どうぞ」中から女性の声がして、扉を開けると信也の祖父と一人の女性が立っていた。
「いらっしゃーい。よく来てくれたねぇ」
祖父はほんとにうれしそうで、身体全体で喜びを表し、理穂を歓迎してくれた。
「あなたかね、この信也のお嫁さんになってくれる人は……」
「あっ、はい、初めまして、安沖理穂と申します。今日は突然に押しかけてしまい、申し訳ありません」
一生懸命に挨拶するこの愛くるしい女性の大きな瞳を見て、人を包み込むようにあふれ出てくる、まるで太陽を思わすような、その暖かい力強さに、欣也は驚いた。
その瞳は実直で、朗らかで、そして何よりも暖かい女性である彼女の『人となり』を表していた。
そのことが、欣也にはすぐにわかった。
さすがの欣也も、このように美しく力強い女性の瞳は見たことがなかった。
一瞬で、信也の思いが手に取るようにわかった。
「信也がほれるはずだぁ……、素晴らしいお嬢さんだ!」
うん、うんと小さく頷きながら彼は目頭が熱くなるのを懸命に抑え、理穂の手をとって、ただ「有難う、有難う」と繰り返すだけだった。
「これで亡くなった好子さんにようやく顔向けができる……」
あの世から見守る信也の実母に語り掛けるように、遠くを見つめて彼はその心を明かした。
信也は、祖父、欣也の涙を生まれて初めて見た。傍らの彩もうっすらと涙ぐんでいるかのように見えた。
( こんなに心配していたのか…… )
祖父や彩の様子を見て、彼はそう思うと、ほんの少し涙がにじむのをどうすることもできなかった。そんな感謝の思いが吹き上げてくる中で、ふと理穂を見ると彼女も今にも泣き出しそうな表情をしていた。
そこへ、玲子がやってくると
「みんなで泣きそうな顔して、どうするんですか。食事の用意ができましたよ。彩さんもどうぞ」
玲子は、会長秘書の高井彩にも気遣いを忘れない。
光園持家の食卓は久しぶりに弾んだ。恵利佳のにぎやかさが心地よく、理穂の笑顔が暖炉のようで、それを見守る玲子の安堵感は計り知れない。
理穂の誕生日を聞いた欣也が
「結婚式は今年の九月ニ十九日、甲の子の日、いいね。理穂ちゃん、その日にしてくれるかな。最低でも、籍はこの日に入れてほしい」
「あっ、はい。ありがとうございます」
理穂はもう夢の中にいるような思いだった。
「結構、時間があるねぇー」恵利佳が囁くと
「だけどもっと早くから同棲すればいい」そう話す欣也に
「じっちゃま、今日はフランクだねー」恵利佳がからんでいく。
「でも恵利佳さん、それまでに結構、色々ありますよ。理穂さんのご両親への挨拶、住居のこと、結婚式の段取りだけでも相当かかりますよ」 彩が話すと
「あのー、それから報告が遅くなってしまったんですけど、私……」
理穂がそう言いかけた時に
「婚約破棄?」恵利佳が茶かした。
「あっ、はい……」消え入るように言う理穂だったが、その傍らで笑い始めた恵利佳を見て
「何、それ」玲子が尋ねる。
「この娘ねぇ、信也とつきあう前に婚約していた人がいたんだけど、突然、婚約破棄されたのよ。それを気にしているの」恵利佳が説明すると理穂が続けた。
「婚約破棄された女が、こんな立派な社会的地位のある家庭のご子息のお嫁さんなんかになったら、皆さんが笑いものになるのではないかと心配しています」
今にも泣きだしそうな理穂の告白はあっという間に吹き飛ばされた。
「これねっ、この子のトレードマーク」恵利佳が言うと
「はっはっはー、その男にお礼しとけよ」欣也が笑い飛ばした。
「じいちゃん、理穂さんは気にしてるんだから」信也が理穂を気遣う。
「それはわかるよ、でも信也、その男が破棄していなかったら、今、理穂さんはこんなところにいないんだよ。それに誰が笑うもんか。理穂さん、その人は迷いが生じたのか、あるいはあなたにそういう評価をしてしまったのか、それはわからないが、それはあくまでその人の判断だ。私たちの判断とはちがう。あなたや信也、まして私達を笑う人なんて一人もいないよ。そんなことは心配しなくてよろしい」
「……でしょっ。何度も言っているんだけどね」恵利佳が囁く。
「ありがとうございます」この話は理穂の消え入るような声で幕を閉じた。
「ところでご両親への挨拶はどうするかねぇ。真一は今忙しそうだよ」欣也が言うと
「はぁー、親父なんか行かせないわよ。秘書が何人もついてきて、黒塗りの車、どんと横づけされたら、ご両親びっくりするわよ。ご近所だって何ごとかって思うわよ」
呆れたように恵利佳が言うと
「確かに、どうするかね、玲子さん」
ふと欣也が顔を上げると、恵利佳がにこにこしながら自分を指さして、わたしね、わたしと言わんばかりであった。
「えっ、恵利佳がいくのか」
「そりゃそうでしょ。母さんが行ったら泣いてばかりで話になんないでしょ」
彼女は、『わたししかいないでしょ』と言わんばかりであった。
「ほー、恵利佳ママが出陣するかね」
「する、する。ねっ、信也」
「……」信也は無言のまま両手で顔を覆った。
「やっぱりそうなるか」
一言いうと、母も優しく微笑んで彼を見つめていた。
「ところで、じっちゃま、マンションはあるんでしょ?」突然、恵利佳が話を変えた。
「えっ、どうなの?」欣也が彩に尋ねると、彼女はスマホをとりだしながら
「今はたしか、青山と、田園調布、原宿に、あと、あっ、青山に二件あります」
「すごいね、それ転がしてんの?」信也が尋ねる。
「いえ、そういうわけではないですが、会長が土地を所有されていて、その代替資産としていただいたものがほとんどです」
「あのー、私は信也さんのアパートで十分なんですが……」理穂が申し訳なさそうに言うと
「理穂ちゃん、それはだめだよ。信也が一人で生きていくのならあそこでもいいけど、結婚して家庭をもって、子供ができて、その生活基盤があそこではだめだよ。ちゃんと根をおろして家庭を守っていくことができるしっかりとしたベースが必要になるよ」
欣也が言うと、
「そうだね。じいちゃんの言うとおりなんだろうな。何となくわかる気がする。理穂さん、そうしませんか?」
信也が促すのに従って「はい……」そう返事はしたものの
( セレブが住むようなすごいところだったらどうしよう…… )
理穂の不安はますます募っていった。
「明日、見に行こ」恵利佳が言うと
「はい、それであの、お姉さんはどこに住んでいらっしゃるんですか?」
不安の中で、理穂は恵利佳だけが頼りだと思った。
「えっ、青山三丁目だけど……」
「あっ、じゃあ青山がいいです。二つの内、お姉さんのお家に近い方がいいです」
飛びつく彼女に
「あんたねぇ、私が近くにいたらやばいよ。毎日小姑しにいくよ」恵利佳が笑って答えると
「いいです。それでもいいからお姉さんの近くがいいです。安心して暮らせます」
理穂は心細そうに涙目で訴えてきた。
「理穂さん、どうしたの、遠慮しなくていいから思っていることや不安があったら全部話して、ぜひ、聞かせて!」
玲子が心配そうに問いかける。
「はい、すいません。こんないいお話しばかりいただいているのにほんとにすいません。わたし不安なんです。皆さんが話しているマンションはたぶんすごいところで、セレブの方々が住んでいるようなところで、そんなところで私のような平凡な人間がご近所さんたちとうまくやっていけるかとか、そのことで信也さんが笑われないだろうかとか…… 私は平凡な家庭で育って、平凡に生きてきた人間です。そんな人間が、みなさんのように桁外れで裕福な方々の中で生活していけるのかどうか、不安で仕方ありません。だから、逆に今のアパートなら安心して暮らせるって思ったんです。でも皆さんのおっしゃることもよくわかります。だから、よけい不安になってしまってすいません」
理穂は俯いてしまった。
「いいのよ、よくわかるわ」
そういう玲子に続いて、欣也が口を開いた。
「君はほんとに素晴らしい、信也が魅かれたのがよくわかる。ご両親は大事なことをちゃんと教えてこられたんだなぁーって感心するよ。お金があるとか、セレブだとか、そうしたものはあくまでも外見にすぎないんだよ。大事なのは、それをまとう人の本質がどうなのかということじゃないのかな。いくらお金があっても人として駄目な人間ではどうにもならない、大事なのは身にまとうものがどうであれ、自分自身の不安と常に向き合って、己を見失うことなく生きて行くことじゃないのかな……」
「はい……」
「理穂さん、どうしてみんながこんなに急いでいるかわかるかね。君を逃がしたくないんだよ。この家で誰からも大事にされている信也がやっと女性に巡り会えた。その女性は思いもよらず素晴らしい人だった。この機を逃してなるものかって感じなんだよ。おそらく恵利佳が素早く動いたのもそういうことだよ」
「おっしゃるとおり、さすがじっちゃま」恵利佳が口をはさむ。
「君は私たちとうまくやっていけるかどうか不安に思っているみたいだけど、私達だって君がほんとに信也の嫁になってくれるのかどうか不安なんだよ。少なくても今日、君といる信也は心がさまよっていない。私はこれがうれしい。だから、もっと自信をもっていいと思うよ。難しく考えないで、今までのように自分らしく生きて行けばいいと思うよ」
さすがに欣也の言葉には説得力がある。
「はい、ありがとうございます」理穂が笑顔で答えると場は一気に明るくなった。
その日、彼女が帰宅したのは十時を回っていた。息をつく間もなく流れた激流のような一日であったが、それでもアパートに帰って一人になるとやはり不安であった。
今日の夕方は、まだ食事を作るだけのつもりで出かけたのに、わずか四時間後には結婚の日程まで決まってしまった。
翌日、理穂と恵利佳はマンションを見に行ったが、理穂の想像した通り高級マンションで駐車場の車も見たこともない高級車ばかりだった。最上階に欣也が所有する五LDKはその建物の中でも特別な一角であるようだった。
車を降りてエレベーターに乗ろうとした時、既に中に立っていた一人の女性が二人を見ると開放を維持し待ってくれた。
「何階なの?」と問う彼女に
「すいません、二十五階お願いします」と恵利佳が明るく答えた。
「お仕事なの?」どことなく上から目線のその女性は派手な服装に貴金属を、これでもか、というほど飾りつけ指もきらきらしていた。
「いいえ、長い間、遊ばせていたんですけど、ここで弟が結婚しますので弟夫婦に使ってもらおうと思って見に来たんです。この子が弟の結婚相手です。よろしくお願いします」
理穂も慌ててあいさつをしたが、穏やかに威厳をもって静かな口調で話す恵利佳の横顔は、信也を叱ったあの日の目を吊り上げていた彼女とは全くの別人で高貴ささえ漂わせていた。
「そうなの……」
それを聞いた女性は少し困惑した様子で答えると、十八階で慌てて降りていった。おそらく二十五階が特別な一角であることを知っていたのだろう。
「理穂ちゃん、あんなババぁが住んでいるのよ」
「えっ、でもなんか、宝石類はこれでもかーって感じでしたね」
「そうでしょ。『私はお金あるのよ、あなた達みたいな凡人が、何しに来たの?』って思っていたのよ、あの人は…… 人としての品格がないでしょ。あんな人達と上手に付き合うも何もないでしょう」
「はい、よくわかります」
理穂は先程の女性を見た瞬間、うわっと感じたことを思い出し心配していた自分がバカみたいに思えた。
「でもね、ちゃんとした人もたくさんいると思うのよ。とりあえず、上手にお付き合いすることよりも、まず人を見ることね。あなたが納得できる人だったら、自然にお付き合いはできるわよ」
恵利佳はいつも上手に人の不安を取り除いていく。
「はい、お姉さんといると安心です。何でも大丈夫な気がします」
「あははははっ」いつもの恵利佳に戻っていた。
この人はいくつ顔をつくれるのだろう…… そんなことを思いながら最上階についた。
「これだけあれば十分ね」
「広いですねー」
中には仕切が必要な場所もあるがその他は内装も完成されており、いつでも入居可能な状況となっていた。
ほぼ恵利佳頼みの理穂は、彼女のマンショから徒歩で三分ということも手伝ってここに住むことを決めた。
その日の夜、理穂は銀行時代の友人、高取洋子に電話を入れた。
「洋子? 久しぶり」
「元気そうね、あんたのことだから、落ち込んだりしないとは思っていたけど、でも心配だったわよ」
「ありがとう、あの時は、話を聞いてくれてとてもうれしかった」
「ところであんた、彼氏できたの?」
「えっ……」
「一ヶ月くらい前だったかな…… あの腐れ女の田中とファミレスであったんでしょ。一緒にいた青木が言っていたよ、なんか嫌味たらしく言ったそうじゃないの」
「そう…… ちょっと嫌な感じだった」
「その翌日の話は知っているの?」
「えっ、何かあったの?」
「やっぱり知らないのか…… その翌日、道であんたの彼に田中と青木が会ったんだって、そしたら腐れ田中が、心配するふりして婚約破棄のことを話しだしたらさっ、あんたの彼氏にガツンってやられたらしいよ」
「ええっー、初めて聞くよ……!」
「なんかさ、人の不幸を親切心を装って広めていくとか、彼女は婚約破棄された女性だが、人として、それに勝る魅力と知性にあふれた人だとか、あなたは、婚約破棄されたことはないでしょうが、醜い異臭が漂っているって、言ったらしいよ」
「ええっ、そうなの……」理穂はとてもうれしかった。
「いい人見つけたね」
「だけどその時はまだ付き合っていた訳じゃないのよ」
「えっ、そうなの? でも今は付き合っているの?」
「うん、結婚も決まった……」
「ええっ、だけど早いね、一度会わせてよ、私がしっかり見てみる。あんたに任せていたら心配でしょうがないよ、青木の話を聞いて、すごい人だなとは思ったけど、でも会って話してみないとわかんない」
「ありがとう、ぜひ紹介するから」
「どういう人なの? サラリーマンには見えなかったって、青木が言っていたけど……」
「実は、トレーダーしていて……」
「ええっ、それは……」
「だけとね、光園持グループの社長の息子なの……」
「ちょっ、ちょっと待ってよ、光園持グループって、あの光園持グループ?」
「そうなの……」
「あんた、玉の輿じゃないのよっ、良くやった」
「洋子、だけど彼は父親の後を継ぐつもりはないのよ」
「まあ、いいよ。トレーダーでもなんでもいいよ、理穂を幸せにしてくれるんだったらいいよ」
「ありがとう、でも、一度会ってね……」




