信也の初恋
中学生になると、彼は、一人の女生徒に魅かれるようになった。
色白で鼻筋が細く大きな瞳はやや吊り上がっていて、言葉にも切れのある女の子であった。目と目が合うとどきっとする、信也はまともにその子の目を見ることができず、横顔をちらっと見るだけで、うれしくなった。
彼女はいつも三人の女生徒と一緒に楽しそうに笑っていた。彼はその思いを周囲の者に気づかれないように、いつも自然を装って彼女を見ていた。
しかしある日、彼はとんでもない場面に出くわしたしまった。教室で男子生徒の喧嘩が始まったのをきっかけに、関わりたくなかった彼は校舎が立ち並ぶ一番北側のほとんど生徒が足を踏み入れない場所へ歩いていった。
その時、女生徒達の争う声が聞こえた彼は、しげみの隙間からその様子を見て驚いた。
彼は心を寄せる佐久間信子とその仲間の三人が、 一人の女子生徒を罵倒している場面に出くわしたしまった。
その女子生徒は壁を背に立たされ、四人に取り囲まれ泣きながら俯いていた。
信子はその胸ぐらをつかんで、 「どうして言うことが聞けないのっ!」と言ったかと思うと彼女のお腹に一撃を加えた。
信也は目を見開いて、一瞬、息が止まってしまった。
あの子があんなことを……
彼はショックのあまり、頭が真っ白になって、気が動転してしまった。
「でもお金が……」そう言いかけた彼女を、「うるさい、言い訳するんじゃないわよ」
信子はそう言うと彼女1メートルほど前に引きずり出し自分の方へ背中を向けさせすと、すかさず二人の女子生徒が両サイドで彼女の手首をとって肩を押さえつけ、彼女はお尻を突き出し、前のめりになった。
まるでいつも同じことをしているかのように手慣れた動作であった。少し左に寄った信子はその女子生徒の左太ももめがけて回し蹴りを入れた。
ばしんー「うっー」崩れ落ちそうになる彼女を両サイドにいる女子生徒が懸命に支えた。
見ていた信也は驚きのあまり声も出ず、助けに行きたいと言う思いよりも見なかったことにしたほうがいいような気がしていた。
ばしんっ、「うっー」
「大きな声出したら許さないよ」信子は罵倒して、もう一人の女子生徒に目配せすると、彼女は左利きなのだろう、左足で華麗な回し蹴りを立て続けに三回、お尻にくらわした。
彼女はいつもこんなことをされているのだろう、声も出さずに歯を食い縛って、ただ涙を流しながら耐えていた。おそらく二人から十数回以上蹴りを入れられた彼女は最後には崩れ落ちて地面に座り込んでしまった。
「今度口ごたえしたら許さないよ、本当に躾の出来ていない子ね」
信子がそう言うと、 四人は鼻で笑いながら去っていった。
彼女たちの姿が見えなくなったのを確認すると、信也はいじめられていた彼女の所へ行き
「大丈夫? 」
心配そうに彼女の顔を覗き込もうとしたが、彼女は両手で顔を覆って泣き続けていた。
「先生に連絡してくるよ、俺が証人になるから」
「それはやめて、お願いだからやめて」
「でもこんなことされて…… 今日が初めてじゃないんだろう……」
「お願いだから先生には言わないで……」
「どうしてなの、そうでもしないと彼女たちは止めないよ」
「お願い、あなたにはわからない事情があるの……」
そしてその夕方、信也は家へ帰るとベッドに横になったまま、そのことを考えていた。
俺にはわからない事情って、なんだよ……
いつまでたってもトレード室へ来ない信也を不思議に思った彩は、恵利佳が帰宅すると
「ちょっと、様子見てくれない?」と彼女に頼んだ。
「どうしたの? 信也」
「ちょっと参った……」
「へえー、好きな子でもできた?」
姉と目があった彼は、直ぐに目を逸らした。
「へえー、かわいい子?」
「いや、大嫌いになった……」
「何? それ」
彼も姉が帰宅するのを待っていた。
「これ見て……」
彼はそういうと昼間の隠し撮りした録画を見せた。
「おー、こいつまだこんなことやっているんだ」
「姉ちゃん、知ってるの?」
「知ってるよ、信子だろ…… 小学校のころから性悪なんだよ……」
「……」
「ああ、そうか、あんた、この子がいいなって思ってたのに、こんなの見て大嫌いになったんだ」
「全然、そんなことするようには見えなかったんだけど……」
「信也、そりゃー仕方ないよ、だって、一見かわいいじゃん、いやかわいいって言うより、美人だよ、普通の時は、明るくて楽しそうに笑うから騙されるんだよ」
「姉ちゃん、人間って、そんなに裏表があるの?」
「そりゃそうよ、姉ちゃんだって、三つの顔持っているよ」
「えっ」
「普通の顔でしょ、学校でにこにこしている顔でしょ、それにあんたを叱るときの顔……」
「それって、怒った顔、笑った顔、泣いた顔と一緒じゃないの」
「それは表情でしょ、姉ちゃんが言っているのは意識してつくる顔のことだよ。この信子の本当の顔は、このいじめている時だね。教室で笑っている顔は作りものだよ」
「どうしてわかるの、逆かもしれないじゃん……」
「いつも笑顔でほんとに穏やかな子が、こんなことする?」
「あっ、そうか、そういうことか……」
「それは、まあいいけど、それで落ち込んでいるの?」
「そのいじめられていた女子、松田愛子って言う子だけど、お願いだから先生には言わないでって…… 俺にはわからない事情があるんだって……」
「複雑そうねー」
「どうしたいの」
「この録画をもって、先生のところへ行きたい」
「先生の所へ行ってもいいけど、録画は最後の手段にとっておきなさい。とりあえず、見たことと、彼女の言ったことを説明したら……」
結局は、報告を受けた彩が玲子と相談して動き始めた。
虐められていた松田愛子の理由は明確であった。母一人子一人で母親が信子の父親が経営する医院の事務員をしているため、彼女は信子に逆らうことができなかったのである。
「いつでもやめてもらっていいのよ、ママが言うには若い事務員の方がいいって言ってたわよ、お情けで雇って上げているのよ」
愛子はこうした言葉をいつも浴びせられ、信子の言いなりになるしかなかったらしい。
最初は『ぱしり』程度だったのだが、その内に手が出てケリが出るようになり、無理難題を押し付けられては、それができないことを理由に躾けと称して暴力を振るわれていたようだ。
彩は愛子の母親に真実を話し、系列会社の事務員として雇用することで、愛子の重荷をはずしてやり、彼女に勇気をもって教師に訴えることを勧めたが、信子の母親がPTA会長をしていたため、学校の動きはとても緩慢だった。
しかし彩が次の手を打とうとしたとき事件が起きた。
信也に話しかけてきた信子に
「君は異臭がするから近くに来ないでくれっ!」彼が投げ捨てるように言うと、周りの男子生徒達が鼻をつまんで信子を「臭い」と言ってからかい始めた。
翌日も同様のいじめを受けた信子は、早引きをした後、その翌日からは学校へ来なくなってしまった。
このことに腹を立てた信子の母親が光園持家に乗り込んできたが、彩からいじめの録画を見せられた母親は、青い顔をして引き上げるしかなかった。
その数日後、信子は転校してしまい、事件は収まるところに収まったかに見えたが、信也はこの時から、特に女性に対して心を閉ざしてしまった。
物静かで、イケメンの信也は頭がよく、彼に気持ちを寄せる女子生徒も多かったが、この頃から彼は近寄りがたい雰囲気を醸し出すようになり、一人で時間を過ごすことが多くなった。
たとえわずかの時間でも信子に心を奪われた自分が情けなく、人間に対して嫌悪感を抱くようになった彼は現実から逃避し、小説の世界にのめりこんでしまった。
三百ページ程度の小説であれば、二時間で読み終えてしまう彼は、株の合間にあらゆるジャンルの小説を読み漁り(よみあさり)、人の心や感情を頭で理解しようとしていた。
高校を卒業するまで株と小説に埋もれた彼の生活が続いた。
心配した恵利佳が何度か女子を紹介しようとしたが、彼が心を奪われるような女の子に出会うことはなかった。




