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波紋に揺れる影  作者: 此道一歩
第二章  光園持の絡(から)まった糸
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最期の願い

 時は平静を装って緩やかに、そして皆を包み込むかのように流れていた。

 恵利佳も既に十歳になり、真一と玲子の間に生まれた長男の義一も既にニ歳になっていた。

 日々、恵利佳のにぎやかな声があちらこちらでこだまし、欣也はこの心地よい騒がしさに幸せを感じながら、自分は緩やかに晩年をむかえるのだろうと思っていた。


 しかし時は彼の期待を見事に裏切り、嵐は突然に押し寄せた。信也が六歳、彼が小学校に入学する前のことであった。

 欣也のもとに、信也の母、好子からメールが届いたのは、彼が遅めの朝食を済ませた時であった。


『 ご無沙汰いたしております。先日は信也へのランドセル、ありがとうございました。

とても喜んでいました。おじいちゃんからのプレゼントと知ってなおさらのようでした。

 本日はメールで誠に失礼とは存じましたが、もう時間があまりないことを悟り、私の最期のお願いを聞いていただきたいと思いスマホを手にしています。

 信也を授かって早六年が過ぎ、これまであの子を育ててきて、いつも思っていました。いつかこの子が父親のことを知りたがる日が来るのではないか。真一さんのことを教えなければならない日がいつかは来るのだろう。いつも思っていました。松山の家でもみんなが大事にしてくれます。でもこの子は、松山の家で根を下ろし、根をはっていくことはできないだろうな、日々、子供に接するたびに、そう感じずにはいられませんでした。そのうちに、いつかこの子は光園持にお返ししなければならない子どもなのかもしれないとも考えるようになりました。

 それがこの子の人生なのかもしれない、そんなことをよく考えていました。いつか時がそうした流れになればそれも仕方ないこと、少なくともその時まで、この子をりっぱに育てなければ……そんな思いで今日まで育んできましたが、もう時間がなくなりました。

 私は今、すい臓がんのステージⅣAを宣告され、もう治療はしていません。時間はあと一ヶ月も残されていないと思います。おそらく、私が亡くなった後も主人は、ごく当たり前のように信也を育ててくれるでしょう。兄夫婦もまた、信也を引き取ることを考えています。あの子は、おそらくどこにいても大切にはしていただけるのだろうと思っています。

 しかしながら、やはりあの子は私の亡きあとは、実の父親のいる光園持の家で育まれるべき子供なのだと思うのです。私がこの世を去って行くこともその流れの一翼をになっているのかもしれません。あの子は特別な子供です。お父様にはご理解いただけると信じています。

 何卒、お父様の関わりのある中であの子を育んで下さいますようお願いいたします。

玲子さんにも同じお願いをさせていただきます。玲子さんからは、いつかは光園持でひきとらせて欲しいとのお話もいただいていて、この子が根を張るべき場所は、松山の家ではなく、光園持の家だという思いをもって下さっています。

 いつか父親のことを話さなければならなくなった時が、一つの転機ではないか、二人の間ではそんな暗黙の了解もできていました。

 今さらながらに、彼女のやさしさというか、偉大さに驚くばかりです。一瞬でもこの人の不幸の上に自分の幸福を築こうとしていたのかと思うと、恐ろしくなります。やはり光園持の家を仕切るのは玲子さんで、私ではなかったのだ、と実感しています。人間としての格の違いを思い知らされています。

 この若さで、子供を残して去らなければならない人生はとても悔しく、とても悲しく、とてもなさけなく、筆舌に尽くしがたい思いです。でも、私には、一番心配していた信也を安心して託すことのできる人がいる。これが、ここまで正直に生きてきたわたしへの神様から最期のプレゼントだと思っています。どうか信也のこと、よろしくお願いします 』


 欣也は、メールを読みながらあふれ出る涙をどうする事も出来なかった。ただ、涙を流しながらメールを読み続けた。

「少し待ちましょう。ここは玲子さんにおまかせしましょう。会長が顔を出されるのはお二人の話が済んだ後の方がいいでしょう」

 囁く高井彩に欣也もそれがいいと思った。

 

 玲子が好子を見舞ったのは、晴れた日の昼さがり、メールを受け取った翌々日のことであった。曇った日に病魔に侵された好子の顔を見るのは忍びなく、一日遅れとなってしまったのである。

 ベッドの傍らに腰をおろすと玲子は

「どう?つらくない?」下手な慰めが何の役にも立たないことを知っていたし、早く好子を安心させてやりたかった。

「信也君は責任をもって私が預かります。あなたの息子だから…… どんなことがあっても私が守っていきます」

 決意に満ちた玲子の言葉が好子にとっては何よりの見舞いであった。


 自分が恵利佳を授かり、そして真一のもとを去ったこと、好子が信也を授かったこと、そして真一のもとを去ったこと、欣也が皆を支えてくれたこと、誰もが、それぞれの道を見極め、その道に歴史を築いてきた。 

 だからこそ、自分と恵利佳は光園持の家で今、何不自由なく暮らすことができている。この流れにかかわった者、皆が幸福になることができていれば何も言うことはなかった。

 しかしながら、結果として、好子ただ一人が貧乏くじをひいた形になってしまった。

 玲子は、そんなことを考えながら

「お願いします」と差し出す好子の手を握り締めて、力強く頷いた。

 自らの道を見極めて歩いてきたことで負の財産を得たのは好子だけであった。様々な道があったのに、それでもなお彼女は自ら定めたこの道を選択した。

 好子には自分の全てを投げ出しても、それでもなお礼を尽くせない。玲子は忘れ形見になるであろう、好子の唯一の心の気がかりである彼女の息子、信也に全てを注ぐことでしか彼女に応えることはできない、玲子は相当な覚悟をもって信也に向き合うことを決意していた。


 欣也が好子を見舞ったのはそのニ日後であった。

 彼は、病床にある好子を前に涙するばかりで多くを語らなかった。

しかし、

『 実の父親の真一さんには何も思わないのに、お義父さんと玲子さんがいてくれるから大丈夫、いつもそう思うんです。本当は真一さんに一番期待するべきなのに、残された時間がだんだんと少なくなっていく中で、今、私の心のよりどころはお義父さんと玲子さんなんです 』と静かに微笑んだ彼女が

『 信也は松山の家を継ぐことはできない、あの子は居るべき場所にいれていない、血の濃い光園持に居れば、いつか自分の居場所を見つけることができる、そんな気がするんです 』と帰り際に明かしたその言葉が頭から離れなかった。


 数日後、好子はまだ六歳の信也に向って静かに話した。

「信ちゃん、お母さんはもうあまり長く生きられないかもしれない」

うすうすそのことを悟っていた信也の目から涙がにじみ始める。

 六歳の子供は、病床にある母のそばに立ったまま、全身を硬直させ、両こぶしを握り締め震えていた。彼は松山の家で姉や弟のように義父に甘えることはできなかった。また日々医者として、主婦として、三人の子供の母として、多忙な好子に無理を言うこともなかった。すがって泣く胸をもたないこの子は、取り乱せば、母を困らせることをよく知っていたから、ただ静かに耐えて、ただ寂しさを押し殺してきた。よその子供のようにはしゃぐことは絶対になかった。好子にはそのことが痛いほどわかった。だから、この子のことだけが気がかりであった。

「信ちゃん、お母さんが死んでしまったら、本当のお父さんのところへ行ってほしいの」

信也は身じろぎもしない。

「玲子おばさんは知っているわね。信ちゃんが本当のお父さんの所へ行ったら、玲子おばさんがお母さんの代わりをしてくれるから」

 信也は泣きながら、首を左右にふる。

「僕が義父さんの本当の子供じゃないから?」

 しゃくりあげながらやっとの思いで信也は言葉にした。

「ううん、そうじゃないの。お母さんは、信ちゃんにとって、これから一番大事なことは、光園持の家で生活することだと思うの。信也には光園持の血が流れているから……」

 信也の本当のお父さんは、今は玲子おばさんと結婚していて、そこには子供がいることも彼は何となく知っていた。

「信ちゃん、手をかして」

 好子は信也の右手をとると両手でやさしく包み込み

「ごめんね。信ちゃんが生まれても、母さんは信ちゃんの本当の父さんとは結婚できなかった。今は説明してもわからないかもしれないけど、信ちゃんが大人になったらきっとわかってくれると思う。玲子おばさんは、お母さんが一番大好きな人。玲子おばさんのところには信也の好きなじいじもいるし、お母さんは、信ちゃんにそこで生活してほしいの、信ちゃんが約束してくれたら、お母さんも安心して天国に行くことができると思うの。もうお母さんは信ちゃんに何もしてあげられない。信ちゃんが大人になるまでどうやって生きていったらいいのか、それを考えるだけ。でも今のお父さんやお姉ちゃんたちとお別れするわけではないのよ。いつでも会いに行ったらいいのよ」

 好子は祈るような思いで話しかけた。


 信也にはよくわからなかったが、それでも母を大事にしたいという思いだけははっきりしていた。彼は母の笑顔が見たくて顔を上げると

「わかった」そう一言だけ返事をした。

 好子は薄れていく意識の中で、わかってくれなくてもいい。あの家にいってくれれば、玲子さんが必ずこの子を育ててくれる。お義父さんが、この子に人生を教えてくれる…… そう思いながら浅い眠りにおちていった。


 好子が息を引き取ったのはその二日後であった。彼女の夫から知らせを受けた玲子は取るものも取り敢えずかけつけた。

「好子さん、好子さん、玲子です」かすかに微笑んだ好子がかろうじて左手を動かすと玲子はその手を握って「きっと、きっと立派に育てるから」

懸命に話しかけると「お願いします」声にはならなかったが、かすかに動いた唇が玲子には見てとれた。

周りで家族が見守る中、その五分後彼女は静かに息をひきった。

 享年三十四歳の若さであった。子供たちが泣きじゃくる中、玲子は膝まずき信也を胸に抱きしめた。母親にさえこんなに抱きしめられたことはなかった彼の小さな胸にたまり続けていた様々な思いが一気にあふれ出し、彼は大声で泣きじゃくった。


 信也が光園持の家にやってきたのは初七日の法要を終えたその日であった。

好子の祭壇に手を合わせると

「きっと喜んでもらえるような人に育てるから……」

 一言だけ白木の位牌に向って玲子は囁いた。

 横で見ていた信也の義父は、気高く、美しく、信念に満ちたその表情に加えて、どことなく暖かく、さらにまろやかなやさしさを漂わせるこの女性に魂を奪われてしまいそうだった。

 好子が信也をこの人に託した意味がよくわかった。そして、自分の妻がこんなすごい女性に大事にされていたことを思うと、彼はうれしくなってきた。

 玲子は信也の義父に深々と頭を下げられ、信也とともに彼が住み慣れた家を後にした。


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