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波紋に揺れる影  作者: 此道一歩
第一章  宿命の糸
1/26

繋がった赤い糸

 ドアを開けると雨の気配、慌てて傘を手に持ち、階段を駆け降りた信也は、はっとして立ち止まると、錆付いた自転車置き場で雨宿りをしている女性と目が合った。

 その瞬間に受けた胸が痛くなるような衝撃は幼い頃、腹違いの姉、恵利佳に初めて会った時のそれに似ていた。


 鼻歌を口ずさんでいた彼女は

「すいません。雨宿りさせてもらってまーす」

 恥ずかしそうに無理やり微笑むと、ぴょこんと頭を下げた。


 そういえば相当に雨が降っている。

 彼は薄暗い空を見上げ

「いいえ」と小さく答えたものの、はっとして見知らぬ人に応答した自分に驚くと、しばらく階段下で立ち止まっていたが、思い切って彼女に近づき左手に持っていた傘を差しだした。

「これ使って下さい」

 (うつむ)きがちにそう言うと、人通りの少ないここで待っていても何も見えてこないし、雨もやみそうにない、ため息をつきながら、ぬれて帰ろうか…… そんな風に思っていた彼女は驚いて目を見開くと

「えっ、いいんですか。ほんとに? 助かります!」

 とても嬉しそうに微笑んだが、突然

「でもあなたの傘が……」雨を見上げながらそう言いかけたところで、信也も間髪入れずに

「大丈夫です。もう一本ありますから」

 今度ははっきりと微笑んで答えた。

「そうですか。助かった! できるだけ早く返しますから……」 

 申し訳なさそうに頭を下げる彼女は、身長は一六〇センチ程度、すらっとしたやや細身の体系から想像できないふくよかな顔だちは大きな瞳によってそのイメージが醸し出され、親しみやすく明るい雰囲気に満ちていた。


「二階の一番奥の部屋なので、いつでもいいですから、ドアのところに置いといて下さい」

 彼はそう言って、再び階段を上り奥に消えていった。

 彼女は見えなくなったその背に向いて深々と一礼をすると、静かに傘を開き雨の中へと歩き始めた。


 降りしきる雨の中を歩きながら、この二週間というもの、不幸な出来事の連続であった彼女にとって、このささやかな人の親切がとてもうれしくて気持ちを楽にしてくれた。

 雨宿りをしている見ず知らずの自分に傘を貸してくれた人がいたことで、世の中、まだ捨てたものじゃない…… そんなことを考えながらこの二週間を思い出していた。


 ちょうど二週間前の日曜日、午後一時に約束していたファミレスの前で理穂が待っていると、十五分遅れて婚約者の広瀬がやってきた。


「今日は何にする?」

 笑顔で尋ねながら中に入ろうとする理穂に向って

「ごめん、ちょっと待って……」彼が(うつむ)きがちに彼女を制した。

 

家族連れが出入りする傍らで、彼女が不思議そうに

「どうしたの?」と問いかけると

「ごめん、もう終わりにしたいんだ」彼から思いもよらない言葉が返って来た。

 彼は意識して申し訳なさを演出していた。


「えっ、なにを?」尋ねる彼女に向って


「ごめん、ほかに好きな人ができてしまった……」

 彼は気まずそうに、しかしはっきりと答えた。


「えっ、何?」突然のことに頭を整理できない理穂が再び問い直すと


「だから他の女性を好きになったんだ。こんな気持ちで君と付き合い続けるのは、君に失礼だと思うんだ」

 彼の子供のような言い訳だった。


「失礼って、結婚するって親にまで言っているのに、何それ……」

 呆れたように言い返す彼女に

「だから、もう結婚はできない。ごめん」彼は少しいらついて続けた。


「ごめんって…… 式場はどうするのよ!」


「キャンセル料は俺が払うから。ほんと、ごめん。何かあったら電話して、いつでも相談にのるから!」

 早くこの場を終わりにしたい彼の身勝手な言葉に


「そんなこと急に言われても……」

 そう言いながらも、彼女は彼の気持ちがもうここにはないことに気づいていた。


「ごめん、急ぐから……」

 そう言って彼は小走りに立ち去ってしまった。

 彼はこのシナリオを頭の中で何度も繰り返して練習してきたのだろう。彼女に付け入る(すき)を全く与えることなくわずか五分にも満たない別離であった。


 しばらくの間、彼女は去って行く広瀬の後ろ姿を呆然(ぼうぜん)と見つめながら、レストラン入り口の横で立ちつくしていたが、突然、

( えっ、何これ、私、婚約破棄されたのっ! )

「参ったぁー」と顔をしかめて一言だけつぶやいた。


 でも不思議なことに辛くも悲しくもなかった。心も乱れてはいなかったが、ただ今後予想される(わずら)わしさだけが頭の中で渦をまいていた。

 彼女は、困惑の中で、ふっと、遠くを見ると大きくため息をついた。


 その後は両親へ話すのが最も大変だった。

 母親は涙ぐんでこの世の終わりのように落ち込み、父と弟は

「何か信用できなかったよな」って話しながら、彼の悪口を延々と語り続けた。

 アパートは大家さんの計らいで礼金なしで少し古いが別棟へ移ることで話がついた。

 ただ辞職願を出していた銀行はどうすることもできなかったが、相談に乗ってくれた銀行初の女性融資課長の世話で、小さな会社ながらも再就職が決まった。給料は一割ほど安くなったのだが、ほとんど残業がなく定時での帰宅が多く、そのことだけが唯一の救いであった。

 

( よし、とりあえず頑張ろう! )

 元来、明るく元気なこの娘は、人と争うことを嫌い、人を責めることを嫌い、『天然なのだろうか』と思わせるようなおっとりとした性格で、全てに楽観的であった。

 彼女は「また、いいこともあるよ」独り言をつぶやきながら、引っ越しの荷物を片付け、あっという間に二週間が過ぎてしまった。

 この引っ越したアパートが以前と違うのは、やや古いということを除けば、裏側も道路に面していて、光がよく入ることが理穂には何よりもうれしかった。


( よし、今日からは、南側の道を私のメイン道路にしよう! )

 何かを変えることから始めようと思った彼女だったのに、初めてそのメイン道路を通った日がこの雨宿りの初日となってしまったのである。


 一方、信也はアパートの部屋へ帰るとワクワクする気持ちをおさえることができなかった。

 二十八歳の誕生日を迎えたばかりのこの青年は、物静かで他人には興味を持たない。人とはほとんど話さないし、他人には決して心を開かず、引きこもりというわけではなかったが、いつも古いアパートの一室にこもり、薄暗い中で一日を過ごしている人間であった。


( あの雰囲気、何だったんだ、なんか不思議な魅力があったなー…… )

 彼は、彼女の大きな瞳が訴えかけてくる彼女自身の生命力に魅かれていたことがまだ理解できてはいなかった。

 彼はそれを『あの女性の不思議な魅力』と称し、次々と浮かんでくる彼女の笑顔やしぐさに魅せられていた。

 特に彼女の笑顔は瞳を輝かせながら、彼の脳裏から離れることはなかった。

 彼は二本目の傘がないことも手伝って、再び出かけることはしなかったが、それでもまた会えるような漠然とした予感がうれしかった。


 翌日の夕方、傘は返却されて、お礼の小さなクッキーの袋にメモがついていた。

『昨日はありがとうございました。久しぶりに人の親切に触れ、とてもうれしかったです。安沖理穂』

 理穂は、お礼を何にしようかと頭を痛めたあげく、何件も店を廻り悩んだ末に、小さな袋に入った二百円のクッキーにたどり着くまでに半日を費やしてしまった。


 そして三日後、理穂が新しい会社に挨拶に行っての帰り道、その雨宿りのポイントに近づいた時、また突然激しい雨が降り始めた。

 彼女は慌てて三日前の自転車置き場にたどり着くと、服に着いた水滴をパンパンとはらいながら二度目の雨宿りを始めた。

 その雨が降り出したのは、信也が昼食のおにぎりと、ついでに二本目の傘を買ってコンビニから帰る途中であったのだが、彼は傘をさしている自分の横を小走りに追い抜いて行った人が、先だっての雨宿りの女性であることに気がついていた。


( あそこで雨宿りしていますように! )

 彼がそう願いながら、いくらか不安の混在した高揚感の中でアパート手前の家を過ぎると、少し奥まった自転車置き場に彼女を見てつい微笑んでしまった。


 彼が傘を上げると隠れていた顔が現れ彼女と目が合った。

「こんにちは……」理穂が恥ずかしそうに

「またこんな目にあっています。すいません…… 今日も貸してくださいますか?」と尋ねると

「どうぞ」彼は手に持っていたコンビニで買ったばかりの安物の傘を差し出した。

「ありがとうございます。もううれしいやら、恥ずかしいやら、穴があれば入りたいです」

 彼女が腰をややかがめ、恥ずかしそうに(つぶや)くと

「いやいや、こんなことで入らないでください」

 彼はめったに口にしない自分の冗談に酔っていた。


 ほんのわずかな沈黙ののち

「あのぉー…… 変なこと聞くんですが、カレーはお好きですか?」


 大きな瞳に見つめられ、やや押された感じがしたが、信也は彼女との会話に高揚し

「えっ、はい、大好きですよ」と平静を装って答えた。


「今日準備しているので、明日の夕方、お礼にもっていっても迷惑じゃないですかね?」

 覗き込むように見つめる彼女の大きな瞳が目の前にあるような錯覚に、彼は一瞬、困惑して即答できなかった。


「……」

「あの…… 彼女さんとかがいたらご迷惑に……」

 彼女がそこまで言うと、彼は慌てて

「そんな人いないので大丈夫ですけど、傘貸しただけなのに申し訳ないです……」

 微笑んで答えたつもりであったが、その顔は意に副わない表情を呈していた。


「いえいえ、そんなことないです。ただ、カレーだけは得意なので、好きな方に食べていただければ嬉しいんです」

 理穂が笑顔で答えると、彼は【好きな方に】と聞いてどきっとしたが

「そうですか、それじゃぁ、楽しみに待っています」とさわやかさを意識して礼を言った。


 三日前、何をお礼にするかで悩んだ理穂は、とっさに家で準備しているカレーのことが頭に浮かび思わず口にしたが、その瞬間 

( しまった。めんどうなことを言ってしまった…… )と少し後悔していた。


 しかし信也はうれしくて翌日が待ちどおしかった。

 こんな感覚は久しく記憶にない。

 まだ実母が生きていた子供のころ、玄関に出て母の帰りを心待ちにしていたことを思い出したが、どこか少し違っていた。


 翌日、夕方六時過ぎに、理穂が信也を訪ねチャイムを鳴らすと、彼は大きな声で

「はい、どうぞ!」ちゃんといますよ…… と言わんばかりに答えてドアに向かった。

 と同時に保温バックに入ったご飯とカレールー、それとは別に野菜サラダを手にした彼女が扉を開けて

「こんにちは、昨日はありがとうございました。お口にあうかどうかわかりませんが食べてみて下さい。ご飯とルーは少しさめたと思いますので温めてください」

 玄関に一歩足を踏み入れ笑顔でそう言うと、理穂は手にもっていたその夕食を差し出した。


「温める?」はて、どうしたものかと考える信也に


「電子レンジとかはないですか?」心配そうに彼女が尋ねると


「電子レンジ?」彼は流しの横に目を向け


「あるけど使ったことないです。このまま食べてもおいしいでしょ」

 あっさりと言う彼を見つめて、


( 冷めたカレー食べて、まずかったなんて思われたら最悪…… )

 不安に思った理穂が勇気を振り絞った。

「あの差支えなかったら電子レンジ見せてもらってもいいですか?」


「あっ、はい、いいです、いいです。助かります。上がって下さい」

 彼は姉の恵利佳がおいてあるスリッパを出して、二~三歩後ずさりした。


「失礼します」そう言いながら、後ろ向きに腰をかがめ靴を揃えた彼女が彼の横をかわすように通り過ぎると、何とも言えないほのかな香りなのか、雰囲気なのか、彼の前を未知の風がさわやかに流れ、一瞬ではあったが宙に浮いたような感覚に彼は胸が苦しくなった。

 彼はそこから一歩も動くことができず立ち尽くしたまま、ただ理穂の動きに合わせて身体の向きだけを変えていた。


「すごい電子レンジですね。なんでもできそう……」

 目を輝かせて理穂が言うと

「使えそうですか?」立ち尽くしたままの信也が尋ねる。

「はい、大丈夫です」そう答えた理穂は、次に

「お皿ありますか?」と尋ねたが

「よくわからないんです。その辺どこでもいいんで、開けてみてくれませんか」

 彼は申し訳なさそうに言ってはみたものの、姉ではない女性が自分の住まいのキッチンで気ぜわしく動いている様は何とも言えない不思議な感覚を与えてくれた。


「勝手に開けていいですか?」


「いいです、いいです。もう、どうにでもしてください」


「はい、それでは遠慮なく……」彼女はそう言って、全てを探索してみた。


「姉が一式そろえているはずなんですが、何がどこにあるのか、探したこともないし、そのままです」


「えっ、じゃぁ、お姉さまが使われるんじゃないですか?」

 心配そうな理穂に


「いえいえ、私のために買ったものなので問題ありません」


「わかりました、でも全て新品なんですけど……」


「大丈夫です、使って下さい。すいません。そんなことまでさせてしまって…… あなたこそ彼に叱られませんか?」

 信也は一番気になっていたことを探ってみた。


「いいえ、大丈夫です。というか、私、婚約破棄されたばかりなので……」あっさりと言う彼女に、彼は一瞬どきっとしたがそれでも「笑えませんね……」と静かに返した。

 しかし心の奥底で、よし! という思いが跳ね上がってくるのを強く感じていた。


「いいえそんな、大丈夫です。あっ、すぐに食べますか?」


「あっ、はい、食べたいです」彼は早く彼女と向かい合って座ってみたかった。

 テーブルの上に、きれいに盛り付けられたカレーとサラダが、そして冷えたお茶が並べられた。

 

 このアパートは築三十年、昔ながらの家族向けの建物であった。ドアを開けると六畳のフロアーがあり左にキッチンが、正面には二人用の白いテーブルが、右側はトイレとバス、奥には二部屋があって、広めではあるが柱と壁の間には隙間があり、壁はところどころはがれていてこの上なくみすぼらしい感じがしていた。


「あの、どうぞ召し上がってみて下さい……」

 心配そうに勧める理穂は、自分が見知らぬ男の家に上がり込み勝手にキッチンを使い、見知らぬ男のために食事を用意したことなどは全く気にも留めていなかった。


「ありがとうございます。よかったら座って下さい」


「はい、あのっ、もしおいしくなかったら、遠慮しないで残してくださいね」

 心配そうに理穂が言うと


「とんでもない。香だけでおいしさが漂っています」

 一口スプーンを口に運ぶ信也を心配そうに見つめながら、彼女は「ごくん……」と生唾をのんだ。


「うまい!」

 信也は目を見開き、お世辞ではなくその味の深さと絶妙なピリッと感に驚いた。いつも継母の玲子にうまいものを食べさせてもらっている彼ではあったが、さすがにこのカレーは彼女が自信をもっていると言うだけあって、それに値する一品であった。


【うまい】の言葉に彼女はほっとして、

「ああよかった」と深く息をはくと、見つめている間、息が止まっていたことにやっと気が付いた。


「料理が上手なんですね」カレーを口に運びながら彼が話しかけると


「いいえ、自信があるのはカレーだけなんです。料理するのは好きですけど……」


 もしかすると、ここから何か動き出すかもしれない、でも石を投げ入れなければ波紋は生じない、今日で終わらせたくないこの瞬間を…… その思いが彼を突き動かした。


 少し冗談をほのめかすように

「お金出すんで、毎晩作ってくれたらうれしいんですけどね」


「えっ」

 驚いた彼女を見て

「いえいえ、大丈夫です。そんな虫のいい話はないですよね」

 信也は打ち消したが、消え入るようにつぶやく寂しそうな彼を見て慌てた彼女は

「いえ、好きなだけで、上手くないんですよ。でも材料費出してくださって私に料理を作れって言われるのなら、それで私もそれを食べていいのなら、そりゃー私も食費が助かりますから大歓迎ですけど……」

 少し恥ずかしそうに、それでもはっきりと彼女は思いを伝えた。


「えっ、本当ですか? そりゃ、うれしい。本当にいいんですか?」

 彼は、何かが動き出そうとしている感覚に心乱れたが、本当に嬉しそうに満面に笑みを浮かべ理穂に微笑んだ。

 ほとんど笑わないこの男が笑顔になると、心底から喜んでいることが他人には十分に伝わった。


「私、さっきお話ししたように婚約破棄されて、仕事は辞表出していたしアパートも引き上げる準備していて何もかも変わってしまって、出費もかさんで新しい仕事は見つかったんですけど、以前の銀行に比べると給料も安くなったし本当に大変なんです。ですから、料理つくるだけで、食べさせていただけるのならほんとに助かります」

 

 彼女は婚約破棄されたという恥ずかしさよりも、現実をやりくりすることの大変さにあたふたとしていた時であったから、まだぼんやりとはしているけれどもかすかに見える明かりがとてもうれしかった。


「私こそ助かります。さっそく明日からお願いしてもいいですか?」

 彼は心が弾んでいた。こんな思いは生まれて初めてであった。

 ここぞとばかりに彼の頭がフル回転をはじめた。


「はい、精一杯がんばりますのでよろしくお願いします。私、安沖理穂といいます」

 特にやりくりに頭を痛めていた彼女は、思いもよらない幸運にワクワクしていた。


「はい、知っています。先だってのお礼のメモに書いてありましたから……」


「あっ、そうですね……」理穂は頭に手をあてると照れくさそうに笑った。


「私は、光園持(こうえんじ)信也といいます」


「信也さんですか。いいお名前ですね」


「有難うございます。お互いに気まずくならないようにルールだけ決めておきましょう」

 頭がフル回転を始めた彼の口からは、流ちょうにかつ明確に次々と言葉がでてくる。


「はい」理穂は座りなおして背筋をピンと伸ばした。


「材料費を含め、料理に必要な器具とか、洗い物の洗剤も全て細かいものも私の費用でお願いします。あっ、洗い物までお願いしていいですか?」


「はい、もちろんです」


「それから、あなたもここで一緒に食べて下さい」

 彼はこの部分には、特に気を付けて平静を装って機械的に話した。


「えっ、いいんですか。彼女と間違われますよ」

 うれしくても、気になる部分だけは口にしておかなければ気が済まない彼女のまっすぐな生き方であった。


「大丈夫です。持って帰ってまた温めて食べる、なんてことになったらあなたの負担が大きすぎます。そのせいで長続きしなかったら困りますので……」

 この女性と一緒に食事ができる喜びは何としても確保したいと思った信也の理屈であった。


「その変わり、材料等、一切の買い物はお願いします」


「もちろんです」理穂が頷く。


「それから、あなたが作れないときは連絡して下さい。どんなに遅くなっても作ってくれる時は、私は待ちます。私は何時になってもかまいませんので……」

 信也は可能な限り、理穂の生活リズムを壊さないように細心の注意を払った。


「なんか、すごくありがたいお話しですが、本当にそんなのでいいんですか?」


「いや、私はほんとに助かるんです。めんどうになって、ほとんど一日食べないこともあるんです」


「えっー」驚いた理穂は「そりゃ、何か食べないと、心が病んでしまいますよ」

 普通は「病気になりますよ」と言うところを、この娘は「心が病む」と口にした。


「いや、だから助かるんです。ほんとに天の助けですよ」


「お金は私が立て替えておいて、月末にまとめて……」


 彼女がそこまで言うと、信也は立ち上がって

「いや、ちょっと待って下さい」そう言うと奥の部屋へ入りキャッシュカードと通帳を持って出てきた。


 通帳の中を見ながら、しまった…… これ見せたら絶対にひかれるよなぁ、困ったような表情を見てとった理穂は、

「あの節約はうまいんで……」と通帳の残高に気を使って言ったつもりであったが


「いいか、どうせいつかはわかるし、隠さない方がいいな」彼は声にならない声でつぶやくと


「これ使って下さい」とキャッシュカードと通帳を差し出した。


 理穂はそれを見て「えっ、預かるんですか?」目を大きく見開いて尋ねた。


「お願いします。銀行へ行くのはあまり好きじゃないんです……」


「でも……」不安そうにつぶやく彼女に


「これだけの取り決めもしたんだし、お願いします。番号は七七二二です」と信也が頭を下げる。


「はい……」彼女は不承不承、納得せざるをえなかった。


「では一緒に中身だけ確認してください。開けていいですか?」

 さすがにもと銀行員である彼女は、スタートにあたって両者で金額の確認だけはしておきたいと思った。


「はい、でも怒らないでください……」信也も不安そうに答えた。


「えっ」

 通帳を開いた理穂は、目を凝らして一瞬我を失った。桁を追ってみる。「一、十、百、千…………、千万、六千万」

 その瞬間、彼女は両手でテーブルの上を静かに滑らせて丁寧に通帳を突き返した。


「これは預かれません」

 理穂の消え入るような小さな声に、信也は、やっぱりまずかったか! そう思って

「いや、悪いことしたわけじゃないんです」慌てて言ったが

「そんなことはわかります。あなたがそんな人じゃないことぐらいわかります」

 理穂が無表情に、テーブルの一点を見つめながら、投げ捨てるように返してきた。


「……」


「こんなお金あずかれる訳ないですよ」

 なぜそんなことがわからないの…… と言わんばかりに突き刺してくる。


「いや、すいません、でも、これしかないんです」


「だいたい見ず知らずの女にキャッシュカード渡して、暗唱番号まで教えて何か変です。私がこれ持って逃げたらどうするんですか?」

 冷たく言い放つ理穂の声は小さくか細いがそれでも威圧的であった。


「いや、変なのはわかっています。でも聞いてほしいんですけど……」


「……」無言のまま、理穂は口を一文字にして、信也を睨むように、しっかりとした目つきで見つめていた。

 その目は、これまでの穏やかな表情をかもしだしていたそれとは違い、ぐっと見開かれ、彼女が本当は二重で、特にその目が魅力的な女性なんだと彼は思った。


「実は、姉からも言われていたんです。もう一つ別の通帳を作って、その中にはせめて百万円ぐらいを入れて、いつかそれを預けることができる人が現れたら、まぁその時の姉は恋人か何かを想像していたと思うんですけど、その時はその通帳を預けなさいって…… だから、さっきはしまった、と思ったんです。姉からは、それが社会というものだと言われていました。『こんな通帳渡されたら、誰だって引くわよ』って…… だから正直、これを渡すのは心配だった」


「……」とても言葉を挟むことができずに、理穂は静かに彼を見つめていた。


「あなたとお話しするのは今日で三回目です。姉からは『ばか、ばか』ってよく言われるんですけど、でも私にだってあなたがどんな人かはわかります。誠実で、正直で、まっすぐ生きていて、さらにまわりを思いやる暖かさは計り知れない、人の嫌がることはすぐに引く、私にだってそれくらいのことはわかります。だからあなたに預けることには何の不安もありません」

 何かで読んだ小説の一節を交えながら彼は懸命に話し続けた。


 真剣に訴え、ここまで自分をたたえてくれる信也の言葉に、理穂ははっとして我にかえると

「ごめんなさい。ついきつい言い方してしまって……」恥ずかしそうに少し顔を赤くして俯いた。


 二人が俯いたまま、しばらく沈黙が続いたが、理穂が思い切って口を開いた。

「あのう、どちらかというと、社会とは無縁の生活をしているんですか?」

 そう尋ねた彼女に向って

「奥の部屋に来てもらっていいですか」信也は立ち上がると彼女を促した。


「えっ、はい」と答えた後、彼女は

 奥の部屋で乱暴されることはないだろうか。まぁ、されてもいいか、それも人生か…… ふとそんなバカなことを思ったが笑ってついて行った。


 その部屋は薄暗かったが整然と整理され、四台のパソコンが光っていた。

 パソコンの中では、グラフやチャートが重なり合って気ぜわしく、彼女はこの古いアパートに似合わないこの異質空間に少し不気味さを覚えた。

 驚いた理穂に「株です」信也が静かに説明を始める。


「小学生のころから株に取りつかれて、ずっとこの世界で生きています。宿題もせずに株ばかり勉強していました。大学も入ったものの、ばからしくて三ヶ月で止めてしまいました。正直に言いますけど、さっきの六千万は、利益の一部なんです。姉に言われ、毎年、利益の二〇%を別口座に移すようにしたんです」


「……」銀行につとめていた彼女にとって、見慣れた数字ではあったが、これが個人の資産だとすれば、驚きであった。


「だから」と言いかけた彼を(さえぎ)って


「いくら運用しているんですか?」理穂が尋ねると


「約二億ぐらいです」彼は俯いて消え入るような声で答えた。


「それは信用での取り扱い額ではなくて、二億の原資があるということですか」

 彼女が機械的に尋ねる。


「はい……」

 また引かれるかもしれない…… そう思いながら信也は不安そうに答えた。


 トレードで成功している人間なら、若くても1億や2億を運用している人はかなりいる。

 銀行にも、若いのに途方もない預金をしている人が何人かいて、噂によるとFXや先物で利益を得ているらしい。

 だから、トレーダーと聞いて信也の預貯金に納得することはできたが、それでも現実にそういう人を目の前にすると、理穂は、住んでいる世界が違う。私はお手伝いさんに徹しよう…… そう決意して割り切ることにした。


 呆れたような表情をした彼女を見てとると、信也はすかさず口を開いた。

 彼にとっては、生涯初の一生懸命であった。

「人と違うのはわかっています。実はこんなに人と話をしたこともないんです。いつもはもっと静かに生活しているんです。周囲で何があっても気にならない人間なんです。あなたに傘を差しだしたのだって、自分で驚いています。でも、私はここからどういう風に流れていくのかはわからないけど、この流れは失いたくないです。だから、わかってほしいんです」

 訴えるように話す彼の思いが痛いほど伝わって来た。

 

( この人も自分の宿命の中でもがいている。苦しみながら精一杯生きているんだ。ここまでどんな人生だったのだろう…… )  

 そう思うと信也のことが哀れになってきた。理穂の通帳には二十万円程度残っているだけであったが、この男は二億円以上ももっている。それなのに彼の方が不幸に思えてきた。

 おそらく友達もいなくて、いつも一人で、ただ彼を心配してくれる姉がいて、その愛情のもとにいても、彼はおそらく何をどうすればいいのか、そんなこともわからずに日々生きているのだろう……

 加えて、自分も食費が助かることは大きな魅力であったから、この際、妥協するところは妥協して利を取ろう…… そんな思いも手伝って

「わかりました。さっきのお話、決めたとおりにやらせていただきます。それから通帳も預かります」と理穂は答えた。


「えっ、ほんとうですか。うれしいです、ありがとう、ほんとにありがとう」

 ホッとした信也は少し目頭が熱くなるのを感じたが、懸命に目を見開いてそれを(こら)えた。


「大丈夫です。あなたがいい人だということは私にもよくわかりますから…… だから、大丈夫です。それによく考えたら限度額だってあるから、一度に大金を引き出せるわけじゃないし、仮に盗まれたってその人が簡単に引き出せるわけじゃないし…… 私、ただ、この金額に驚いて動揺してしまって、ごめんなさい」

 理穂は少し気まずくなって、かすかに微笑むと小さな声で謝った。


「いいえ、常識のない私が悪いです。でもほんとによかった。あなたが笑ってくれて、ほんとによかった」

 何とかこの関係を続けていきたいと願っていた信也は、肩に入っていた力が少し緩んだのを感じて大きく息を吐いた。

 こんな必死な思いになったのは、六歳の時、実母の枕もとで

「死なないで!」と願ったあの時以来であった。


 理穂はこのお金に惑わされないようにしなければ…… そう思って心に固く念じ、通帳とキャッシュカードを預かると、翌日昼休みに銀行で、まず一万円をおろした。

 その日から、ままごとのような二人の食事生活が続いた。

当初は固苦しかったその雰囲気も少しずつ春の雪解けのように和んで、一週間が過ぎた頃にはお互いに冗談も言えるようになり、笑い声も聞こえるようになっていた。


ある日の昼休み、理穂は近くにある公園の池のほとりで、ベンチに腰掛け、コンビニで買ってきた弁当を食べながら、信也のことを考えていた。

 その時、近くで母親と遊んでいた男の子が、池に向って楽しそうに小石を投げた。

ポチャンという音ともに小さな波紋が、水面に映る理穂の影に押し寄せてきた。小さな波紋に揺れる影を見て、

( まるで今の私みたい…… )

 彼女は寂しそうに俯いてしまった。


 理穂は一日一日と過ごすたびに彼に惹かれていく自分に気がついていた。

 それでも彼女は、私は婚約破棄された女だから…… この人は私みたいな女といるような人ではない、もっと素敵な女性が現れるのだろう…… そんなことを自分に言い聞かせながら、その悲しい思いを懸命に打ち消そうとしていた。

 しかし、諦めようとすればするほど気持ちが(たかぶ)り、彼への思いが深く色濃くなっていくのをどうすることもできなかった。

 信也もまた、知る人が見れば、おそらくその変貌に驚いたであろう。

 寄り添った影と影が静かに光の中に溶け込もうとしていた。


 不思議なことに姉の恵利佳もこの一週間は顔を見せていない。


 二週目の金曜日の夜、後片付けをしている理穂に向って信也は思い切って外食の話を切り出してみた。

「明日の昼は忙しいですか?」ごく自然に、平静を装った彼の言葉に


「いえ、そうじと洗濯ぐらいで、デートもない寂しい女ですよ」理穂はそう言った瞬間に、また物欲しそうに言ってしまった…… と後悔したが、彼に気付かれないようにすぐに気を取り直した。


「じゃあ、お昼、どこかに食べにいきませんか。たまには作らずに食べてみたいでしょ。頑張っていただいているお礼に……」


「そんな、お礼だなんて、食べさせていただいているだけで十分すぎますよ」

 そう答えたものの彼女はとてもうれしかった。


「いや、でも、もし嫌じゃなかったら行きませんか?」

 二人で外へ出てみたい、そんな思いが彼の背中を押していた。


 それは理穂にとってもこの上ない喜びであったが、外へ出ると婚約破棄されたことを知っている人に会うかもしれない、場合によっては彼に恥ずかしい思いをさせてしまうかもしれない…… 彼女はそのことが気になっていい返事ができず、一瞬躊躇したが、思い切って気にかかっていることを口にした。


「そんなことですか! それなら大丈夫です。じゃあ、行きますよ」

 彼は内心、ほっとした。


「あっ、はい、でも、もし誰かに会ったら……」

 場合によっては彼に嫌な思いをさせてしまうかもしれない…… そんな不安が彼女の楽しみを妨げようとする。


「もうそのことを気にするのは止めませんか。あなたが悪いことをしたみたいに聞こえて、私は嫌です」

 彼女のその控えめな気遣いが、今後の二人を制約するかもしれないと直感した信也は、ここははっきりと口にした。

 彼にしては、珍しく強い語気であった。


「はい…… ありがとうございます。とてもうれしいです。それじゃー、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます」

 彼女はこれまでに聞いたことのないような彼の厳しい言い方に心が躍った。

 私の不安以上に彼の心遣いの方が大きい…… 何てやさしい人なんだ! 

 わずかの間に積み重なってきた信也への思いに、また大きな思いが重なり、喜びとともに苦しくなっていく胸の内を、この一方通行の悲しい思いを、彼女はどうすることもできず、ただ流されていくしかなかった。

 彼女は、自らの不遇のためか、信也のこの優しさを懸命に単なるお礼として理解しようとしていた。


「何が食べたいですか?」

 彼の心は弾んでいたが、平静を装いあくまでも『お礼』というスタイルを懸命に心がけた。

 彼も彼女が自分の思いを知ったらどこかへ行ってしまうのではないか、現在のこの関係は絶対に失いたくない、その強い思いが告白することを許さず、単にいい人の演出を継続させていた。

 しかしその思いも既に限界に達していて、彼はいつまでいい人を演じ続けることができるのか不安になっていた。その内に「好きだっー!」 そう言って叫び出すのではないか、そんな不安を感じるほど理穂への思いは大きく膨らんでいた。


「信也さんの食べたいもので……」


「いや、あなたの慰労ですから、あなたの食べたいものにいきましょう」

 彼は高級レストランで向かい合って楽しそうに食事する二人を想像していた。


 しかし、

「少し、恥ずかしいのですが……」


「いいですよ。言って下さい」


「じゃあ、お言葉に甘えて、ファミレスGのAランチがいいです」

 今まで、いつも六百円のBランチで我慢していた彼女は、いつか九百円のAランチを食べたい、そう思っていた。たかが三百円なのだが、いざ店に入るとされど三百円に変わってしまう、彼女はそんな欲のない素朴な女性であった。


「じゃあ、お金は持って行って下さいね。お願いします」

 信也は少々がっかりしたが、彼女がいいのなら仕方ない…… そう思ってあきらめた。


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