2.
春近しとはいえ、まだ数ヶ月寒さは続く。
真冬に変わりない部屋で暖を取るには、厚い羽織のない春澄には火鉢の炭を転がすしかない。
小さな欠片となってしまった炭を焼べていると、突然襖が開き、思わぬ人物が姿を見せた。
「やあ、春澄。まだ生きていたんだね。」
「!秋人義兄さん…」
御堂秋人。
春澄の4つ年上にあたる、正妻、義母の一人息子で御堂家の後継となる男だ。
義母似の整った容姿をしているが、その性格は少々違う。感情を表立って出す性質の義母とは打って変わり、彼は自己コントロールの巧みな人物で、ともすれば知らぬ間に取って食われそうな底知れない恐ろしさを兼ね備えていた。
誰もが春澄を居ないものとして扱いたがる中で彼は春澄に言葉をかける唯一の相手とも言えるが、それは決して聞こえの優しいものではない。
「お前、次の春からうちに入学なのだろう?
良かったなぁ、やっとこの家から出られるね?
俺としては全く喜ばしいことではないのだけど」
「……秋人義兄さんに迷惑はかけないようにします」
「ぜひそうしてくれ。
お利口にしているのなら、これをやる」
秋人はそう言って何かを乱暴に放り投げると、それは重々しい音を立てて転がり春澄の足にぶつかった。
反射的にびくりと一瞬体を震わせた春澄だったが、よく見るとそれは二冊の本だった。
新品ではないが、古くもない。あまり読まれていなかったのだろうそれは、転がった拍子に少しページが折れてしまっていた。
しかしそんなことは全く気にならなかった。
決して善意からではない気まぐれだろうが、秋人はごく時たまこうして、いらなくなった書物を春澄に寄越してきた。
秋人は読書家だがどうも飽きっぽいらしく、春澄としてもこうして本を譲って貰えるのがこの家での唯一の楽しみだった。
「ありがとう、ございます。大切に読みます」
「本ごときで安い人間だな、お前は。
くれぐれも恥をかかせてくれるなよ。向こうでは間違っても話しかけてきたりするな、いいね?」
「…はい、義兄さん」
本を胸に抱き俯く春澄の返事を聞くと、秋人は用は済んだとばかりに踵を返して去って行った。
秋人は決して優しい人ではない。
義母からの折檻も使用人たちの扱いも、知っているが助けてくれることはない。
それは彼にこの家での権威がないからではなく、むしろその逆だった。
彼はこの家の次期跡取りだ。彼が一言異を唱えれば、例えあの義母であっても丸め込むことだって出来るだろう。そのくらい彼は賢く、人の上に立つ器量があった。
けれど、彼が春澄に手を差し伸べたことは一度もない。むしろそれを静観し、何事もなかったかのように彼はいつも薄い笑みを浮かべていた。
『泣いているの春澄?けれど、仕方ないんだよ。お前は不出来な愛人の子なのだから。
それなのに愛されたいなんて望むから傷つくんだ。
お前がそう望む限り、お前に関わった優しい人が不幸になる。お前の母と……あの女中のように。』
昔、唯一優しくしてくれた女中を失い、義母の容赦ない折檻に痛みと悲しみで涙を流しながら謝り続けたその日。
それは今も鮮明に思い出せる彼の吐いた呪詛だった。
部屋の隅で、息を殺して枯れるほど涙を零していた春澄に、秋人はまるで労わるような優しい口調で近づき、春澄の赤いみみず腫れの手をさすった。
その手は軟膏を塗り込めてくれたが、彼の瞳は冷たく、労りの色など微塵もないその表情に血の気が引き、反射的に手を引っ込めようとして、失敗した。逃がさないとばかりに強く掴まれた手は、容赦なく傷跡をなぞる。
『痛いね、春澄。かわいそうに。
でも、あの老いた女中はもっとかわいそう。
お前と同い年の孫がいたのに、もうきっと新しい靴も買ってやれないね。お前の母もそう。
お前を生んだせいでやって行けなくなって死んじゃった。かわいそうだね、春澄。』
優しく紡がれる彼の残酷な言葉によって、心の深いところがバラバラに砕け散るようだった。
正論だ。自分に関わったせいで、大切な人は不幸になってしまった。
絶望の淵で急速に色を失っていく世界の中、秋人は言った。
『罪のない人を傷つけたくないなら、もう愛されたいなんて望まないことだよ春澄。
この家の人間に愛なんて必要ないんだから。
もう誰も不幸にしたくないだろ?わかるよね?』
愛されたいと、望まなければいい。
それは暗闇で歩く術を持たなかった春澄にとって、足元を照らす道導となった。
望むから、傷つく。望むから、傷つける。
春澄にあった年相応な表情は消え、それ以来涙一つ出てくることはなくなった。
望まなければ、容易い。
心無い言葉にいちいち囚われることもなく、感情を殺せば痛みにだって耐えられる。
秋人は残酷で容赦のない人間だったが、反面誰よりも理性的でこの家での在り方を知る人だった。
厳しい言葉で苛み、決して近づくことも頼らせてくれもしないが、春澄にとって秋人はこの家で唯一、血は繋がらないが同じ子息として同朋ような思いを抱いていた。
優秀な跡取りと不出来な愛人の子では立場に雲泥の違いはあるが、同じ陽の差さない冷たい檻の中でお互い育った。
秋人もまた、この家で愛を奪われ生きるしかなかったのかも知れないと思えば、春澄はどんなにつらい言葉で罵られようとも嫌うことは出来なかったのだった。




