9.
街を見に行かないか。
日高がそう言いだしたのは、定期的に行われる学力考査を間近に控えた自学期間中のことだった。
全寮制の学院では無断で外に出ることは禁じられているが、事前に申請を出せば街へ買い物に行く許可を得ることができる。
無論、どこも裕福な家柄の子息たちだ。外出できる時間は陽のある内と短く限られているが、気晴らしに散策するには十分な時間が与えられていた。
遊歩を目的に外へ出歩いたことのなかった春澄は、日高の提案に胸を躍らせる。
「楽しみだな。俺、あまり屋敷から出たことがなくて…一度みて回りたかったんだ」
車窓から眺める街の景色はいつも活気に溢れていて、淀んだ日陰のような屋敷とはまるで違う世界のように見えた。
お坊ちゃんだな、と苦笑する日高が問題書を解く手を止めて片肘をつく。
「この辺りなら何度か来たから、多少は案内できるぞ。キネマを観たことは?」
「写真が動くんだよね!話には聞いたことがあるけど、鑑賞したことはないよ。近くにあるの?」
「少し歩くが、行けないこともない。
街を見て回っていればすぐだ。一緒に行こうか」
日高の手の内で弄ばれるペンが、くるくると楽しげに踊る。
彼の家は貿易商の財家で華族ではないと言っていたから、かなり自由な生活を許されていたのだろう。
この辺りに限らず、外のことには春澄よりずっと詳しそうだ。
日高は世間に疎い春澄に、知らない街のことについて色々と話して聞かせてくれた。
「海を見たことは?
港には色んな人間が集まるんだ。
この国に限らず、色んな大陸から海を越えて船がやって来る。
髪や瞳の色の違う外国の人間だって珍しくない。」
「華族の集まる社交界で何度か見かけたことがあるよ。青い瞳に金色の髪をしていた…背もずっと高くて」
「ああ。彼らはいつも面白いものを乗せてやって来る。開けると音の鳴る箱や、白い石で出来た装飾品。紅い茶や黒い茶も、彼らが持ってきた物だ。」
日高は瞳を爛々と輝かせて、身振り手振りで語ってくれる。
実物を知らない春澄には彼の言葉を想像で補うしかないが、考えるだけでも十分楽しい。
まるで物語の中のような話ばかりだ。
ノートの端に思い浮かべた図像を描きおこすと、全然違うと日高が笑った。
絵心はある方だと思っていたが、どうやら想像力は乏しいらしい。
日高は慣れた手つきで、話していた物を順に絵に写してくれた。
「上手いんだね、日高。
絵も描けるなんて知らなかった」
「弟や妹がいたからな。
よくこうやって絵に描いて説明してやってた。」
彼の弟妹なら好奇心旺盛そうだ。兄の話に夢中になっている姿を思うと微笑ましい。
しかしふと、彼がいくつか描き出した中で目にとまるものがあった。
「日高、これは?」
丸い、輪のような物が二つ。
こんな小さな物にも、何かからくりが仕掛けられているのかと不思議に思っていると、日高は「それは指輪だ」と答えた。
「向こうの国では、将来を約束した相手と揃いの指輪を左手の薬指にはめるらしい。
洒落た良い風習だろう?この国でも流行らないかと思ってるんだ」
指輪と聞けば確かにそれだったが、春澄の知るものとはかなりかけ離れている。
春澄が知っているのは、大きな真珠や宝石のついた、女性の手を飾る派手な装飾品だ。
「随分、シンプルなんだね。」
「男側もはめるものだからな。それに、一度つけたら滅多に外さないそうだ。普段の生活にも馴染むように、という事なんだろう」
世界は広い。
春澄は自分の生きている世界がどれほど小さかったか思い知る。
ここへ来て、日高と出会って、春澄の景色は大きく変わった。
穏やかで楽しい日常が当たり前のように日々過ぎ去る。
明日は何を話すだろう。
どんなことで、彼と笑うだろう。
たった一人彼が隣にいるだけで、色の無かった灰色の庭は、深い青を湛える大海原にまで広がった。
「まあ、まずは目先のこれを乗り越えなきゃな。外出どころか補修にでもなったら目も当てられない」
日高は嫌な顔をしながら解きかけの問題書のページをつまみ上げた。
そんなことを言いつつ、彼はなんだかんだで優秀な成績を収めていることを春澄は知っている。
中でも語学と数理は特に明るい。さすがは貿易商の息子だ。
「確かに。
でも楽しみが出来たらやる気が出てきたよ。
いつも以上に頑張れそう」
お互いに微笑いあって、机に向かう。
心の内では待ち遠しさに集中できないかも知れないなと思いつつ、春澄は高揚した気分を抑えようと苦手な科目を進んで選んだ。
割とまだまだ序盤のつもりです。
拙い部分も多々ありますが、温かい目で見守って頂けると嬉しいです^^




