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外法様

 血姑(けつこ)誰何(すいか)の声を上げるより先に周囲に視線を走らせる。

 術者に気取(けど)られることなく結界に入り込むような相手は、敵と考えてまず間違いない。


「先生は程なくここへやってきますよ。そんな格好を見られでもしたら……」


 詰め襟の学生服に膝丈の外套(マント)を羽織った少年、百合坂(ゆりさか)武雄(たけお)十蔵(じゅうぞう)の死体を囲む血姑達から、十メートルも離れていない細い路地から足音もなく姿を現した。

 そして十蔵の死体を目にして、大きくため息をつく。

 細い眉を(ひそ)め、十蔵の死体を見つめる瞳には白く輝く五芒星――晴明桔梗(せいめいききょう)が浮かんでいる。

 先日に続いて二人目の闖入者(ちんにゅうしゃ)に、血姑も通り悪魔もいがみ合いを忘れて武器を構える。


「おっと、そいつぁいけない。おちおち死んでもいられませんなあ」


 武雄の言葉に、地面に落ちた十蔵の首が暢気(のんき)な調子で返事をする。

 血姑は薙刀と通り悪魔は【刀】が、十蔵の頭と体を貫くがそこあるべき手応えはない。

 死体は煙となって散り散りになると、その場に残るは着ていたベージュ色のジャケットのみ。

 そして漂う煙は武雄の近くに集まると再び形を成して、ジャケットを脱いだ十蔵になった。


「まさか坊ちゃんまで駆り出すとは、姐さんも人使いの荒い事で。ご隠居のところへ行ってたんじゃないんですかい?」


 結界の中であっても日暮れを過ぎれば気温は下がる。上着を身代わりにした十蔵は、ぶるりと体を震えさせながら嘆息(たんそく)した。


「お爺様への孝行は済ませて参りました。下宿へ戻る道行きで事務所へ寄ったら、血相(けっそう)を変えた先生が出立(しゅったつ)するところでしたので、自分もご同道(どうどう)する事にしたのです。先生の糸が結ばれている場所なら、自分の方が早く辿り着けますし」

「危ない場所に来るのは感心出来ませんがねぇ……それにしたって姐さんより早いたぁ、どんなまじないを使ったんですかい」


 頭一つ以上高い十蔵を見上げながら、武雄は(ほが)らかに微笑んだ。そこには年頃の少年らしい、背伸びを含んだ誇らしさが多分に含まれていた。


「自分はどうしてか先生の糸とはとても相性が良いのです。糸を辿って縮地の術を使えば、先生にだって速さで遅れはとりません。となれば、微力ながら助太刀に来るのは当然の事ではないですか」


 十蔵から視線を外し、晴明桔梗の浮かぶ瞳でじっと血姑と通り悪魔を見つめる武雄は、外套の中から右手を出してくるりと手首を返す。それだけの動作で、手品じみて指の間に十数枚の呪符が現れると、それを扇のように広げながら続ける。


「これは伊崎さんには相性が悪い相手のようですね」

「そいつぁまさに(おっしゃ)る通り。騙すか焼くかしか出来ねぇ無芸なあっしにゃあ、ちょいとどころじゃなく荷が勝ちすぎる。姐さんの頼みじゃなけりゃ、尻尾巻いて逃げ出してますぜ」

「それならば、自分がお相手を致しましょう。伊崎さんには支援をお願いしたく思います」


 警戒しながらも肩をすくめて大げさに嘆く十蔵の前に、武雄は一歩進み出ると庇うように立った。

 相対する二人と相性が良いのは十蔵よりも武雄だ――それは言われずとも分かっていた。

 子供を前に立たせる事に躊躇(ちゅうちょ)はあるが、十蔵とて武雄の得手不得手もその実力も知っている。しかし何より、まだ数え年で十七の子供の後ろに隠れるのは、歳経た妖怪としての矜持(プライド)が傷つく。

 小さく唇を噛みながら風で乱れた髪をかき上げ、十蔵は大きく息をついた。


「お言葉に甘えて、この場は前を任せますぜ。ただし、怪我ぁしそうならすぐにあっしが代わります。坊ちゃんに何かあったら、姐さんやご隠居に申し訳が立たねぇ。腹切って詫びてもまだ詫び足りませんぜ」

「そうならないよう善処します。あの悪霊に憑かれた方が典治さんとすれば、下手に傷つける訳にもいかず――」


 一度言葉を切った武雄は、薙刀を構えた血姑を注視する。


「――女の子を傷つけるのも気が引けますね」

「私を侮るなっ!」


 同年代の武雄に言われたのが余程(しゃく)(さわ)ったのか、血姑が声を張り上げると武雄は慌てて首を横に振った。


「侮っている訳ではありません。ただ、貴方の身になにかあればご両親やご友人が悲しむのではありませんか?」

「……黙りなさい。黙らないのなら今すぐ(なます)切りにしてさしあげますわ」


 本気で血姑の身を案じているのはその声音と、晴明桔梗を宿す瞳に映る気配で分かる。

 だからこそ余計に腹立たしい。

 自分は、自分達は俗人に心配されるほど弱い存在では無い。


 武雄の身なりは流行りの蛮カラとは違う、仕立ての良い学生服に外套。まるで少女のような整った顔つきはにきび(・・・)の痕一つなく、癖の無い髪は血姑から見ても羨ましくすらある。

 無情の傀儡となった今でこそ一端(いっぱし)の女学生然とした身なりだが、外法様と青姑(せいこ)に取り立てられるまで、血姑は文字すら習えぬ貧民の一人だった。

 スペイン風邪で家族を全て失い、もう体を売るしか生きていく術はないところまで追い詰められていた血姑は、突然現れた外法様に救われたのだ。

 引き合わされた青姑の執り成しで今は女学校にも通っているが、それでも青姑や白姑を除く恵まれた人々から哀れみの感情を向かれると、むきになって反発してしまう。

 常人を超えた生き物である無情の傀儡となっていても、物心ついた頃から感じていた(ねた)(そね)みが消える事はない。胸の中でわだかまり、普段表に出さない分だけ今のような時により強く表に出てくる。


 狐面の内側で歯を軋らせ、薙刀の柄を握った手に力を込める。

 通り悪魔を(けしか)けて【刀】で人を斬らせては、今後の計画に支障が出かねない。となれば血姑が武雄を、通り悪魔が十蔵を相手にするのが得策だ。

 八芒星の宿る瞳は、正体こそ分からないが十蔵が妖怪であることも武雄が人間である事も見抜いている。


「お前は殺し損ねたあの男を、私はあの子供の――」


 言いかけた所で、はたと気づく。

 武雄の瞳に白く輝く五芒星は、無情の傀儡と同じように常識の埒外(らちがい)にあるものの証。

 三人の無情の傀儡がお互いを見た時、その目に映る気配は人とそうでないものが混ざり合ったものだ。

 しかし人に化けた妖怪を見破り、不可視の糸すら知覚する血姑の瞳は武雄を人間としか捉えていない。


 その目に限らず無情の傀儡に宿る術は凡百のものではない。

 敬愛する外法様の手による術だ。

 その術を持ってしても見抜けぬものがあるなど血姑には信じがたい。

 狐面の中で頬を引きつらせながら、続けて口を突いて出たのは疑問だった。


「お前は、なんだ?」


 突然の問いかけに目を丸くするも、武雄は少し表情を和らげる。


「自分の名は百合坂武雄。学生の身ではありますが、浄見探偵事務所で先生の助手として働かせて戴いております。それと……まだ修行中ではありますが陰陽道を学んでおります」


 言い終えるが早いか表情を引き締めた武雄は、手にした呪符を頭上に放り投げた。

 続けざまに舞い散る呪符の一枚を人差し指と中指で挟み取ると、呪符を挟んだ指で格子状に九回空を切る。


臨兵闘者(りんぴょうとうしゃ)皆陣列前行かいじんれつぜんぎょうっ!」


 唱え終わる最後に指から放たれた呪符は、目も眩む光を発して灰となる。

 血姑も通り悪魔もその光を遮ろうと顔の前に手をかざした。その隙に武雄は宙を舞う呪符を、次々と指で挟んでは投げつける。

 飛燕のように宙を飛ぶ幾枚もの呪符は、(あやま)たず血姑の体に張り付いた。


巫山戯(ふざけ)るなぁ!」


 典治の体を得た通り悪魔はともかく、血姑の瞳は目くらましからすぐに回復した。

 そして一声吼えながら血姑は薙刀を上段に構え、弾けるように突撃。隠形の術によって薙刀の刃以外全てを彼岸へとずらし、防御と攻撃を両立させながらの一撃を武雄に見舞おうとする。

 対する武雄は一枚の呪符をふわりと血姑の前に放ると、一言だけ口を開く。


「禁ずる」


 ただ宙を舞う紙の呪符など、彼岸へとずれた血姑には触れる事もない――はずだった。

 呪符は血姑を通り抜けるどころか、空中で微動だにせず突撃する勢いのままにその腹へと深くめり込んだ。こみ上げる胃液を我慢しきれず、血姑は狐面の中に嘔吐しながら一歩二歩後ろに下がるとその場に倒れ伏した。


 薙刀を手放し体を丸め、一人の少女に戻って小さく(うめ)く血姑の前に、ひらひらと呪符が舞い落ちていく。

 人に比べれば遙かに丈夫な血姑の体が、まるで生身だった頃のような痛みを訴える。

 こんな痛みは無情の傀儡のなってから味わった事はない。

 血姑は目に涙を浮かべながらまだ家族が生きていた時、泥酔した父親にひどく蹴られて食べたばかりの残飯を全て吐いた事を思い出していた。


 狐面を()ぎ取って新鮮な空気を吸おうとする血姑の背に、嘆くような武雄の声が降ってくる。


「その術は使い続ければ戻ってこられなくなる危険な術です。生身であの世に行ってしまえば、あなたの体もこの世に残りませんよ」

「何、した……?」


 収まらぬ吐き気と痛みの中、血姑は短く訊くのがやっとだった。


「あなたの……あなたの体にかかっている術を幾つか止めました。それと自分が投げた呪符が動く事を禁じました。不動の大岩にぶつかったようなものです。動かない方が良いですよ」


 言いながら武雄は歩を進め、地に伏した血姑の前に膝を突く。


「あなたに術をかけたのは誰ですか? 先生に少しは聞いていますが、やはりあなたの体にかかった術は命を縮めるようなものです。早く解かないと数年も保ちませんよ。今ならまだ間に合います」


 冷静な、それでいて血姑を思いやる言葉が降ってくる。

 血姑が片手をついて体を起こすと、意外なほど近くに武雄の顔があった。

 真っ直ぐに見つめる目には、真摯(しんし)な優しさが宿っている。整った顔は(うれ)いを帯び、こんな時でもなければ血姑も頬を紅く染めていただろう。

 隠していた素顔を見られているというのに、顔を隠す事も忘れて血姑は武雄を見つめ返す。

 だが突如として武雄の顔に緊張が走った。


「ごめんっ」


 短く謝りながら武雄は更に踏み込み、血姑の体を左腕で抱きしめると大きく右へと跳んだ。

 そこに幾つもの狐火が降り注ぐのと、一瞬前まで少年と少女が居た場所を、颶風(ぐふう)の如き勢いで刀の切っ先が貫くのはほぼ同時だった。

 二人を視線で追う通り悪魔は、伸びきった腕を戻して刀を構え直す。しかし追撃に移る前に狐火が壁のように立ち塞がる。


「今は大人の出る幕じゃあねぇでしょうよ」


 武雄と血姑のやりとりを静観していた十蔵は、小さく舌打ちしながら低い声で呟いた。

 何かあればすぐに狐火を繰り出せるようにはしてあったが、典治に取り憑いた通り悪魔の脚力は恐らく血姑を上回る。おかげで数を放った狐火でも当たったのは四つのみ。そして鬼の頑強さの前では、それこそ着流しを焦がす程度の効き目しかなかった。


「何で庇う? そいつは我の同輩でお前の敵だぞ?」


 典治の顔でにやにやと笑いながら、通り悪魔は()め上げるように首を傾げた。その顔に重なった青白く光る老人の顔は、悔しそうなそぶりもなく嗤いながら武雄と十蔵、そして血姑を見やった。

 武雄は血姑を離すと庇うように進み出る。


「今この子諸共(もろとも)串刺しにしようとしましたね」

「まさか。避ける事なぞ折り込み済みよ。避けられぬなら……それはそいつの不覚であろう」


 睨み付ける武雄の視線は意に介さず、悪びれる様子すら欠片も無い。


「貴様ぁ……」


 まだ整わぬ荒い息の中、血姑は呻きながら言葉を搾り出す。

 だがやはり通り悪魔の青白く光る顔は嗤い返すだけだ。血姑はまだ腹を押さえ、辛うじて立ってはいるものの膝は笑っている。もしその手に薙刀があっても、杖代わりに体を支えるのが精一杯だ。

 それが分かっているから、通り悪魔は(あざけ)りを崩さない。


「安心せい。どんな目的があるかは知らぬが、我が立派に後を継いでやろう。この刀があれば人もあやかしも二つに斬り分けてくれようぞ。無論、お前の仲間も後を追わせてやろう」


 右足を引きながら半身になると、両手で持った【刀】を顔の横で構えて切っ先を三人へ向ける。

 剣術における霞と呼ばれる構えだが、武術など習った事もない典治の体で行うせいか、田山に取り憑いていた時より姿勢が歪んでいた。

 それでも鬼の膂力は技の冴えを埋め合わせて余りある。絵姿のような金砕棒を携えた鬼など、比べものにならない危険な相手だ。

 しかし武雄は再び手首を返して指の間に呪符を出現させると、まるで無警戒に足を進める。


「坊ちゃん。一人でやるつもりで?」

「二人を同時に相手取るならともかく、よくある憑き物を一つ落とすだけです。人の手を借りてはお爺様に叱られてしまいますよ。それより、その方をお願いします」


 武雄は左手で外套の裾を大きく(ひるがえ)すと、どこに隠してあったのか無数の呪符が渦を巻いて散る。

 呪符の渦はねじれながら殺到するが、通り悪魔は【刀】を縦横に振るって片端から切り落とす。千々に切り裂かれた呪符は燃え上がって灰となり、それが鬼の腕力が巻き起こす風に吹き散らされる。

 大量の呪符を隠れ蓑にして、武雄は右手を鋭く返し本命の呪符を地面すれすれに投げつけた。


 呪符に触れては力を封じられる。

 陰陽師と(うそぶ)くのが本当であるならば、取り憑いた通り悪魔ごと封じられる可能性がある。それが分かっている通り悪魔は、下卑(げび)た笑いを浮かべながらも右手の呪符を警戒していた。

 視界の端をかすめる右手からの呪符を、体躯に見合わぬ身のこなしで避けながらうねるような太刀筋で切り裂いた。


 あと数歩で通り悪魔の間合いに入る。

 その時、引き結んでいた武雄の口が開いた。


穢気伏滅(わいきふくめつ)急急如律令きゅうきゅうにょりつれい


 武雄の声が響くと同時に空気が震えた。それと同時に飛びかかろうとしていた通り悪魔の体から力が抜け、勢いのまま地面へと激突した。

 【刀】を手放し無様に転がる通り悪魔をひょいと(かわ)した武雄は、半眼に開いた瞳で冷たく見据える。その瞳で白い晴明桔梗が一つ強く輝いた。

 しかし通り悪魔は地面を強く叩き、その勢いで体を起こすと眉間に皺を寄せて武雄を睨み付ける。


「妙な術を使いおって。だがの、今の我なら刀なぞなくともお前なんぞは――」


 言い終える間もなく、通り悪魔の足元で何かが地に落ちる鈍い音がした。ちらと視線を下げた通り悪魔が見たのは、うつ伏せに倒れる典治の背であった。

 数瞬、通り悪魔は足元にあるのが何か理解出来なかったが、それを理解したと同時に青白く光る老人の顔が驚愕を形作る。

 倒れ伏した典治に再び取り憑こうと、燐火で作られたような細い体を曲げてしゃがみ込むが、その手は典治の体を素通りするばかり。

 取り憑ける心の隙がある相手なら、例え気を失っていようと通り悪魔は取り憑く事が出来る。それすら出来なくなっているのは、どう考えても先の術の影響だ。


莫迦(ばか)だね。お前のようなつまらぬ憑き物一つ落とすのに呪符なんていらない。言霊だけで事足りるんだ」


 声変わりもしていないような高い声だが、その響きは冷たい。通り悪魔を見下す視線は鋭く、瞳の晴明桔梗が一際強く輝いている。

 ここに来て初めて、通り悪魔の青白く光る顔に狼狽の表情が浮かんだ。


 通り悪魔という妖怪は、誰かに取り憑いて心を乱し、凶行に走らせる以外には能の無い存在だ。心に隙があれば田山のような人間だけではなく、典治のような妖怪相手にすら取り憑けるが、逆に言えば心に隙がなければ取り憑く事が出来ない。

 江戸時代から長きに渡って数多の人に取り憑いてきた通り悪魔は、匂いのような感覚で心の隙を判別出来る。

 その感覚で分かるのは、どうした訳か武雄だけは心の隙が著しく少ない。とてもではないがこのままでは取り憑ける相手ではなかった。


 だがこの場で使える手駒は典治だけではない。

 大きく見開いた目玉をぐるりと巡らせると、その視線が一点で止まる。その先、通り悪魔に見据えられた血姑は、頬を引きつらせて半歩下がった。

 力を封じられ、薙刀も失った血姑はまるで年頃の少女のように血の気が引く。

 それは通り悪魔にとって、狙うべき心の隙そのものだった。


 武雄と十蔵は血姑を守るように、通り悪魔との間に立ち塞がる。しかし誰にも取り憑いていない通り悪魔は半ば彼岸の存在だ。

 肉体という重しを持たない通り悪魔は、風よりも早く山なりに血姑へと飛びかかる。


 しかし通り悪魔の痩せ細った体は、飛び上がった途端にぴたりと止まる。四方八方から伸びる細い糸が、通り悪魔を宙づりに絡め取っていた。


「いい所に間に合ったようだ。その顔、僕は忘れていないぞ」


 糸の主、一縷(いちる)は突き出した腕でくるりとステッキを一回しした。石突きから伸びた蜘蛛糸は、幽霊に等しい通り悪魔にきつく食い込み縛り上げる。


「やめろやめろやめろやめろっ!」

「その刀を使いなさい! それならどんな妖でも殺せる!」


 糸の中でもがく通り悪魔は声の限り叫ぶが、それを圧するばかりに声を上げたのは血姑だった。

 その声に弾かれるように武雄は走った。

 【刀】を拾い上げると走る勢いのままに地面を蹴って跳び上がる。


斬妖縛邪(ざんようばくじゃ)、急急如律令っ!」


 一声上げながら【刀】で斬り上げると、強靱な一縷の蜘蛛糸諸共に通り悪魔は股から頭まで両断された。

 老人じみた顔に驚愕と恐怖を浮かべていた通り悪魔は、内側から爆ぜるように膨らんだ後、武雄が着地するよりも早く夕暮れの風に溶けていった。


 一同は、血姑も含めて胸をなで下ろして息をつく。

 しかし息つく間もなくまくし立てるように口を開いたのは十蔵であった。


「姐さん、遅いですよっ! あっしは危うくこちらのお嬢ちゃんに膾切りにされるところでしたし、坊ちゃんだってあっしと一緒にどれだけ危ない橋を――」

「武雄までいて、危ない橋もなにもあるものかね」


 言下(げんか)(さえぎ)った一縷は、目を細めて十蔵に隠れるようにしていた血姑を見やる。

 男装をした美貌の探偵は歳経た妖怪としての目線で、上から下まで獲物を確かめるように血姑を観察する。

 いつもであればそんな視線に射竦(いすく)められる事はないが、今の血姑は自らに施された術の殆どを封じられている。

 まるで裸で視線に晒されているような不安が血姑の背筋を震わせ、思わず手癖で太い三つ編みを体の前に回して腕に抱いた。


「先生。今、その子は術を封じられています。ただの女の子と変わりません。あまりその様な目で見ては怯えてしまいます」


 一縷と血姑の間に割って入った武雄は、学生服のポケットからハンカチを出すと優しく血姑の口元を拭った。

 吐物を拭われた血姑は強く歯噛みしながら(うつむ)く。

 敵に情けをかけられるだけではなく、無情の傀儡となったのに以前と同じただの少女として扱われる。

 一縷に見据えられる不安すら忘れて、耐えがたい屈辱に体がか細く震えた。


 しかし相手には白姑(はくこ)を退け青姑の百鬼夜行をも凌いだ探偵だけでなく、外法様による術をも封じた少年や、危うい所まで血姑を追い込んだ男までいる。

 愛用の薙刀も無く、囲まれたこの状況では何も出来ない。

 悔しさの余りに涙ぐむ血姑を見て、一縷は大きく肩を竦める。


「どうやらそのようだ。さて……お嬢さん。悪いようにはしないからついてきて貰えるかい。聞きたい事が山とあるんだ」


 一縷の言葉に、血姑はただ頷くしかない。

 武雄は血姑に施された術だけでなく、その術に裏打ちされた威勢をも封じてしまっていた。


(もう)(もう)し。そこまでにしては戴けませんか」


 意外なほど近くから割って入った言葉は、まるで鈴の音のように耳に心地よかった。

 しかしその場に居る者は、氷水でもかけられたようにぞくりと大きく震え、全身から冷や汗が吹き出す。

 声音に混ざった、場を圧するような恐怖は誰も感じたことのないほどのものだった。

 しかし歳経た二体の妖怪は、ただ震えるだけではない。

 一縷は繰り出せる中で一番強靱で鋭利な糸を、十蔵は二十を超える狐火を振り向きすらせずに声のした辺りへと叩き込む。


 だが声の主は、蜘蛛糸も狐火も避ける事すらしない。

 足元に広がる墨よりも黒い影から湧き出た幾つもの奇怪な腕が、蜘蛛糸を逆に絡め取り狐火を打ち払った。

 振り向きながら次の手を打とうとした途端に、(ささや)くような一言が発せられた。


平伏せ(・・・)


 一縷が、十蔵が、血姑が、両膝を地について(こうべ)を垂れる。

 従わねばならないとすら感じさせる程に、その一言は絶対的な畏怖を孕んでいた。

 ただ一人だけ片膝をついて、【刀】で体を支えた武雄は歯を食いしばって畏怖に耐えながら声の主を瞠目(どうもく)した。

 その姿はこの場に不似合いな妙齢の尼僧であった。

 真っ白な頭巾を被り僧服を纏っていながら、発する気配はまるで地獄を切り取って人の形に押し込めたように剣呑極まりない。

 こんな存在が声を出すまで気取られずに、近寄っていたなど信じられるものではなかった。


「血姑や通り悪魔を退けた腕前、実にお見事。そして危うきを悟り、間髪入れずに糸や炎を繰り出した早さ。秀逸と言って差し支えないでしょう。それに何より、余の言いに抗するとはなんという畏れ知らず。この国もまだ捨てたものではないのかも知れません」


 気配をそのままに尼僧は微笑む。

 その違和感は眩暈(めまい)すら覚える。

 武雄も歯を食いしばっていなければ、今すぐにでも両膝を突いて頭を垂れたいくらいだ。

 その横では一縷が平伏しながらも両手の指から糸を放ち、自分の体を無理矢理に引き起こそうとするが、震える指では頭を起こすのが精一杯だ。とてもではないが言葉を紡ぐ事も出来ない。

 そんな中で唯一口を開いたのは血姑だった。


「外法様っ、何故こんなところへ!?」


 外法様と呼ばれた尼僧は柔らかく、子を見守る母親のように笑った。


「迎えに来ました」

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