1.1:早朝の来訪者 - 1
──いつもの朝がまた訪れる。
とりあえずは、生きて帰って来れたことに感謝を。
「おはようございます、ご主人」
「……ああ、おはよう」
一晩経ってアバターに戻ったきなこはいつも通り……というわけにもいかず、どことなく落ち着いた様子だ。
ずっと怖がっているのかと思いきや、そこまで引きずっていないようで安心する。
……いや、或いはもしかしたら、やせ我慢をしているだけなのかもしれない。何せ、一番ショックを受けたのは、他ならぬ俺──ご主人様の方なのだ。
きなこに食事を与え、予約していたBLTサンドを食べ、淹れたてのコーヒーを飲み、ネットニュースを閲覧。
代わり映えのしない退屈な朝だとしても構わない。目が覚めて、昨日が丸ごと夢だったならどんなに良かったことか。
『七時のニュースです。昨日昼過ぎ、寿ヶ谷駅で起きた原因不明の大規模な【人身事故】は、現在も範囲を広げており──』
だが、今こうして流れているニュースが変わらない事実だけを告げている。
昨日起きたすべてが、嘘偽りのない現実であるのだと。
(仮想での殺人が現実に──か)
昨日起きた事件は、公には「原因不明の人身事故」としている。一部の報道ではゲーム世界のモンスターが原因だと報せてはいるが、警察側では、本当に原因がゲームにあるのかを調査中だ。
ところが、開発元兼運営会社であるグリムアプリカ・エンターテインメント社は関与を全面的に否定。疑うのであれば、むしろビーコスそのもののバグを疑うべきだ、と強気で返した。
その仮説はあながちハズレでもないと俺は思っている。何故なら、BCA開発用のプログラミング言語であるBC言語では、アプリ側からその外殻部分であるビーコスのOSが定めた制約の中でしか、感覚を制御出来ないようになっているからだ。
例えば、サウンドのボリュームがそうであるように、0以上100以下が設定範囲であると定められていた場合、アプリの設定では鼓膜に影響を与えかねない100を超えることは出来ない。
よって、残る可能性であるビーコス本体を疑うしかないのだが、ここ半年はOSがアップデートされた履歴がなく、その間にもゲームを含む無数のアプリがリリースされている。今回のように人体が脅かされるような問題はもちろんなかった。
「あ、ご主人、誰か来たみたいですよ?」
唐突に、きなこが耳を立てて告げた。
ほどなくしてドアチャイムが鳴り、ドアがドンドンドンと乱暴に叩かれた。
「いったい誰だよ、こんな朝に」
MR視点からインターフォンに接続する。
ドア前のカメラには、思いがけない人物が映った。
「え、サクラ……?」
そのカメラを見上げる表情が、普段の彼女からはとても考えられないほど畏怖に満ちている。
『あ、開けて、ツガ! 早く! お願いだからぁっ!!』
「わ、分かった!」
尋常ならざる気迫に圧され、俺はドアロックを解除する。
ガチャン、と音がした瞬間に、ドアは俺が押すより早く開け放たれ──
「ううわっ!?」
──飛び込んできた人影が俺を押し倒した。
「………………って、その……! サクラっ!?」
急に倒されて痛みがどうというより、鼻孔をくすぐる複雑な甘い香りと、汗でしっとりとした柔らかい感触に戸惑う。
彼女は今、俺の上に被さる形で倒れ込んでいた。
「わ、わりぃっ! 痛かったか!?」
「いや……大丈夫」
サクラノゾミは、いつものように結んでいない長い髪をさりげなくかき上げ、多少ふらつきながら立ち上がった。
その後で起き上がった俺は、恥ずかしさと気まずさに、思わず口を尖らせて問う。
「……いったいどうしたんだよ急に?」
と、問いかける間に見た彼女の肩が、腕が、脚が──小刻みに震えている。
「…………見ちゃったんだ……」
「見た……?」
「その…………駅で人を殺した犯人……みたいな」
それだけ聞いて、俺は気付かぬうちに目を大きく見開いていた。
「サクラ。もしかしてスクランブル・レイダーを?」
「……うん。インストした」
サクラノゾミは、クラスではゲームをしない女子として知られている。
そんな彼女が件のゲームを入れた目的は決まりきっていた。
「用心、のためか」
「用心……うん、そうね。何もしないよりは、と思って。あんな騒ぎになっておいて、普通に外出できないでしょ?」
「そりゃあ、まあ……」
何が原因か分からないこの状況でインストールする判断は無謀とも言えるが、危険を視認出来ずに死ぬよりはマシと言える。彼女の判断は正しいと言える。
「で、ゲームを起動したまま外出したら、本当にモンスターがいたんだ。それだけならフツー驚かないんだけど、近くにいた人がリアルで襲われたもんだから……」
ということは、少なくともボールラビットのような大人しいヤツ──ノンアクティブモンスターではない。
自ら攻撃を仕掛けてくる危険なタイプ──アクティブモンスターと区分けされる連中だ。
「ソイツは、すぐ近くまで迫ってるのか?」
「小さいけどいっぱいね。昨日は何ともなかったみたいなのに」
たった一日弱。それだけのペースで、ここから約1キロ圏内の範囲がモンスターの縄張りに変えられたということだ。
「スクランブル・レイダーのアクティブモンスターは、倒さずにいるとちょっとずつ縄張り……というか、行動範囲を広げていく習性があるんだ。モンスターの種類にもよるけど、そういった攻撃的なやつらは人込みの多い街中を好むから、本来ならこんな静かな住宅街まで簡単に侵入してくることはないはずさ」
「……じゃあ、このまま放っておいたら、どうなっちゃうのよ?」
サクラノゾミが掠れた声で尋ねた。
人の多い場所を好むアクティブモンスターは、そもそも人が多いからこそ現れるし、大勢で退治されるから均衡が保たれるのだ。リリース直後の人気を考えると、僅か1、2日程度では住宅街に来ないはずである。
それが、あの事件によって人がいなくなった──或いは減らされた──駅前から、誰にも邪魔されずに行動範囲を広げたのだとしたら……。
「……多分、明日か明後日には、外を出歩けなくなるんじゃないか? 普通のゲームなら、きっと退屈しなくて済むだろうけどな」
「はあ……。もう、どうしたらいいのよ」
サクラノゾミは両手で顔を覆い、しばらくその場に佇んだ。