プロローグ:現実とミクリアの境界線
それは遠い昔、別の世界にいた頃の光景。
見慣れた駅前のスクランブル交差点。
耳に突き刺さる甲高いブレーキ音。
煙を上げた車の鳴り止まないクラクション。
花がぱっと咲くように、放射状に倒れていった野次馬たち。
恐怖は伝播し、人は皆あらぬ方向に逃げ惑った。
ぶつかり、せめぎ合い、ぐちゃぐちゃの迷路になった交差点で、俺は何もせずに立ち尽くしていた。或いは、静観していたのかも分からない。
ふと左を向くと、真っ白な光が見えた。
何故だか、そこへ行けば救われると思った。
そうだ。その気になれば、人なんてただの障害物に過ぎないじゃないか──
思い切って右足を前に踏み出し、つられて左足が前に出た。
腕を振り、体が躍り、終いには力強く、全力で駆け出していた。
走り、ぶつかり、よろけ──それでも押し退け、走り──
だが、光に届く僅か一歩手前、右側から頭に強い衝撃を受け、体が傾ぐのが分かった。
空から闇のカーテンが覆い被さってきて地面が無くなり、俺は闇の底へと落ちていく。
長い長い、浮遊感だった。
いつまで続くとも分からない落下に恐怖を憶えて必死にもがいたけど……そいつはさすがにどうにもならなかった。
「起きろよ、アカル!」
誰かに体を揺さぶられ、目が醒めた。
いや、醒めたというよりは、反射的に目が開いていた、というべきか。それは、言い換えれば習慣みたいなものだ。
顔を覗かせている友人の先に石造りの天井が見える。放射状に広がったいくつもの染みは、毎晩残した獣脂や蝋燭の煙で変色したものだ。
頭を傾ければ、両開きのアーチ窓の向こうに都会にはあり得ない草原や森が広がって見える。
「……また、夢見てたのか」
「そうだよ」
と、ユウマは苦笑する。
あの時のプレイバックだ。
夢の中で夢を見ているかのような気分に胸焼けがする。
……いや、実際、その通りなのかもしれないな。
夢も現実も、今じゃどっちつかずなんだから。
そう思うと、嘘のような胸焼けは二倍に増しやがった。
「まったく、お約束な起き方だな。つか、大丈夫か? 顔色悪ぃし、結構うなされてたけどよ」
「気にすんな。いつものことだ」
「いつも」ってなんだよ──と自問自答する。こんなのが「いつも」だと思い始めたのは、いったい何時からなんだろう。
……そうだった。
いつもの「アレ」を思い出して慌てて体を起こし、宙に素早く指をなぞらせる。
ユウマはまたかって呆れているだろうか。それでも何も言わず見守ってくれるのは、気を遣ってくれているからか。
独りでに床からニョキニョキ生えてきた木のポストが伸びきる前に手を突っ込み、束ねられた羊皮紙──つまりは今日の新聞を取り出した。
紐を解いて広げ、どんな一面記事よりも先、横書きの題字の下にある数字に注目する。
──Ver.1.3。
もはや習慣になってしまった。
変わり映えのない数字。それだけで、止めていた息が抜けた風船みたいに開放される。
毎朝、この数字を見るのが恐ろしくもある。数字が変わっていないというだけで、何回安堵したことか。
病気だ。トラウマだ。
ビーコスは何故、俺のメンタルに何も反応してくれないんだ。
「……なあ、アカル、今日も朝の狩りに行こうか?」
「いいぜ、行こう」
俺は何事もなかったかのように即答する。
嘘でもいい。早く別の空気を吸いたかった。
§
ある日を境にして、俺たちの生活習慣は大きく変化した。
引っ越しのような変わり方じゃない。
朝の散歩は狩りに変わり、いつも起こしてくれるのは、愛犬のきなこからクラスメートのユウマかノゾミに代わった。自力で起きる時は大抵、真夜中にうなされた時だ。
住まいは最新設備の寮ではなく、古びた城の冷たい一室。
夜はLEDの下でゲーム……ではなく、揺れる燭台の灯を頼りにして、古びた魔法書の解読をするようになった。
別に異世界に来たわけじゃない。
ここは、当初は避難のために、今は戦うために用意された「城」である。
こんな所にわざわざ住むのには理由があった。それは、日に日にウイルスのごとく広がっていく魔物の群れだ。
人間誰しも戦士というわけではない。魔物に対抗出来ない人々は、城や砦と化した各地の避難施設へと逃げ込んだ。それがこの場所、というわけだ。
当初は各部屋に入りきらないほどに人が溢れていた。それが今や一部の生徒のみとなり、ゲームに疎い連中だけが次々と死んでいった。
何度も忘れそうになるが、ここはゲームの世界である。
仮想現実と拡張現実を合わせたMR──複合現実によって生み出された、最新技術の結晶、MRMMORPGの舞台。つまり、現実世界では俺たちの学校であるこの施設が、MR視点で城に見えるようになった、というだけなのだ。
とはいえ、現実以上に鋭くなった俺の五感は、この一切合切を今の現実だと捉えている。
何故なら、ありもしない獣脂の臭いはするし、現実にはない飯を食って腹を満たすことも出来る。いないはずの仮想体のNPCだって複雑な人工知能で生活してるし、ぱっと見、プレイヤーと区別なんてつかないだろう。
これは果たして、現実なのか、ゲームなのか。
次第に分からなくなっていく境界の中で、俺たちは今も、今を生きるために何かと戦い続けている。