フィアレス・ドラグニール・マークファス
巨大な石造りの森とでも言うべきであろうか、だだっ広い空間に石柱が立ち並び、ニンゲンが生活するには一つも得にならない構造になっている。明かりも最低限であり、その場所の殆どは暗黒が支配していた。
そんな世界の正面、奥の奥に一つだけ、煌煌と照らされた椅子がある。華美は無く、機能も無く、ただひたすらに質素な木の椅子だ。
入口から歩いて来たであろう女性はそこに腰掛け、脚を組み、背を預けて腕を組み、虚空を見上げる。
「死にましたわ」
女性――フィアレス・ドラグニール・マークファスが、ポツリと呟く。
この何も無い、椅子しかない空間は竜精の玉座の間だ。財宝竜の娘と言われる彼女にしては、あまりにも空虚であり、色も味気も無い。ここは神殿であり、家であり、長すぎる年月を過ごす竜精の唯一心休まる、かつそれしかない場所である。
生を受けて三〇万年。成長は無く、老いも無く、産まれたままの姿で過ごして来た。竜によって生み出されたその瞬間から完璧である竜精に、変化などというモノは無い。
もし、そのようなモノを感じてしまっているならば、それは欠陥だ。構造上の欠陥、認める訳にはいかない。自身は序列第六位。魔力が最も濃い時代に編まれた、究極生命体なのだから。
まさか、まさかまさか。それほどまでに完璧な生物である自分が、エルフ一匹に殺されかけるなど、しかも、情けまでかけられるなど、あり得ない。あり得てはいけない。
(首を落とされるどころか……ヒトに触られるなんて初めて。わたくし、まだキスもしていませんのに。酷い話ですわ)
曰く、化け物の中の化け物。
曰く、自由意志を持った自然災害。
曰く、絶望の具現。
一度その場に現れたならば、一切合財何もかもを平かにしてしまうのが竜精だ。
大樹の意志に歯向かう者、大樹の意向にそぐわない者、大樹に不敬を働く者、大樹に都合の悪い者。これ等をこの世から抹消し尽くす使命を帯びて産まれた竜精にとって、ニンゲンなど歯牙にもかけないものである。
ニンゲンや神に対する態度は、竜精ごとに趣味趣向の違いはあろう。暇つぶし、気まぐれ、多々あれど、最終的には全部殺す。ニンゲンは塵芥、路傍の石、部屋の隅に溜まった埃、その程度に認識している者も多い。
そういう意味でフィアレスはニンゲン的だ。他の苛烈な竜精に比べ、部下からも慕われているし、懇意にしている神やヒトも多い。
何故かと言えば、この神殿が物語っていよう。暇なのだ。たとい百年も経たずして滅びるニンゲン相手とて、たった一時の触れ合いとて、自身の慰めになるものであると、フィアレスは考えている。慰め、そう、慰めでしかないが――自分は、他の竜精とは違っているのかもしれない。
それが欠陥だろうか。欠損だろうか。
そも、このような悩みに、頭を抱え……思い出す度に、顔を赤らめてしまう事自体、他の竜精には無い事なのかもしれない。
(まさか、十全皇の囲っていた男だなんて。というか、恋なんてしますのね、あのバケモノ)
目で見て、知識で、お話で、愛だの恋だのというモノについては、知っている。まるで経験は無い為、そもそも異性が云々などという話題が竜精間で取りざたされる事など無い。なので感覚としては全くもって不可解極まるが、あの龍はニンゲンに恋しているという。
最古の龍だ。大樹『ユグドラーシル』の子である古竜三柱と同年代に産まれた、この世界で最も古い龍である。形態の違いか、呼び名は竜と龍で異なるが、同質のものだろう。永遠に近い時間を生きた竜精ですら、十全皇などという怪物は理解出来ない。
(あの女が、躍起になって探す程の男ねえ……占有根幹魔力を行使出来るって器がまず、ニンゲンとしてどうかしているっていうのは……分かるけれど……メリットは? その恋なるものに、あの女は利益を見ているのかしら)
分からない。理解出来ない。ただ一度、外交目的で対面した事があるだけで、考察する程知っている龍ではないが、それでも彼女の心は欠片も想像がつかない。そも、龍自身がニンゲン達の頂点に立ち、政治を行っているというのが、不可解極まるのだが……形成された文化の違いだろう、としか答えられない。
(……不愉快)
不愉快。そうだ、不愉快なのだ。
あの男、ヨージ・衣笠……いや、調べた結果これは偽名であり、本名は青葉惟鷹。神から連なる一族である武家古鷹の分家の長男だ。
あの多少胡散臭い男の瞳は、何を見て来たのだろうか。考えるとなんだか、胸が苦しい。そうだ、不愉快だ。あの男の隣で、我が物顔をしていたシュプリーアという神に苛立つし、あの男をまるで乙女のように追い求める十全皇に腹が立つ。
(わたくしは、どうしたいのかしら。殺……す程ではないというか、怒りが無いというか……かといって竜精としてこのままにしておくのは、体裁上問題だらけのような気がしないでもないけれど、黙っていれば誰も分からないし……報復……なんだか恥ずかしいわ……違う。お話……そう、お話したいのかもしれませんわね。あの場では、主にわたくしが原因で滅茶苦茶になってしまいましたし、他の方抜きで、彼と対面で、お話……でも、近づいたら今度こそ、斬り捨てられそう……だけれど、占有根幹魔力なんて、そう乱発するものでもありませんでしょうし……)
思わず顔を覆う。
顔が熱いからだ。何故熱いのか。どんな反応だろうか、これは。
(そうだ。わたくし、そうですわよ。大樹教ノードワルト大帝国東部統括局局長でしたわ。権力有り余りますわね。何かしらの名目で呼び出せないかしら……でも治癒神友の会は大樹教加盟宗教ではないし……ああ、もどかしい!)
「お話、お話しないと……」
「は? 誰とさ」
「それは勿論――あら、まあ。ミーティム」
「お帰り、姉さん。お仕事は済んだの?」
いつの間に現れたのか、なんて問いは竜精には無意味だろう。フィアレスの座る椅子の隣に、彼女……ミーティム・ドラグニール・フィルスフィアが立っていた。古竜ファブニールが娘、三姉妹の三女だ。序列はそのまま八位である。
もう一人……序列七位の次女は普段引きこもっているので、もう二万年程見ていない。
「ええ。大して報告する事の無い、面白味も無い、結末になりましたわ」
「そっか。じゃあボクが別の火の神性を持つ神を新しくピックアップしておくよ」
ミーティムがうんうんと頷く。竜がどのような意図で自分達を三姉妹として指定したのかは知らないが、顔はそっくりだ。ただし、ミーティムは胸が無く尻が大きく髪を短くしている。
決められた肉体の構成は自分では弄れないので、ファブニール竜が決めた事なのだろうが……単純に見分ける為だろうか。竜精に個性が必要かと問われると、フィアレスは首を傾げざるを得ない。
「わたくしが居なかった間、統括局に何か、ありましたかしら」
「うーん。竜精が動く程の事は一つも。バルバロス商会がちょっとウザいぐらいで」
バルバロス商会――南方大陸を拠点とする、超大手商会であり、南方から端々まで商売の手を伸ばしている。小売、卸、流通貿易に留まらず、火器の密輸や『半神』奴隷貿易まで、何でもやる商会だ。
「まあ、あそこはいつも五月蠅いですものね。プチッと潰せれば良いのですけれど」
「彼等の恩恵を受けているニンゲンが多すぎるから、簡単にはいかないんじゃないかな?」
「まあ、理性的。ニンゲン的。賢い賢い」
「それで、誰とお話するのさ?」
「あー」
興味津々、といった様子でミーティムが顔を覗き込んで来る。説明出来ない。
竜精の名に誓ったのだ。例えどのような事があろうと、黙ると誓った事を反故出来ない。まして、自分の恥を晒す事になるのだ、副局長の妹に説明出来よう筈も無い。
「ビグ村で何かあったの?」
「え、ええと」
「言い淀んだ……? 姉さんが? そんなに都合が悪い事? というか――首と胸、どうしたのさ」
「ぐっ」
あの領域を離脱した後、すぐさま修復した筈なのだが、微細な魔力の流動に敏感な竜精には感じ取れるものだったのだろう。己の迂闊さを恥じる。
いや、本来ならこんな抜け目がある竜精ではないのだが――頭の中にチラつくヨージの影に気を取られていた、というのが正しいだろう。
「首を落とされ、胸を突かれた……? 竜精が? 姉さんが? は、ハハッ! それ、何者だい? あそこでそんな事出来そうなの、アインウェイクぐらいだけど……あの男が竜精に歯向かう訳が無い。竜精に攻撃を通せる神だってまず居ない……何があったの?」
「何も、有りませんわ」
「でも、顔赤いけど。そんなに気持ちが良い事されたの? 首落とされて胸を突かれるのって、気持ち良い事なのかな……痛そうだけど。というか、痛いってのがちょっと分からないけど」
「詮索しないでちょうだい。わたくしにも、色々、考える事がありますの」
「まあ姉さん個人の事ならね? ただ竜精に害成せる者がいるとすると、それ、ただ事じゃ済まされないって言うか。ボクが処理するけど」
「触らないで、お願いよ」
「そう。分かったよ」
「分かっていないでしょう」
「――……そんなに問題があるの?」
「これは、わたくしの誇りの問題であるし、あのヒト自身に、何か大きな問題を起こそうという気はない。何もかも、わたくしの不手際。それに、貴女の為でもあるわ。あのヒトは、触れない方が良い。きっと、普通に生きたいだけのヒトだから」
彼が見て来たもの。彼が感じて来た人生。変化の乏しい竜精には、想像もつかない。
だが、それでも――あの、一度何もかも失ったであろう瞳をした彼が、気になるのだ。それが聞きたかった。知りたかった。目の前で、語って欲しいのだ。
「でも姉さんはお話したいんでしょう」
「……そう、だけれど」
「何で顔が赤いのさ……ええ、もしかして、惚れたの? その歳で、繁殖っ気が出たの? いや、前例が無い訳じゃないけどさ、姉さんに限ってねえ」
「惚れ……? わたくしが? 彼に?」
「あ、男なのね」
「ぐっ……」
「ほーん。それは興味深いなあ。ま、いいさ。姉さんの意見を尊重するよ。ただ、一応調べるし、警戒もする。これは公務だ」
「……仕事熱心ね」
「遍く世に竜の平和を。異物は処理するべき……だけど、姉さんが惚れてるんじゃ、仕方ないか。処女卒業出来ると良いね?」
「貴女ねえ……」
「それじゃあ、お仕事するよ。あ、何も言わなくていい。勝手に調べるからね」
そういって、ミーティムは楽し気に暗がりへと消えていった。
話す気は毛頭無かったが、察しの良い竜精に悟られては仕方が無い。自分に出来る事は、約束を守る為にミーティムが余計な事をしでかさないよう見張る事だろう。
反故にするつもりはない。それは絶対だ。ただ、本当に、これだけは。
二度と現れるなと言われても、もう一度だけ、せめてお話だけでも、してみたいのだ。
「はふぅ……」
熱い溜息が漏れる。彼を思うと、胸が高鳴って仕方が無い。
首筋を撫でる。こんな傷が、彼との唯一の繋がりだと思うと……なかなか、完全に治す気にもなれなかった。
再開です。三日置きぐらいになるかと思います。よろしくおねがいします。




