紅い蝕痕2
「……――」
「……グリジアヌ、どうしましたか。本当に大丈夫ですか?」
獣道を少し広くしただけのような場所を歩きながら思いを巡らせていたが、それよりも気がかりなのが、彼女だ。どうにも先ほどから本調子でないように思える。
「ああ。うん。なあ――ヨージ」
「おっと」
細い肢体をくねらせるようにしてから、ヨージにその身を預け、上目遣いで言う。
はて、彼女はこんな分別のつかない女だっただろうか。過去……居なかった訳ではないが、少なくともグリジアヌは理性的な女神であると考えていた。
吐息が熱い。視線も熱を持っている。間近で見ると、幼さの中にある確かな女性が際立ち、大変魅力的だった。とはいえこんなところで発情している暇は無いのだが。
「一体どうしましたか。まさか、貴女の特定供物、生気とか言いませんよね?」
特定供物……殆ど神の趣味趣向を言うが、中には『この供物が無いと力が発揮出来ません』という者や『この供物が無いと仕事したくありません』などという者も居る。
本当に特定の特定……なんて者が居てもおかしくはない。なお、人身御供は禁止されている。
それに比べて我が神ときたら特定供物が今のところないし、素直であるし、可愛らしい。素晴らしい。十点満点である。まあ、今は傷心中だが。
「いやな、ヨージ。アンタの事、好みだって話はしたじゃないか」
「見染められるのは吝かではありませんが、今回はご縁が無かったという事にしませんか?」
「アタシさ、実は策があるんだ。本当にアンタ達がこっちについてくれるってんなら、村神は貰ったも同然。村での宗教活動の自由を許可するし、どこに布教したって構わない。な、どうだ?」
「村議会を抑え込んで、アインウェイク子爵を黙らせる手立てですか?」
「ああ、うん、それ」
……クスクスと笑う。なんとも蠱惑的だ。
しかし、どうしてしまったのだろうか。頭がちゃらんぽらんだ。
村議会とアインウェイクを抑え込む手段があるのならば一応聞きたいが、コレを信用するのは無理がある。
「お断りします」
「――あ、うん。そうだな。そっか……」
「むっ。明かりが見えますね、隠れて」
ぼんやりとするグリジアヌを木の後ろに押し込み、先の様子を伺う。岩肌にぽっかりと空いた穴から、明かりが漏れていた。そこには人影が見える。
嫌な予感がする。
(照明にしては、洞窟が明るすぎる)
それこそ、本当に取り返しのつかない、絶対的な絶望の予感だ。
音を立てないようにゆっくりと近づき、洞窟の中を遠巻きから覗き込むようにする。
じわじわと緊張感が込み上げて来る。耳を傾けると、中から妙な声が響いているのが分かった。ヨージの記憶にあるものであれば、それは祝詞だろうか。古の魔術にも聴こえる。
『この地……我等が――尊きひのしんせい……おおかみよ……』
「不味い」
ヨージの浮ついた顔が引き締まる。冷や汗が流れ始めた。
あまりの事に、目の筋肉が蠢動し、視界がブレる。手が震え、耳が一枚膜を被ったように、聴こえが悪い。
(――……そういう事か……そういう事か雨秤教団……ッッ)
洞窟の中では、目隠しをし、白い服に身を包んだニンゲンが数人、壁に沿うようにして並んで座っていた。中には祭壇があり、一般的な供物が並んでいる。
問題はその先、祀られているものである。
――祀炎宗
彼等は、火を祀って『しまって』いた。
祭壇の奥には炎が燃え盛り、それに向かって祭司が祈りの言葉を捧げている。
(大禁忌だぞ……)
森林文化たるこの世界において、火は大変に重視されるものだ。
火はヒトの生活に恵みを齎し、豊かにする。それと同時に、失火は家を燃やし、地を焼き払い、そして森を灰に変える。
大樹教は火の扱いを厳としており、火を扱う魔法は元より、一般的な火すらも細心の注意を払うよう呼び掛けているのだ。火を用いて大破壊を起こす黒色火薬などが最もな例であり、大樹教の力が強い場所ではご禁制品に近い。
その大樹教が最も忌み嫌っているものが『火の神性』である。
火の神を祀る宗派は過去存在したが、今は一つも残っていない。
祀れば即刻死刑。
一切の手心も、裁判も、温情も無い。
火を祀ったと分かれば、その時点で真っ先に竜精の率いる戦神部隊が飛んでやってきて、丸ごと滅ぼして行く。神も、ヒトもだ。いいや、それならばまだいい。
下手をすれば、火の神の縄張りと疑われた土地そのものを、丸ごと吹き飛ばされる可能性すらある。
「グリジアヌ。引きましょう。それと、荷造りもした方が良い。この土地は駄目です。火の神が居るか居ないかは問題ではない。火の神を祀った時点で、終わりだ。この森は竜精の粛正魔法で更地にされるでしょう」
後悔はしたくないが、それでも己の迂闊さを恨まずにはいられない。
神が就かない土地など無い。大樹教教会を退ける自治体などあるか。その時点で訝しんで撤退していたならば、こんな深入りをせずに済んだのだから。
何もかもご破算だ。これまで積み上げて来た努力が音を立てて崩れる瞬間は、何度味わっても慣れる事はない。しかし、今は命が惜しい。自分もそうだが、何の事情も知らないリーア達まで巻き込む訳にはいかない。
「グリジアヌ……グリジアヌ……?」
彼女の腕を捕まえ、ぐいりと立たせる。力の無い反応だけが帰って来た。
その瞳は虚ろ。何も映っていない。
何も見えていない。何処にも――本人が居ない。
「貴女まさか――」
「ヨージ」
「――ぐっ……はい、なんです、グリジアヌ」
「あいつは、戦ったんだ。たった一柱で、勝てる筈のない神と戦った。だっていうのに、村の奴等は一人として、それを知らない。そんな事ってあるか……そんな空しい話があるか……」
「誰が、誰と、戦ったと」
「ハハッ」
「ぬうっッッ」
グリジアヌがヨージの肩を掴み、そのまま横に薙ぐ。
たったそれだけの動作で、ヨージは凄まじい勢いで吹っ飛び、木にぶち当たる。
「――ぐぅぅぅッッ」
衝撃を受け、状況の判断が遅れる。自分が今まで何をしていたのかすら、一瞬トンだ。頑丈なエルフとはいえ、神から一撃貰えば昏倒しかけるのも仕方がない。
命があっただけ幸運だ。
「ふっ、ぶはっ……グリジアヌ、貴女、何に操られている――」
その答えは知っている筈だ。
今の音を聞きつけ、雨秤教団の教徒達が、獲物を見つけた野生動物のように走り出す。その目は既にヒトのものではない。動作もどこか野性的で、ニンゲンの理性を欠片も感じないものだ。
(――いるのか、火の神が。祀っているだけでなく――西国ではもう滅びた筈の、火の神がいるのか、あそこに――ッッ)
大樹教による火の神性狩りは苛烈を極めた。
火と名の付く教団は神殿と依代を全て真っ平にされた。信者達はそれこそ一人残らず、老若男女問わず、丁寧に潰された。たった一年の間に数万人が『塵』になったという。
大樹教の暗部である為、公開されるような資料には殆ど記載がないものの、扶桑国の軍事資料には、しっかりとその事実が明記されている。
(ああそうか。あの井戸に呪いをかけるなんて馬鹿な真似も、神の子を捨てるだなんて非人道的な行為も、そりゃあそうだ。新しい神が居て、皆の頭がおかしくなっているなら、やるだろうさ、そりゃあそうだ――ッ)
しかもその火の神はまともではない。神すら操るとはどういう了見だ。
ニンゲンが出しゃばってどうにかなる相手ではない事だけは確かである。一刻でも早くこの場を逃げ出さねばならない。
「ちくしょう、くそったれッ――ふんっ」
思わず悪態を吐きたくなるほど、絶望的状況だ。
短剣を抜き去り、近づいてくる元雨秤教徒を一人なぎ倒す。数は多くないが、グリジアヌに追われれば命はない。
「ヨージ、行くのかよ」
「ああ行きますとも、逃げるに決まってるでしょう――風よッッ」
外在魔力魔法には頼りたくなかったが、この場を逃げ切れるとすればコレしかない。本当に、本当に使いたくない、が仕方ない。
「"風の大神よ、我が声に応えたまえ""契約せし祖に連なる者の慟哭を受け取りたまえ""十の約定は健在なり"――……届くか? あ、届いた!」
ヨージの行使する外在魔力魔法の内、原始自然神に力を借りるものが幾つかある。
基本的に神から力を借りる類の魔法というのは、各々が学んだ宗教大系に準ずる神通力を反映させる為、大樹教の土地で皇龍樹道の神の名を挙げても反応が無い場合もある。
故に戦争などで遠征する場合は、宗教シンボルの陣取り合戦の様相でもあった。
(不幸中の幸いだな――ッ)
しかし、この土地は大樹教総本山の近くでありながら、皮肉な事に神など祀っていない為か、雨秤が東国式に祀られた神であった為か、ヨージの唱える声に応じたようだ。
「ええい吹き飛べッッ! 『風塵包刹』――!!」
両手にかかる超常的な圧力に耐え、右手で握りこぶしを作りながら、その腕を左手で支える。
完全に突き出した瞬間、空気が圧縮、指向性を持って正面に打ち出された。
「あ、ごべっッッ」
地面を抉り、木をなぎ倒す威力のソレだ、近くにいた元雨秤教徒はまるで強風に煽られた看板のように他愛なく吹き飛び、後ろに居た者達も同じくして無惨にも打ち付けられる。
またその強烈な風圧は周囲の一切合切を巻き込んで弾き飛ばし、盛大な目眩ましにもなった。
「ははっ、必殺技みたいで、叫びたくないのですけどねぇ――ッッ」
それを確認し、ヨージは一目散に駆け出す。もうなりふりなど構っていられない。
「そうか、そうか。ヨージ。そうだよな」
「――……」
「オオ――――オオオオオオオオォォッォォッッッ!!」
「ぐっ、なんてデカイ声ッッ」
今の風圧でもビクともしなかったグリジアヌが、突如として絶叫した。一体何事かと考える暇もなく、ヨージは山を下って行く。だが暫くして、木々が大きく騒めきだしたのだ。神の咆哮だ、何の意味も無い訳が無い。
その声に呼応するようにして、周囲に地鳴りが起こる。
「ああくそ、そうだよなあ、そうですよねえ、分かっている事でしたものねえ!」
ふらふらと小さな赤い光が周囲を漂い、岩に、朽ちた古木に、地面にと張り付き、埋まって行く。それらは大きくうねり、二つの腕と二つの足を生やし、立ち上がった。
「残滓かぁ……くっそぉ……ッ」
この能力が、果たして火の神によるものか、グリジアヌによるものかは判別しかねる。だが、どちらにせよ残滓が目を覚まし始めたという事実は一切変わらない。
ヒトどころか神まで操作し、一体火の神は何を考えているのか。
森の残滓達は起き上がると直ぐに山を下り始める。ヨージを直接狙っている訳ではなさそうだ。
(村に下るのか……? 目的が分からない……村を襲いたいのか?)
ここで思いつく事といえば、村の特性だ。あの火の神もまた、過去この村に虐げられた一柱なのだろうか。
いいやまさかだ。
そもそも、それでは今まで祀っていた事になるし、祀炎宗虐殺は今から千年前の話である。
「グリジアヌは――来ない! 兎も角、村に避難を呼びかけないと……」
見えるだけでも、五体。こんなものが村中を暴れまわったら、一晩で廃村だろう。
「何より我が神とエオ嬢に――」
駆ける。
自分達治癒神友の会は歩き始めたばかりなのだ。
最初から躓いて、石で頭を打ち付けるなんて理不尽、食らってたまるかというのだ。
 




