情愛1
この寒さを知っていた。心臓の動きが緩やかになり、末端から加速度的に熱が奪われて行く感覚だ。ニンゲンと定義されたものにとって不可避な死への導入部分である。死は一度入り込めば、あっという間に生命を食らい尽くす不可逆である。そこに神の加護も竜の守護も大樹の慈悲も無い。
大樹という輪廻に戻る過程。死という恐怖を和らげる大樹教の教えという倫理。
その身に叩き込まれたソレではあったが、やはり、死は恐ろしかった。
手先の感覚が無くなると、それがまるで樹木にでもなったかのような幻視に襲われる。
足が動かなくなると、そこに根が張ったかのような幻覚に襲われる。
紅い樹液は止めどなく岩肌を流れ、地面を湿らせて行く。
掠れ行く思考に何度となく写り込むのは、父と母の顔。
大樹をネグラにしていた、馬鹿な神様達。
それに、修道院で唯一、自分と対等に仲良くしてくれた、エメラルダの顔だ。
たった一五年。しかもその殆どは大空中庭園で過ごして来た。普通の女の子よりも、ずっと世間は知らず、ニンゲンらしいニンゲンも知らず、いいや、そもそも、生命何たるかすら、曖昧で、無理解であったと言える。
ヒトは死ねば物質だ。物質に感情を抱く事は無い。
魂無きはヒトに非ず。木偶と同義としては、ニンゲンに失礼であるとすら、思っていた。
自分もそうなるのだ。自分も、その過程を着々と歩んでいる。
あと数時間もすれば、単なる肉になる。
肉は大樹へと持ち去れら、顔見知り……フレースヴェルグとヴェズルフェルニルに啄まれる。
魂は、葉となるか、実となるか。どれにしても、ラタトスクはそんな姿のエオにすら、悪態を吐くのだろう。彼女は悪態を吐くのが仕事であるから、仕方が無い。
しかしそう考えると、死も悪くないのかもしれない。
自分は大樹の子だ。こんな、大樹から遠く遠く離れた場所から、またあの場所へと戻る事が出来る。自分を虐める者はいなくなる。また、母に逢える。父に逢える。
(……それは……本当に?)
知っているではないか。確かに彼等は存在する。神話は神話などではなく、全ては正しい歴史なのだ。だが、その全てが大樹教の教えに沿った死に方をする訳ではない。
もう母も逢いに来ない自分を……こんな、岩場の陰で死んだ自分を……誰が、見つけてくれるだろうか。フレとヴェズは、ちゃんと自分の肉を持ち帰ってくれるだろうか。まさか。
震える手を動かし、腹を拭う。そこから滴る紅い血は、否応なく現実を叩きつけて来る。
(ひとりで、死ぬの? 誰にも、誰にも見つけて貰えず……ひとりで?)
温かい母の胸の内ではなく。父の腕の中でもなく。
夢見る王子様は迎えに来る事もなく。
まるでゴミのように。本当に、ただの物質のように。
この岩陰で、死臭をまき散らし、野生動物を呼び込むだけの、肉になる。
(いや、いや!! 死にたくない!! エオは、まだ何もしてない! ニンゲンらしい生き方なんて、一つも知らない! 女の子らしい経験なんて、まるでない! これからなのに! エオが、エオが何をしたって言うの! 誰か、誰か! パパ! ママ! ユグドラーシル様……! ミドガルズオルム様――!!)
もう声を発する事も出来ない。魂の慟哭は暗い闇夜に吸い込まれ、消えて行く。
寒い。ここには灯りが無い。
ここに来てから、灯りらしい灯りといえば、エメラルダぐらいだった。
彼女と逢っている時だけは、自分がニンゲンになれたような気がした。
お互いの本心を、互いの素性を、唯一明かせる存在だ。
クレアは――何か隠していた。その後ろめたさが滲み出ていた。
「――なんて……事を……」
声が聴こえる。聞き覚えのある声だ。
どうりで。
それもそうか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……止められなかった……ごめんなさい……」
謝る事なんかない。クレア個人が、エオの殺害を意図していただなんて、思っていない。
家柄だ。家がそうさせる。力の無い末端は、削られて、家の肥やしになる運命にある。
彼女も、哀れな子だ。
「……頭が、割れてる。腹が裂けてる……脈も……もう、ない」
(……――)
「どんな奇跡が起きても……もう、助からない」
(そっか)
もう何も動かせない。でも『生きて』いる。
クレアが立ち去る。エオは……『エオ』と目が合う。
『エオ』は、頭から血を流しながら、脳をはみ出させながら、口元を釣り上げ、笑っていた。
「貴女、誰」
「あんま離れんなよ。大丈夫だから。大丈夫だ。すぐ、助けが来る」
「もう、死んでいるでしょう」
「ニンゲンの肉体としちゃ、そりゃ死んでる。が、お前、自分が誰の子だか、知らないのか?」
「こ、皇帝陛下」
「そっちじゃあねえ。母親の方だよ」
「ママが?」
「ま、いいや。ほら、戻ってこい。俺達の母さんが『ニンゲンに見えるように』してるだけなんだからよ」
「大丈夫なの? エオは、エオ"達"は、死なないの?」
「おうさ。さ、早く戻って、祈れ。ユグドラーシル様に。ミドガルズオルム様に。そうすりゃきっと、声も届くだろうさ。お前は大樹の寵児だ。大樹様が助けない何てこと、有ると思うか?」
「――うん、うん。祈る。祈ります」
「それでいい。この世界で一番大事な事だ。祈る事。信じる事。その具現がお前だ。俺だ」
「貴女は結局、誰なの?」
「母さんが抑え込んだ側だよ。俺が出てると、皆、ニンゲンとしちゃ、見てくれないからな」
「じゃあ、貴女も、エオ」
「そう。お前もエオ。大事な大事な、お互い様だ……」
その言葉に従い、エオは待ち続けた。『エオ』が明確に何者かは分からないものの、恐らく母に起因するものだろう、というのは分かっていた。
ニンゲンの中で暮らすには、エオは強すぎる。具体的な内容は一切語らなかったが、母はエオの力と、記憶の一部を『思い出せない』ようにしたのだろう。
記憶を分割して隔離し、決して忘れない記録として封をする技術。本来なら自分の意思で引き出せるものだが――その幾つかが、恐らく母の手によって鍵をかけられている。
魔法とて、本来ならば容易いものなのだ。自分が魔法を使えたという事実を思い出したのは、ヨージの魔法を見た時だった。強烈な、鮮烈な……自分の追い求める何かの琴線に、触れた故だろう。
この寒さを知っている。自分がどうなっているのか、まるで分からない曖昧さも、とても似ている。自分は死にかけているのだろうか。恐らくそうだろう。
記憶が混濁とする。前と、今と、境界線がグチャグチャだ。
(ユグドラーシル様。ミドガルズオルム様。どうぞ、エオをお救いください……)
お願いします。腸を引きずり出すのをやめてください。
お願いします。脳を啄むのをやめてください。
お願いします。子宮を返してください。
お願いします。卵を産み付けるのをやめてください。
お願いします。お願いします。お願いします。
(――……――――…………どうか、エオをお救いください)
夜が明け、朝を過ぎ、昼を越えて夜に至る。それが数度繰り返されたのちに、彼女は現れた。
「ぐず……えぐっ……うっ、うっ……」
薄い衣を一枚纏った、銀色の髪の少女だった。幼い顔を真っ赤にして、泣き腫らしながら近づいて来る。どうして泣いているのか。何が悲しいのか。彼女は一しきり泣いた後、エオの『残骸』に手を触れる。
「痛かったでしょう……苦しかったでしょう……こんなのは、ダメ。こんなことってない。私は『貴方が死ぬことが許せない』『痛みで苦しむなんてことは許容できない』」
彼女はそう告げると、その柔らかな手から光が溢れ出た。
母の胸の中のような、いいや、母の胎内に戻ったような、覚えている筈もない感覚。
そしてこれが、何よりも――『慈悲』などではなく、強い強い『自我』によって齎された奇跡であると、知らされる。
娘の幸せを、母は願うだろう。
だが、それ以上に、娘を愛しているという、母の強い顕示と自己満足が感じられた。
しかし、例えこの驚くべき奇跡が、この銀髪の少女のエゴによって齎されたものだったとしても……これに感謝せずにはいられない。これに幸福を感じずにはいられない。これを崇めずにはいられない。
「――痛くない? 死んでない?」
「ええ! すっごいです! もう、ぐちゃぐちゃになったかなあ、なんて思いましたけど、元気です!」
「良かった」
「エオは、ええと、エオです! 貴女様は?」
「……シュプリーア。貴女の声が聴こえたから、向こうから来たの」
「まさしく奇跡ですよー! さ、行きましょう神様! ここ、あまり良くない場所なので!」
「そうなの?」
「そうなんです! 一先ず西を目指しましょう!」
「どこかに、行くの?」
「ここじゃないところです! ここじゃない……もっと、沢山ヒトがいるところに!」
「――ヒト。うん。ヒトのいるところ」
あの瞬間から、エオは、新しいニンゲンになったのだ。自分は死に、新しい自分が産まれた。父も母も恋しいが、戻ればきっと、迷惑をかける。自分は忌み子なのだから。
自分を救ったこの神と共に、新しい場所へ、新しい世界へ。
きっときっと現れてくれる……自分を愛してくれる、騎士様を求めて。
「……エオちゃん。ごめんね。私の力が、足りないばっかりに……」
「だ、大丈夫なのか、ドーエル。こ、拘束しているとはいえ……」
「なあに、問題ありゃしませんよ。神様は動けねえし、そこのガキは固まっちまってる。女王様は別の檻に放り込みやしたし、あのイナンナー女は別室でメシ食ってまさあ」
「ふ、ふうむ……」
「何にせよ、一度は頷いたんです。なあ、神様よ」
「……うん」
「ってわけでさあ。こいつらの宗教は明日にゃ解体。ヨージとかいう奴が戻って来ようと、なあに、自分が叩き伏せまさ。マーリク竜支卿には、事務手続きに専念して頂いてもらえりゃ、大体終わりってこってす」
「しかし、お前を襲った、という者達は何者か。どこかに漏れているのではないか?」
「……家紋は隠しちゃいましたが、あの動きはアインウェイクのモンですな」
「アインウェイク子爵家の首都常駐騎士が何故!?」
「さあてねえ……ま、それも数日のこってす。コイツが正式に大樹教の神として、同意したってんなら、アイツラが襲って来る理由も無くなる。そうでしょう」
「そ、そうだが……しかし……」
「オヤジ。デンと構えていてくださいよ。大丈夫、何とでもなりまさあ」
「……分かった。手続きに戻ろう。邪宗弾劾裁判は明朝からだ。私の協力者である宗祖三名を用意してある。あっという間に片付くだろう……拘束しているとはいえ、失礼など働かないように」
「へいへい」
声と、音だけが響いて来る。視界に映るものはない。考えもまとまらず、思考が浅く、ぼんやりとする。ただ、目の前にある『行動し、実行せよ』という文字列だけが、瞬いている。
「だ、そうだぜ。しっかしまあ、生まれたてだってえのに、なんてカラダしてやがる。その奇跡だって、イルミンスル以外じゃ聞いた事もねえ。どこから産まれたか分からねえんだって? きっとよっぽど高位な樹木か、神様が親なんだろうなあ」
「……」
「なんだその目は。ほら。手前が嫌いだっつった顔だぞ。よく見ろ」
「……」
「くっ、くくっ……! これから手前は大樹教的にゃあ、相当な待遇になるだろうよ。が、俺にはそうはいかねえ。手前の大事なモンの殺生与奪は俺が握ってるからな。どうだよ、最悪だろう」
「……」
「なんか鳴いてみろよッッ!!」
「ぐっ……い、つ……ッ」
「なんだ、この状態じゃあ、殴られただけで痛ぇのか。はー、対神格牢獄の奴等、ほんと、とんでもねえ拘束具抱えてんだなあ……笑っちまうぜ。ま、都合が良けりゃなんだっていいか。俺は朝まで暇だしよ、付き合え」
「……正気?」
「そりゃもう! もしかして手前、自分がどんだけイイ女か、考えた事ねえのか?」
「他の男のヒトに興味ない」
「はー、そりゃイラつくな。そのヨージって野郎はよぉ……なんだ、じゃあそいつしか男知らねえのか」
「……」
「ぶっ、ふ。おいおい、マジかよ。なんだ、そいつ不能か。あーあ、可哀想な神様だぜ」
「貴方は」
「あン?」
「貴方は、自分がどのくらい醜悪な生き物なのか、考えた事、ある?」
「ああそれか。元は街の小悪党だからよ。オヤジ……マーリク竜支卿に拾われなきゃ、今頃街の片隅で、ゴミみてえに死んでただろうぜ。ま、だからよ。神様曰く醜悪下劣な糞男が知ってる、女を黙らせる手段っつったら、これだわな。なーんとも、思わねえ」
酷い雑音。吐き気がする声。汚らしい笑い声に、耳が腐りそうだった。心の奥底では、やめろと叫んでいる。脳が焼ける程の怒りに震えている。けれど、身体は動かない。
なんと無力なのだろう。自分は結局、神様とヨージについて回るだけの女なのか。自分自身が、誰かの助けになろうなどとは、考えなかった。けれども、神様もヨージも、他人を助けるヒトだ。それが正しいという。自分の信じる者達がそういうのだ。では、新しい自分、新しいエオは、少なくとも『そうすべき』だというのに。
「……ヨージ……さん……」
「あ? なんか喋ったか、こいつ」
「え、エオちゃん……?」
「で、伝令! ドーエル隊長! 侵入者です!!」
「あ? 騎士か?」
「いいえ、その、男と女の二人組のようで……」
「手前ェらで片付けろよ」
「正体不明の敵です……ドーエル隊長が当たるようにと、マーリク様が」
「チッ、萎えちまうなあ。大人しくしてろよ、お嬢さん方よぉ」
何かが、どこからか聴こえて来る。今ここに居る筈のない、彼の声だ。自分の知人の名前を、呼んでいるような、気がするのは、何故だろうか。
クレアと、エメラルダ。どうして彼が、その名を呼ぶのか。何故聴こえるのか。
「エオちゃん。エオちゃん……」
リーアが、拘束されているにも関わらず、そのカラダを引きずって、エオに縋る。
その温かさは、死した自分を蘇らせた時よりもずっと、慈愛に満ちていた。あの『自分勝手な』力ではなく……本当に、他人を思いやる、温かさだ。
祈ろう。
ただ祈ろう。信じるものを。この、尊い神と、愛しいヒトに、祈りを捧げよう。
それが出来なくなった時こそ、本当の終わりなのだから。
(ヨージさん……ヨージさん……)
朦朧状態だった為に、現状がどうなっているのか、詳しくは分からない。だが、ヨージは自分の為に、動いてくれている筈だった。だからこそ、今こうなっている。どこかで、彼は戦っている筈だった。
(エオが、こうなってしまった、理由)
(行動し、実行せよ)
自身を辿る。魔力を手繰る。ココロを遡る。記憶を巡る。起源を視る。
そこにあるものは、懐かしくも忌まわしい、捨て難き世界であった。
(ああ、そうか……)
「……エオちゃん? 神の気……?」
潜る。良かろうが悪かろうが、自分が深い因果を結んだ場所だ。
そこには――自分の痕跡が『在る』のだから。
もう、頼るばかりは嫌だ。
自分が、自分こそが、今こそ『動く』べき時だ。




