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龍女皇陛下のお婿様  作者: 俄雨
聖モリアッド修道学院編
144/318

礼拝堂タクティクス2




「うっ……」


 何か、とてもイヤなものを感じた。心臓の薄膜がひりつくような、妙な緊張感と痛みがある。時刻は五法刻時。この違和感がこれから行われる戦闘の予兆とは、思えない。長い戦争の経験から言っても、死にそうな時、というのは、もっと重たい感覚があるのだ。


 まさか、我が神に何事かがあったか。


「ヨーコ様。如何なさいましたか」

「いえ、大丈夫です、ガーリンド。それよりも」

「当然エメラルダも付いて行きます」

「駄目です。ガーリンドと一緒に避難です」

「心配です」

「非戦闘員が近くに居る方が心配ですよ……相手にするのは妖魔ですよ」


 これから作戦決行だというのに、エメラルダがなかなか引き下がってくれない。ガーリンドも困り顔だ。普段から戦闘訓練を行っており、ルーン操作が可能なクレアならばまだしも、エメラルダが近くに居てはまともな動きが出来ない。


「クレアだって私と大差ありません」

「クレアは居てくれないと、ケリスのルーンを緩和出来ないので、仕方なくです」

「魔法は私の方が得意です!」

「貴女が二発撃つ間に、僕はその十倍撃てます。戦力になりません。魔術系ばかりですし……」

「うー……お役に立ちたいのに……」

「お気持ちだけ受け取っておきます。では、ガーリンド」


「はい。エメラルダお嬢様、どうぞご理解ください。ヨーコ様は、我々通常の人類の範疇に無い方なのです。我が主アインウェイクですら敵うかどうかという、お方なのです」


「そ、そんなにですか?」

「そんなになのです。個人名は伏せますが、竜精の特命でいらしているのですから」

「ド、ドラゴンメイド……?」

「が、ガーリンド。それを知らせるのは、ちょっとマズいです」


「決意を固めようとする娘の意志の強さを舐めてはいけません、ヨーコ様。さあエメラルダ様。どうぞご理解ください。お退きを。貴女を護る事に意識をとられたヨーコ様が、万が一にでも亡くなってしまったら、どうしますか。きっと貴女は一生咎と背負うでしょう」


「エメラルダ。わたしからもお願いするよ。君を巻き込みたくない。もう、巻き込んだ後かもしれないけれど、ここで君が傷ついたり死んだりするのは、流れじゃない」


「……――だって」

「エメラルダ?」


「……これが終わったら、きっと私が声を掛ける間もなく、貴女は消えてしまうでしょう。貴女は本来居ないヒト。泡沫の夢……解りました。退きましょう。今は」


 そういって、エメラルダが頭を下げ、ガーリンドに連れて行かれる。今は、というのがすごく不安だが、戦闘にさえ参加しないならば良い。彼女達の背が見えなくなったところで、ヨージとクレアが動き出す。


 学院には既に工作済だ。混乱している間に全てやってしまったので、リットの人感結界が張られていようと関係無かった。人感結界に引っかかったニンゲンを特定する、というのはとても困難である。だが、今は学院の出入りが無い。出入りが無い状態で引っかかれば、特定は簡単である。


 人感結界の厄介なところは、触れると反応する事だ。これを抜けるのは容易ではないし、解除しようとして触れても反応する。単純ながらに面倒なものなのである。


「ヨーコ、結界は見えるのかい」


「見えます。チッ、何枚か重ね掛けしてありますね。潜入人数を誤魔化そうと思ったのですが、これではどうしても、二人分引っかかるか……」


 例えるならば、温度変化で歪む空気、のようなものだろうか。それが二層、三層と重なっており、確実に人感結果に反応を出す作りになっている。リットは知恵はなさそうだったが、経験は豊富なのだろう。拠点防衛型なのだ、彼女は。


「仕方ない。堂々と通りましょう」


 クレアと手を繋ぎ、学院の裏手から緩い傾斜のある雑木林を登る。人感結界は確実に反応した。この時点で、リットはこちらに気が付いているだろう。だが、あの女は外には出ない。出てしまえばおしまいだからだ。


 どうあっても、ヨージの攻撃というのは、命あるものにとって苛烈、激烈である。神ですら一時停止を余儀なくされる攻撃を受けて、立っていられる妖魔は存在しない。故に補助なく何度も再生出来るモノはいない。予測が正しければ、学院にある『何か』に依存して力を発揮している。


 ついぞその『何か』は分からなかったが……分からなかったが故に、外へ出ざるを得なくなる対策を講じた。学院外へ出すのは厳しいだろうが、少なくとも、狭い室内……リット等が構えているであろう、礼拝堂の地下からは追い出せる策だ。室内からさえ出してしまえば、相手が擦り切れるまですり潰すのみである。時間はかかるが、ヨージにはそれが可能だ。


「ヨーコ。奴が人質を取らない、というのは本当かい?」


「ええ。どうやら学院の維持に力を注いでいるようですから。もし、ここの子女が何人も居なくなったら、カバーしきれないでしょう。あの妖魔の仕事は維持、保守だ」


「だから、君を殺す事だけに躍起になる」


「僕が死んだら死んだで、僕の後ろにいるヒトが本気になるでしょうから、あの妖魔に後が無いのは間違いないのですが……それでも、妖魔自身がルーン刻印した生徒を工作に使えば、少なくとも自身のみは逃れる事が出来る。自身の命の為にも、手駒は保持したまま、僕を殺さなきゃならない、という事です」


「……もし、自暴自棄の場合は?」

「ないと思いたいですがねえ……」


 学院の真裏にまで辿り着く。礼拝堂の裏でもある。ここに至るまでに、ヒトの気配は無し。妨害も罠も無し。完全に籠城を決め込んだと見える。


「それで、どうするんだい」

「爆破します」

「……は?」


「僕の魔力に繋いだ無属性魔導項玉を礼拝堂に幾つも仕掛けました。あの地下、裏口は?」

「ない。入口は出口兼用だよ」


「では爆破して解体。生き埋めです。妖魔ですから、出ては来るでしょう。出て来たら僕が全力で叩きますから、貴女はケリスを警戒してください」


「それ、ケリスも死ぬんじゃあ……」

「妖魔が護るでしょう。死なれたら困るでしょうから」

「め、めちゃくちゃするね?」

「クレア」

「な、何かな?」


「ここは学院ですが、既に妖魔に冒された戦場です。本来ならば、敵の戦力であるケリスは真っ先に、殺す相手だ」

「……うん」


「僕は……昔に比べたら、本当に、甘くなっているのだと、思います。それに、僕が拝む神は、例え敵であろうと、簡単には殺したくないそうです。だから、彼が、どうしようもない害悪であると、判断するその時までは、生かしましょう」


「分かった。有難う、ヨーコ」

「いいえ――では早速仕掛け……――え?」

「あれは――生徒達だ」


 礼拝堂の陰から表を窺う。起床時間前だというのに、礼拝堂に生徒達が集まり始めたのである。その動きは、普通の生徒だ。ルーンで操作された者達ではない。


「ヨーコ。これは、話が違うね」

「……ルーン操作した生徒ではありませんね。地下に集められるような者達ではない」

「うん。普通の子女達だ。彼女達を、盾にする気かな」


「自暴自棄でしょうか。まさか人質にとって『自害しなければ全員殺す』なんて、言わないでしょう。僕は死にませんし、困るのは妖魔だ」


 今、少し強がりが出た。いくら会話も交わした事がない他人だ、といっても、目の前で少女達を殺されるのは、堪ったものではない。それは流石に困る。


 しかしそんな事をして一番困るのは妖魔だ。これほど大量の子女達を恐怖のどん底に突き落とした結果に訪れるものは、大帝国の最大級の怒りであろう。例えここで逃げ果せたとしても、地の果てまで追われる。戦争ではない故に、竜精が動ける。竜精が総動員で襲い掛かって来て、勝てる生命体は存在しない。


 そこまで、考えが及んでいないのか。

 別の、目的があるのか。


 こうなって来ると、一度退散したのは裏目に出た。


「僕から離れないでください。どこか、中を覗ける場所は」

「建物の脇に普段は閉じている通気用の穴がある」


 言われ、通気口に近づく。中を覗くと、生徒達は皆長椅子に座り、正面のレリーフに祈りを捧げていた。祈りの言葉が小さくだが、無数に響いている。皆が祈りの言葉を唱え終えると、やがて……まるで演出したようにして、生徒達の前に妖魔が姿を現した。


『リット様……?』

『リット様だわ。どうされたのかしら』

『仲が宜しかったお二人が居なくなって、お辛いでしょうに……』


「どうも。リットです。この度は……不幸な事件が起きてしまいました。お忙しい皆さんに集まって頂いたのは、その事についてです。古くからの友であるクレア様とエメラルダ様、そして新しく加わったヨーコさん……その三人が……何者かに攫われてしまったのです。捜索は今もなお、続いていますが、彼女達の身に何かあったらと考えると、リットは心が張り裂けてしまいそうです……」


 などと言い腐る。ふざけた演説だ。だが事情を知らない生徒達からすれば、身近に起きた確固たる恐怖であり、リットはその悲劇のヒロインなのである。彼女を案じる声や慰める声が聴こえる。


「み、皆さんも、怖いでしょう。怖ろしく感じている事と思います……我々力無き小娘が出来る事と言えば、大樹の輩として、祈りを捧げる事ぐらい……そう、思ったのですが、違う。私達にも、出来る事が有る。私に、リットに力を……貸して欲しい……ッ! 今なら、まだ間に合うかもしれない……!」


 礼拝堂がどよめく。リットは前へと足を進め、長椅子が並ぶその中心にまでやって来る。


「リットは、クレア様とエメラルダ様、ヨーコさんと、会話パスを繋いだことが有ります。しかし、距離が離れてしまっているのか、リット一人の魔力では届きません。皆さんの力を、いいえ、皆さんの想いを、愛する彼女達に届けられたのならば――もしかすれば、会話が叶うかもしれない! 今どこにいるのか、それさえ分かれば、バイドリアーナイの騎士ナイトが、駆けつける事が出来ます!」


 小首を傾げる。妖魔の狙いどころが分からない。


 まさか、生徒達の生気を吸い上げ、魔力に転換するのでは――と考えたが、しかし、そうはならなかった。生徒達は一人ずつリットの前にやって来ては、祈りを捧げる。そこに魔力のやり取りは見えない。


「ヨーコ、あれは……?」


「分かりません。魔力を吸い上げている訳でも、命を削っている訳でも、ない。ひとりひとり……祈りを捧げさせているだけだ。ただ……」


「ただ?」

「あの本は、何でしょう。見覚えはありますか?」


 妖魔が片手に抱えている本がある。大きいものではなく、装丁はなかなか凝っているが、かといって魔導書のような妖気は感じない。魔力は――感じる、ような気がする。


「ないね。しかし、感じるような気がする、というのは?」


「奴の扱っているものが神の扱う魔力であるなら、僕は"通常では"感じられません。しかし奴は妖魔ですからね。神が扱う魔力よりも、もう少し純度の低い魔力を扱っている可能性がある。故に、ハンパに感じるのか……しかし、本当に、何の本でしょう。まさか、何も関係ない本を、持ち込まないでしょう」


「あ、あれは、エオが大事にしていた本です……ッ」

「なんと。何故妖魔がそんなものを……って、エメラルダ……ッ」


 思わず大きな声を出しそうになり、口を塞ぐ。物陰に隠れて、居るはずの無い人物を諫める。


「何をしているんですか……ッ」

「やっぱり私も戦います」

「要りません。邪魔です」

「まあ辛辣。でもほら、私は人感結界を通り抜けたのに、リットはまるで反応していない」

「……そういえば。え、どういう原理であの結界の反応から逃れたのですか」

「私の特技は魔力の同調。相手に魔力の色を合わせられますし、一時的ならコピーも可能です」

「うえ、特殊技能持ちだったのですか……?」


 魔法、魔術、魔力、一口で言っても、多種多様な特性がある。基本的には吸収、術式を与えて排出する、というのが魔法の流れだが、そういった形式ではなく、固有の表現性を持った人物も存在する。


 ただ超能力とはまた別だ。超能力というのは魔力に頼らない。

 エメラルダが扱うものは、個人が保有する魔力操作力の一つである。


「秀でる部分は多くありませんが、これでも皇帝家に連なる家の娘なのです」

「しかし危険である事に変わりはありません。今からでも」

「ついぞ、リットが依存する魔力供給源は見つからなかったのでしょう?」

「まあ、はい」


「私が探します。先ほどリットの魔力の固有色素は解析してしまったので、これを基準にその色が一番濃い場所を探せば、おのずとその物体がなんであるか、特定出来ますでしょう」


「それは、そうですが」


「……お願いです。手伝わせて。友人だと思っていたヒトが、私達を利用していただけのバケモノであっただなんて、許せません。それにあの本。アレは、エオが友とした、大事な本なのです。取り返さなければいけません。そしてやっぱり……貴女の役に立ちたい」


 これを聞いて、クレアは諦めたように首を振る。状況が刻々と変化するであろう今、帰れと放り出す訳にもいかない。ヨージは仕方なく頷く。


「二人に会話パスを預けます。クレアは基本的に口は動かさず、僕に直接語り掛けてください」

「分かった」


「エメラルダは、妖魔が依存しているであろう魔力供給源を見つけ次第、連絡してください。見つけたら、出来る限り学院を離れるか、隠れてください。礼拝堂には近寄らないように」


「わかりました!」


 エメラルダが頷き、礼拝堂から離れて行く。学舎や寄宿舎の裏手から探るのだろう。一応その辺りは弁えているらしい。


 さて、問題はこちらだ。エメラルダが魔力供給源を探っている間を、なんとか埋め合わせたいのだが、妖魔も既にヨージとクレアが侵入している事を知っている訳であるから、黙って待っている訳がない。


 このまま生徒達と礼拝堂で籠城でもするつもりか……そう思ったのだが、妖魔はなんと、生徒達を寄宿舎へ戻し始めたのである。


「本当に分からない。奴は何を考えているのでしょう」

「随分余裕そうだね……」


 時間稼ぎか……援軍が無い限り、籠城というのは無意味である。現状後が無い妖魔からしても、それは同じだ。


「ヨーコさーん! どこかで見ているでしょう? もうお二人が侵入している事ぐらい知っていますよ! 生徒を人質にとったりはしませんから、さあ、出て来て、お話合いをしましょう!」


 ここまで来てお話合いで済ませる訳もない。生徒達を引かせたのだ、作戦通り建物を爆破する事も出来るが……相手の動向は気になる。どこまで考え、計算しているのだろうか。これで相手の行動が、少しでも理解できるものならば、ヨージは躊躇い無くやっただろうが、どうにも臭い。


「ああ、来た。本当に出てきましたねえ。って、ぅんっげー殺気……怖……ッ」


「こんな茶番を演じている間にも、苦しんでいるヒトが居るのです。貴女に死んで貰う事は確定しています。が、話があるというのならば、聴きましょう」


 後ろからついて来たクレアに対して魔法防御壁を張る。頑丈さは折り紙付きだ。例え妖魔が全力でも、クレアが動かない限りは破れない。


「ま、流石にリットも、あれだけの事をされて、正面から何とかなる相手だとは思ってないです。だから今は、ほぼ確実に貴女に分がある。お話合いの対価として、リットの命を差し出している状態と言えます」


「ある程度ネタは割れています。貴女を殺し切ろうと思ったら、相当に時間が掛かる事も。命を差し出している? 面白い冗談です。保険はあるでしょうに」


「あー。本当にまともなニンゲンではないんですねー。ま、良いです。お話というのは他でもない、取引交渉です。一端ここから手を引いてください」


「僕のメリットは何ですか」


「貴女の目的によります。そもそも、リットを殺害する為に来たんですか?」


「いいえ。ルーンの解呪です。必要とあらば貴女の殺害は最優先ですが、契約書を燃やせば済む、というのならばそれで終わりです」


「なるほど。それで、誰のルーンを解呪するんですか? 貴女は勿論ですけど、他の、誰です?」

「急に賢くなりましたね、妖魔」

「ははー。もう後がないのはご存じでしょー? 頭も働かせます」

「クレアとケリスが結んでいる分で良い」


「いいえ、違いますねえ。少なすぎます。本来なら全部です。ルーンは全部解呪すべきです。リットが結んだ分も含めて。特定の人物のルーンを解除しに来たのでしょう。誤魔化そうとしましたね? 無駄です。クレア様とのお話は、途中から聞いていましたし」


「……」


「エオ・シャティオン……まさか生きているなんて。ケリス学院長、不手際です」

「申し訳ない」


 神官の控室から、ケリスが顔を出す。会話をしながら、じょじょに奴等の態勢が整っているようにも見える。あまり時間はかけたくない。


「で、結果派遣されたのが、貴女みたいな化物、というワケですかー。隠匿されたルーン文字を発見する事自体は神にも出来ますけど、神はそれが何か分からない。それがルーンであり、呪いであると理解するには、相応の人物――竜精が関わらないと、無理ですね」


「り、リット様。即ちこの少女は――」


「はい。竜精の息が掛かっていますねえ。ケリス学院長。エオを殺したのは、失敗でした。殺しきれなかったのも、失敗です。全部全部、大失敗」


「下らない話で時間を稼がないでくれますか、妖魔」


「あの子は変な子でしたねえ。無意識でしょうけど、かなりリットを警戒していましたし。皇帝の娘なんて身分でこんなところに押し込まれて、相当苦しんでいたみたいですよ。可愛い顔に良い体つき、だっていうのに周りと馴染めないから、ふふ、酷く妬まれ虐められて」


「……」


「ベッドにネズミの死体を放り込まれるわ、トイレに入れば汚水を引っかけられるわ、一人でいれば囲まれて詰られるわ、スープに雑巾の搾り汁を突っ込まれるわ、服を隠されるわ、大事な本も捨てられるわ、まあまあ、散々散々」


「妖魔」

「はい?」

「死期を早めたいならそう言ってください」


「――……それで、ルーンの解呪は、一先ず貴女と、エオで良いんですね?」


 一体どこまで本気なのか。妖魔は丸い目をジッとこちらへ向けて、返答を待っている。確かに、妖魔の言う通り、一先ずヨージとエオの呪縛を取り払えるならば、それに越した事はない。目的の通りである。が、そんなに都合の良い話を、敵が用意しているワケがない。


 何だ。何を隠している……?


「何を考えているのですか」


「リットだって死ぬのは嫌なんですよ。特定人物のルーンを解呪するだけで助かるならば、そうします」


 純粋に、生き残る事を選択した、のか。例えここから逃れたとしても、竜精の追手がかかれば終わりだ。そしてケリスとクレアが契約した分の契約書もすべて確保される事になる。彼女にとって失うものが多いが……それでもやはり、命は大事だろう。可能性があるならば、例え一時でも、だ。


 神と違い、妖魔は依代が無い。消されれば終わりだ。


「分かりました。貴女は見逃しましょう。契約書を」

「はい。ケリス学院長」

「はっ」

「僕が見えるように掲げたあと、燃やしてください」

「そうですか。学院長、そのようにしてあげてください」


 しかしどうにもひっかかる。最初から交渉するならば、そうした場を設ければ良いではないか。


 何故、何故。礼拝堂に生徒達を集めるような真似をした?

 生徒達に、一体何を拝ませた?

 どうして――リットは未だに、エオの大切にしていた本を、大事そうに抱えている?


「ぬっ。火、火はありませんな。何せ礼拝堂故」

「あ、そうですねえ。無いですよねえ、火は」


 怪しい、怪しいとは思っていたが、とうとう三文芝居まで始めた。余程時間が欲しいらしい。


「妖魔」

「はあ。どうしました、ヨーコさん」

「よくよく考えれば、不審な点が多すぎますね。条件を一つ、加えても構いませんか」

「はあ。まあ余程の事でない限りは、命が懸かっている事ですし、聞きましょ」

「――その本。返して貰えませんかね」

「ああ、コレですか。ただの本ですよ」

「返して、と言っているのです」


「これはですね、白馬の騎士の物語、という本です。悪神に囚われたお姫様を、白馬に乗った騎士ナイトが助けに来てくれる、というその過程を、馬鹿みたいに薄めて長く長く書き連ねた話です。稚拙で、長ったらしくて、結果も見ていて、意外性の欠片もない、悪い小説の見本のような、そんな本なんですよう」


「それで?」

「あはは。あー……はい。整った。返答は、否です。ケリス学院長。"最大出力"」

「――ッッ!! クレア!!」

「あ、ああッ」


「"抑止最大""行動停止"」

「"抑止緩和""行動再開"」


 ケリスが契約書を投げ捨て、ルーンロッドを構える。ほんの一瞬の抵抗を感じたが、クレアの緩和によってヨージの制限が薄れる。


 どうする。


 本来ならば魔法でケリスの頭を吹き飛ばすのが先だ。殺すならば一法秒も掛からない。それで解決する。だがクレアの手前もある。では妖魔だが、妖魔は妖魔で殺すのに時間が掛かる。首を一発撥ねた程度では意味がない。無詠唱魔法も抵抗される。


 では、精度が高く、微細が動きが可能な刀で、妖魔の腕を切り落とし、その『怪しい本』を手放させるのが、先決か。


 決断後、そのまま渾身の居合を放とうと、柄に手を掛けたのだが――しかし、その手は止まってしまった。


 あろうことか、妖魔の姿が――エオのものになっていたからだ。


「え、あ――ぐッ」


「はい間抜けェ! 時間ギリギリだったんですけど、間に合いましたねぇ!! 『この距離ならば逃げようが一切ないッッ!!』」


「なッ」


「さあァァァッッ!! 眼を覚ませ!! 『白馬の騎士の(ホワイトナイト・)物語(ストーリー)!!』」


 妖魔が、その本を前に突き出し、掌で強かに打ち付ける。すると世界が暗転した。自分の見える範囲の全てが暗黒に支配され、一切の視界が効かなくなる。周囲を警戒して見るが、人の気配すら感じられない。


 ヨージ程の力量をもってして何も感じられないのは、異常と言えた。


「――!! ッッ!!」


 言葉を話す事も出来ない。動きが制限されて行く。


 "観劇中の私語は厳禁"


 という字幕が『脳内』に流れて行く。


 "演者は舞台袖に集合"


 意味はあっても、意味不明な文字列に、混乱が襲う。


「いやはや。生き残る為の嗅覚? とでも言うんでしょうかね? 貴女の選択はどれもこれも的確で、恐ろしい精度です。これの発動はですね、リットが貴女の姿を認識してから掛かる時間、というのが大事だったのです。時間が経てば経つ程、貴女をリットの世界に引き込める。だっていうのに、悩めば良いのに、ガンガンスパスパ、物事を決断してしまうので、危うくケリス学院長にもう一芝居打って貰うところでしたよ……ま、間に合ったから良いのですが」


「……ッ」


「ああ、これですか? これは、愛と恋に夢を馳せた、マヌケな女の残した本です。どうしてこんな力がこの本に宿ってしまったのか、リットは理解できませんけど、使用は可能です。さあ王子様。哀れにも悪神に捕えられ、凌辱の限りを尽くされるお姫様を、直ぐに救ってくださいましぃ」


「――ッ! ……ッッ!!」


「はいはい、これからお仕事なのに、舞台袖で喋らないでください。さ、開演開演」


 光が灯る。幕が上がる。


 そこには――先ほど礼拝堂を出て行ったはずの、生徒達が、椅子に腰かけ、拍手で演者を迎えていた。


「ちゃあんと観客も居ますよ。時間になったら戻るように言っておいたので」


(何がどうなってる……ッ! くそ……ッッ)


「ここはとある王国。世にも美しいとされた、ひとりのお姫様と、騎士ナイトの物語」


 ヨージは、その眼が眩むような光に、ただ飲み込まれて行った。




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