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掌からこぼれる  作者: 瀬海
恋愛の掌
9/15

The Sonnets no.18


「Shall I compare thee to a summer's day? Thou art more lovely and――」


 五限目の教室に、新任教師の低く朗々とした声で読み上げられるソネットが響く。

 周りを見渡すと、その響きに身を委ねて船をこいでいる生徒や、机に突っ伏して完全に就寝中の生徒の姿が目に入った。

 起きている方が少数派という有様だが、まぁ仕方ないだろう。とにかく眠い食後のこの時間帯、夏の暑さに体力を奪われている上に朗読を聞かされるのだから、脱落者が続出するのは必然だ。教える彼もすでに諦めているようで、寝ている生徒を起こそうともしていない。

 俺はと言えば、机に広げられたテキストに目を落としつつ、その声に耳を傾けている。

 これが他の授業ならば寝ているかもしれないが、個人的にこの詩に思うところがあって、今はあまり眠くないのだ。実際には詩ではなく、詩を通して思い浮かべている特定の人物のせい、だが。

 ちらっと横顔に目を向ける。

 佳美。

 お前は、この詩から誰を思い浮かべているのだろうか。



 放課後、部活の用具を取りに行くため、俺は校庭の片隅にある部室棟へと向かった。

 俺の所属するハンドボール部の部室はここの二階にある。鉄板を段々に組んだだけの粗末な階段を鳴らしながら上がってゆくと、ところどころペンキが剥げて錆色になった手摺りにもたれ掛かるように体操座りをして、佳美が煙草を吸っているのが目に入った。

「……不良だな。相変わらずこんなところで吸ってるのか」

 そう声をかけると、佳美はこっちを向いて悪戯っぽく笑った。

「いいじゃん。ここ、どうせ誰も来ないよ、裕太」

「俺が来ただろ」

「きみくらいしか来ないんだよ」

 佳美の言葉は正しい。

 確かにここには俺くらいしか来ない。俺以外の部員は荷物を体育館に置いているし(本来は駄目なのだが)、二階に部室があてがわれている他の部活も、物置としてしかここを利用していない。

「それに階段の音が響くから、誰かが来ても気づきやすいんだ。吸うときには重宝してる」

 佳美は柔らかい茶色の髪をかき上げた。いつもの仕草。人形みたいに整った顔立ちがあらわになるその一瞬が、俺の目を惹きつける。

「裕太は? 前から思ってたけど、どうしてこんなところに荷物置くのさ? 他の部員みたいにすればいいのに」

「……俺は規則を重んじるんだよ」

「嘘つけ。この前部室に吸い殻が落ちてたよ。……先生に言っちゃおっかなー?」

 自分のことはさておいて何を言ってるんだこいつは。それにDNA鑑定でもしなければ、俺だという証拠はあるまい。

 ま、お互いばれないように気をつけようか、と言って佳美は立ち上がる。

「じゃ、そろそろ部活の時間だから、行くよ。じゃあね不良」

「どっちが」

 佳美は俺の脇をすり抜けると、階段を鳴らしながら降りてゆく。

 煙草の残り香に混じって、甘い香りが俺の鼻を掠めていった。



「But thy eternal summer shall not fade, Nor lose possession――」

 相変わらず気怠い夏の空気に、ソネットが朗々と通り抜けてゆく。

 もはやほとんどの生徒が脱落して死屍累々という状況にも関わらず、彼はいつもの調子で朗読を続ける。教室の中でまともに顔を上げているのは俺と佳美くらいな有様だ。不良コンビだけが起きているのも変な話だが。

 佳美の方を見ていると、不意に目が合う。同じことを思っていたようで、こちらに苦笑いを向けてきた。俺も苦笑いを返す。

 低く響くシェイクスピアのソネット十八番。この季節にはふさわしい。



「暑ィ……」

 その日の部活を終えて、俺はいつものように荷物を置くため部室棟に立ち寄った。

 古くさい建物ではあるが、夕暮れ時になると朱に映え、むしろ趣が出てくるから不思議だ。ある種、刹那的な美しさすら感じさせる情景だった。

 と、部室の扉が開いているのを変に思い近づいてゆくと、佳美が中でくつろいでいた。

「おー、少年。部活は終わったのかい」

 佳美はにひひ、と笑う。よほどくつろいでいたのか服の胸元がはだけていて、俺は慌てて目をそらした。「……何でお前がいるんだよ」

「いや、ちょっと気紛れ、かな? べ、別に裕太のこと待ってたわけじゃないんだからね! ……とか言ってみたり、あはは」

「さすがに似合わねぇって。……女子バレー部だったよな、お前。自分とこの部室行けばいいだろ?」

「裕太も知ってるくせに」

 佳美は、何も影を感じさせない、いつも通りの笑顔を浮かべた。

「あそこに居場所なんてないよ。いくらなんでも、ずけずけと部室に入り込むわけにはいかないでしょ。……ほら、そんなところに突っ立ってないで、ここに座りなよ」

「こっちの部室には入ってるくせに」

 俺は苦笑しながら、佳美の隣に腰を下ろす。開け放たれた扉からは、夕焼けの淡い光が差し込んできていた。

 少しの間、静寂が訪れる。

 時折入ってくる温い風が、汗のにおいを俺の方に運んでくる。目をやると、佳美の首筋にうっすらと汗が滲んでいる。それが艶めかしかった。

 今、ここには俺たちしかいない。校庭にも人の姿は見えない。

 完全な二人きり。

 心臓が早鐘を打ち始める。

 はっとする。これは――チャンスだ。今まで秘めてきた思いを吐露する、千載一遇の機会。

 しかし、俺は何を言えばいい? 佳美とは友人のような距離でこそあれ、そういう関係では決してない。向こうは俺の気持ちになど気づいてすらいないだろう。俺が佳美に会うためだけにここへ荷物を置いていることも、何も、知らない。

 頭の中が混乱している。踏ん切りがつかない。

 だが、ふと、

「あ、しまった。煙草切らしてた。ねぇ裕太――」

「――Shall I,」

「へ?」

 煙草を探していた佳美がそう言いかけた時、俺の口からするりと言葉が抜け落ちた。


「Shall I compare thee to a summer's day? (きみを夏の一日にたとえてみようか?)」


 それを聴いた佳美は、一瞬きょとんとする。そして俺が何を口にしたのか気づくと、その表情は驚きに変わった。

 ほとんど暗記してしまっているそのソネットを、俺は拙い英語で諳んじ続ける。


「――But thy eternal summer shall not fade, Nor lose possession of that fair thou ow'st(でも、きみという永遠の夏は決して色あせず、きみの美しさも色あせることはない)――」


 黙ったまま、佳美は俺の紡ぐソネットをただ聴いていた。それは彼のように朗々とした流暢な響きではなかったと思うが、それでも最後まで妨げることなく、佳美は俺の声を聴いていた。


「So long as men can breathe or eyes can see,――(人が息をし、目が見えている限り)」


 シェイクスピアのソネット第十八番。十四行からなる恋愛詩。


「――So long lives this, and this gives life to thee(この詩は生き続け、きみもこの中で生き続けるのだ).」


 落ち着きを取り戻した俺の口は、その最後の二行をゆっくりと締めくくった。

 再び訪れる静寂とともに、俺たちの視線が交差する。

「俺は、」

 目を見詰めながら、俺は言う。「俺は――佳美のことが好きだ。ずっと、好きだった」

「裕太」

「分かってる。お前にそんな気持ちがないってことは。でも、伝えたかった。伝えなかったら、きっと後悔するだろうから。だから、」

 そこで初めて、俺の言葉が遮られた。

 二人の距離がゼロになる。

 佳美が重ね合わせてきた唇が、三度目の静寂を運んで来た。

 世界が止まったような気さえした。

「裕太――言わなくていい」

 永遠にも思える時間の後、佳美はようやく顔を離す。

「……好きだったのは、こっちも同じだよ」

 俺の目の前で、人形のようなその顔が、柔らかい笑顔を作る。

 そして俺たちは当たり前のように、二回目の口づけを交わした。



「この、シェイクスピアの『ソネット集』は恋愛詩を中心とするものだけど、彼が女性への愛をうたったものかと訊かれると、実は違って――」

 相変わらずのよく通る声で、彼は授業を進めてゆく。

 ソネットの朗読はとうに終わって今は内容解説に入っているようだが、例によって起きている生徒はごく少数だ。一度寝る癖がついてしまった授業は、その後特別眠くもない内容に変わったとしても起きていることが難しいのだろう。

 かくいう俺はまじめに授業に参加し、彼の声にじっと耳を傾けていた。聴いているとそのうち夢の中に引きずり込まれそうな声。心地よい声。

 その日の授業が終わり、廊下を歩いていると、佳美とばったり会った。

「裕太。今から部活?」

「あぁ……そっちも?」

 佳美は頷く。

「まぁ、必要はないんだけど。たまには顔出しておかないとね」

 そう悪戯っぽく笑って、佳美は茶色の髪をかき上げる。確かに、女子バレー部には専属のコーチがいるので、佳美の出る幕はほとんどないだろう。

 じゃあ、と言ってすれ違う刹那、佳美は俺の耳元で囁いた。

「……帰りに、部室棟で」

 それだけを言うと、佳美はそのまま歩き去って行った。その言葉は俺の首を這い上ってゆき、あの日の記憶を思い出させる。

 ソネット十八番。

 その恋愛詩は男女間の愛を描くものとして読まれることが多いが、本来は男性詩人が美しい貴公子をうたったものだ――今日の授業で、彼がそう言っていたことを思い出す。

 どちらにせよ、やはり俺が読み上げるよりも、佳美が読み上げた方が様になるだろう。授業で聴く、あの朗々とした、低い、よく通る声で。

 後ろ姿を振り返り、俺は呟いた。

「分かったよ、先生」

 

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