小説以前
大恋愛をしたことがあるわけでも、鮮やかな推理を披露したことがあるわけでもない。
社会に見捨てられたような気がして、若気の至りで非行に走ったこともない。仲間と共に汗を流して、全力で甲子園を目指したこともない。怪奇現象に巻き込まれたことも、命に関わる病気に罹ったこともない。
ないない尽くしの、俺の人生と言う名の小説には、語るべき思いも、秘められた過去も不在。あるのは、無色透明な、文章に起こされることもない記憶の塊だけだ。
「……中身がないんだよな、俺は」
冬の冷たい空気に呟きを吐き出すと、隣を歩いている咲織が、子供を嗜めるような声音を俺の方に向けた。
「折角のクリスマスなんだから、そんなこと言わないの。沈むの禁止」
はい、スイマセンでした。頭を下げる。咲織は「許してあげます」と小学校の先生のように言って、軽く笑った。
世間はクリスマスで、恋人たちが幸せを享受する日で、俺たちも幸せを享受して然るべき日のはずだ。だから俺は咲織と二人で冬の街を歩き、白い息を吐いている。遠くにジングルベルを聞いている。ぼやけた赤と緑の色彩を見ている。
「そろそろ飯でも食いに行くか」
一緒に買い物もしたし、クリスマスツリーのライトアップも見た。なるほど、この日は恋人たちに(特に彼氏に)幸せな散財を促すために機能しているんだな、と感心させられた一日だった。
夜の七時。すっかり財布の中身は減り、歩いたせいで腹も減ってきている。
「どこかのファミレス入ろうよ。体、冷え切ってるし、わたし、暖かいところ行きたい」
「了解。そうするか」
内心、フレンチレストランなどといった無体なことを言われなくて、ホッとした。そんな出費ができるほどの経済力は、もはや財布には残っていない。苦学生なのである。もっとも、予約もしていないのに、今から入れるところがあるとも思えないが。
近くにあったファミレスに入る。心地よい温度に調整された空気が、冷えた体をじんわりと暖めていく。
「今日は色々買ってもらっちゃったから、ここくらいはわたしがおごるね」
席につくや否や、咲織は俺の心中を見透かしたかのように言った。本来ならばここで、「大丈夫だって、俺が払うから、気にすんな」と返すものなのだろうが、俺の口から出た言葉は、「……恩に着ます」だった。
男としてはなんとも情けないが、金の問題はシビアである。今日で世界が終わるのならともかく、明日からも世界は続いていくのだ。物語にもならない、気の滅入る、俺の日常は続いていくのである。
目の前に運ばれてきたハンバーグをナイフで切り分ける。おごって貰う側なので、控えめなお値段のものを選んだ。それでもまぁ、美味い。不味いなんて言ったら、それこそ出資人に失礼だし、実際美味い。
ちょっと豪華にいこう、と咲織が提案し、シャンパンを注文する。
運ばれてきた黄金色のシャンパンは、俺が二つのグラスに注ぐと、細かい気泡を立てた。しゅわしゅわと小気味いい音が辺りに散る。
「はい、孝ちゃん。乾杯!」
乾杯、とグラスを打ち付け合い、口元に運ぶ。炭酸とアルコールが、若干心を軽くさせた。
――軽くさせた? と、気付く。心の底が冷たくなる。
クリスマスなのに、彼女と過ごしてるのに、俺は浮かれてはいない。愕然とした。
俺は何一つ中身を持っていない空っぽの存在で、咲織とここに一緒にいることすら、相応しくなくて。おそらく、中身がある風を装って、咲織を騙している。だから、浮かれるどころでもない。
罪悪感。自分の空虚を埋めるために咲織を利用しているだけだということに気付き、自己嫌悪に陥る。
咲織が何か話しているのに無意識に相槌を打ちながら、ハンバーグを口に運んでいく。反復作業。味覚がどこか鈍感になっている。
「……孝ちゃん、まーた沈んでる」
「え?」
不意にそう言われて、俺は咲織の目を見た。怒っているような、心配しているような、そんな瞳。俺は思わず頭を下げる。
「……悪い」
「今度は許しません」
「申し訳ございませんでした、咲織様」
「言い方を変えても駄目」
「……どうしたら許してくれる?」
主人に見捨てられた犬みたいに、咲織の顔を見る。すると、咲織は我が意を得たり、とばかりに、にっと笑った。最初からこれが目的だったのか。
「一緒に行きたい場所があるの」
ファミレスを出ると、吹きすさぶ寒風の中、咲織は城址公園に向かって歩き始めた。なんでクリスマスに城址公園なんだ、普通は海浜公園だろ、と思ったが、口にはしない。許してもらえなかったら困る。咲織への罪悪感を抱いて尚、まだ彼女と一緒にいたいという身勝手は消えていないのだ。俺は苦笑する。
公園の足元に辿り着き、高台目指して上っていくと、徐々に人気がなくなってくる。
「孝ちゃんさ」
先導しているため、背を向けながら咲織は口を開いた。
「自分に中身がないから、くだらない人間だとでも思ってるでしょ?」
彼女のその、核心を突く急な問いに、俺は対応することができなかった。
俺は黙したまま、決して緩くはない傾斜の道を上っていく。二人の足音が夜の底に響く。
「だからわたしに、ううん、他人に対して勝手に引け目を感じて、居心地の悪い思いしてるんでしょ? 自分はくだらない人間ですから、皆さんと一緒にいるのは申し訳ないですー、って」
「……事実だからな」
俺はようやく、一言だけを口にした。事実だから。俺は自分が過ごしてきた物語の中に、語るべきものを何一つ持ってはいない。文字通り、お話にならない。
「そうかもね」
彼女は一瞬こちらを振り返り、それだけを言うと、再び斜面を歩いていく。
夜の城址公園。クリスマスムードは遠ざかり、俺たち二人だけしか動いているものはない。温かな光も、柔らかな音楽も、どこか遠くの出来事だった。
坂を上りきるというところで、急に咲織は走り出す。
「――おい!?」
いきなりの出来事に不意を突かれた俺は、遅れをとりながらも、咲織を追いかけた。傾斜が平坦になったであろう地点で、彼女の姿が隠れて見えなくなる。
「おい、いきなりどうしたん――」
俺も坂を上りきったところで、ようやく咲織の姿を捕まえる。そして、その背後にあるものに、俺は目と言葉を奪われた。
咲織は俺の方を向いて立っている。
「すごいでしょ? 絶景なり」
得意そうに笑うと、咲織は俺を手招きする。木に見立てたコンクリート製の柵の前に二人で並んで、眼下の光景を見下ろした。
光の海。ビルや車やイルミネーションの光が、夜の街を埋め尽くしているのが見えた。街全体が一つの生き物であるかのように、点滅し、呼吸している。余計な思考能力をその生き物に奪われた俺は、ただ「綺麗だ」と零すことしかできなかった。
「――事実かもしれないよ、確かに」
隣で咲織が呟いた。俺が顔を向けると、横顔が目に入る。
「でも、中身がなくたっていいじゃない。だったら、今から作っていけばいいんだよ、そんなもの」
「……今から?」
「そう、今から」
この風景も何もかも、今から自分の中身にしちゃえ、と咲織は俺に笑いかけた。
「世の中には、自分の中身がないことを自覚できないでいるひともいるんだよ。その点、孝ちゃんはそれを分かってるんだから」
「俺でも、作れるかな。自分の物語」
俺が訊ねると、咲織はあっさりと首を横に振った。
「いや、無理でしょ」
「……励ましたいのか落ち込ませたいのかどっちなんだ」
「すぐには無理ってこと。いきなりちゃんとしたのを作れるひとはいないよ。まずはとにかく書き散らしてみないと」
「書き散らす、ねぇ」
俺は視線を空に向ける。
自分の物語を自分で作っていく。がむしゃらに見て、聞いて、感じて、自分の中の色彩を増やしていく。はじめはごちゃごちゃしていたそれらは、時間と共に推敲され、最後には一編の小説に出来上がる。
もしもそうならば、その小説の中にまず居るべきなのは、咲織だ。
「……それ、手伝ってくれるか?」
「もちろん」
咲織は俺の手を握ると、再び光の海を見やる。俺もそれに倣う。いつか、この光景がハイライトになる予感がした。空っぽの中身に入り込んだ、一番最初の記憶として。
大恋愛をしたことがあるわけでも、鮮やかな推理を披露したことがあるわけでもない。
社会に見捨てられたような気がして、若気の至りで非行に走ったこともない。仲間と共に汗を流して、全力で甲子園を目指したこともない。怪奇現象に巻き込まれたことも、命に関わる病気に罹ったこともない。
それでもこれからは、それらみたいな大層なものではないかもしれないが、物語を紡いでいく。甘いものも苦いものも、隣の彼女と一緒に、まとめて自分の中に取り込んでいく。この先、書き綴っていく物語。今から文章に起こす、まだ小説の体も成していない、ただの書き散らし。恋愛小説でも推理小説でも怪奇小説でもない、彼女と一緒に創る、今は不出来な小説以前。