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掌からこぼれる  作者: 瀬海
怪奇の掌
4/15

軽蔑

 授業が始まる段になって、彼女はようやく自分の筆箱がなくなっていることに気付いたようだった。

 彼女は額にうっすらと汗を滲ませて鞄や机の中を探すが、そんなところにないことは、彼女以外のこのクラスにいるほとんどの生徒が知っていた。今、後ろの方の席でニヤニヤと下品な笑みを浮かべている数人の生徒が、休み時間に彼女の筆箱を持ち去りどこかに隠していたのを、教室にいた大半の生徒は目にしていたから。

 それなのに誰一人として、彼女にそのことを伝えようとする者はいなかった。もちろん、それは巻き込まれたくないという保身のためだ。

 彼女に対するいじめは、もう数ヶ月間続いている。

 そして、ぼくもそのいじめを黙認する大多数の生徒と変わりなく、身勝手な同情を抱きながら目を背け続けていた。


 坂下琴絵は、お世辞にも器量がいいとは言えなかった。

 社交性もなく、いつも一人で本を読んだりしているため、見る限り友人もいなかった。当初は話しかける生徒もいたのだが、彼女をターゲットにしたいじめがはじまってからは誰も近寄ろうとすらしない。今となってはもう、名実ともに孤立していると言ってよかった。表向きは。

「ごめんね。また見苦しいところを見せちゃって」

 学校帰り、隣を歩く琴絵はそう言って謝った。不条理な出来事をさえ、自分に非があるから降りかかってくるものだと思っているような悲しげな目をして。

 その目を見て、ぼくの胸はこれ以上となく痛む。

「……謝るのはぼくの方だよ。助けられなくて、ごめん」

 その言葉を受けた琴絵は、ふるふると首を左右に振った。ううん、いいの。祐輔くんまで巻き込まれて欲しくない、そう思ってくれてるだけで充分だから、と。

 彼女のぼくより一回り小さい背の丈。いつも困っているような表情。

 それを見ると、彼女がまるで守ってやるべき小動物のように感じられてきて、いてもたってもいられなくなってくる。でも実際、自分では彼女を助けることができなくて、こうして一緒に帰ることくらいしかできない。


 この奇妙な関係が始まったのは、一ヶ月前のことだ。

 彼女と自分が学校から同じ方向に帰ることは、何度も姿を見たことがあったので知っていた。それに気付く頃にはもういじめが始まっていたので、積極的に関わろうとはしなかったのだが。

 学校から家に着くまでの道の中には、長くて真っ直ぐな坂道がある。道の片側は野生動物が多く生息している鬱蒼とした森に接しており、そのため、道路に飛び出してきた狸などが車に轢かれて死んでいることを何度か見かけることがあった。ぼくはそんな死骸の側を通りがかっても憂鬱な気分になるところで、弔ってやることも悼んでやることもしなかった。

 その道で、ある日の帰り道、偶然彼女の姿を見かけた。

 最初は何をしているのだろうと怪訝に思った。遠目でよく見えなかったのだが、彼女は道路脇の人気のない空き地でしゃがみ込み、何かをじっと見詰めているようだったのだ。

 何をしているのかに興味を持ち、ゆっくりと近づいていってそれを判別できる程度の距離まで差し掛かかったところで、彼女が見ているものが何なのか悟る。

 口から血を流している子犬の死骸。

 すっ、と体温が下がった。

 また、轢かれたのか。

 どうするのだろう、と思った。そんなところで黙って野良犬の死を悲しんだところで、結局自分たちは何もできずに立ち去るしかないのだ。自分はきっと、そして、彼女もそうするのだろう。いや、そうする以外にないのだと。

 でも次の瞬間、彼女は予想を裏切る行動に出た。

 彼女はそっと、倒れ伏す子犬の体に手を触れる。

 え。

 心の中で思わず声を漏らした。

 そのまま彼女は子犬を優しく抱え上げると、空き地の隅の土が軟らかそうなところまで運んでいき、大切な宝物でも扱うみたいにゆっくりと死骸をおろす。そして彼女は子犬の側に再びしゃがみ込むと、素手で土を掘り始めた。そんな一連の行動を見ながら、俺は衝撃を受けていた。彼女の悲しみを湛えた瞳や、その優しい動作に。

 その瞬間からぼくは、彼女に崇拝にも似た感情を抱いていたのだろう。

 気がつけばぼくは、彼女に気付かれるほどの距離まで近づいていた。びくっ、と怯えた目で彼女はこちらを見たが、構わず側にしゃがみ込んで土に手をかける。

「……手伝うよ」


 昼休み、彼女の姿が見えないことには気がついていた。

 いつも琴絵は教室の隅の方に座って一人で弁当を食べているのだが、今日は休みの始まりの方に席を立ってから、ずいぶん長い間帰ってきていない。この分だと弁当に手をつけてさえいないだろう。そして何より気になるのは、いつも琴絵をいじめるグループの姿も教室内に見当たらないことだった。

 何かされているのだろうか。

 そんな懸念が脳裏を過ぎるが、彼女を探しに行ってその姿を見つけたところで、自分にできることなど何もない。

 そんな風に頭だけで彼女を心配していると、げらげらと下品に笑う一段が引き戸を開けて戻ってきて、「傑作だったな」とか「あいつ、どうするんだろうな」などと、彼らの間で何か可笑しなことでも共有しているかのように、口々にそうのたまい始めた。それを耳の端で聞きながら、彼らの言う“あいつ”が誰のことか容易に想像できて、さっきの懸念が確信に変わる。

 そのうちに、再び引き戸の開く音がした。

 入り口付近を見ると、頭からつま先までずぶ濡れになった琴絵が姿を現す。

 教室がしんと静まりかえった。

 彼女は小走りに自分のロッカーへ向かっていくと、その中から体操服の上下を取り出し、逃げるようにして教室を出て行こうとする。出て行く刹那、こちらを不意に見た彼女と目が合う。

『気にしないで。祐輔くんは悪くないから』

 そうとでも言いたげな困った笑顔を一瞬だけ浮かべ、彼女はすぐに走り去っていった。

 まるで、こんなことは自分がぜんぶ受け止めるとでも言うように。


 それから数日、琴絵と帰り道で会うことはなかった。

 その間、琴絵が学校で目立ったいじめを受けている様子はなかったが、ぼくの目に届いていないだけで、実際は何かされていたとしてもおかしくはない。きっと一人で苦痛を請け負い、甘んじている。それを知っているのはぼくだけだった。

 学校の帰り道、長い坂道に差し掛かったところで、手に雨粒の感触を覚える。

 一雨来るかもしれない。

 そう思い、鞄の中から折りたたみ傘を取りだしたところで、目の前に見覚えのある影を見つけた。後ろから「琴絵」と控えめに声を掛けると、彼女は驚いたように振り返り、顔を見て安堵したような笑みを浮かべる。

「……雨、降ってきたね」

「一緒に帰ろうか」

 そう言うと、ぼくは彼女の隣に並ぶ。

 しばらく無言で二人歩いていると、雨脚が徐々に強くなってきて、傘を鳴らし始める。

 いつものように「ごめん」と謝ると、彼女はやはり首を横に振った。結果は分かっていたのに、謝らずにはいられなかった。

「いいの」

 琴絵はそうやってぼくを許す。

 そうやってぼくらは歩く。

「あ」

 と、声を上げたのはぼくだった。

 雨で視界が悪くなっているのでよく見えなかったが、道路脇に何かが倒れているのを見つけたからだ。ぼくは一足早くそれに歩み寄っていくと、その物体が動物の死骸であることを見て取り、暗澹とした気分になる。――また、轢かれたのか。

 ただ、あのときと違ったのは、それがもはや「動物の」死骸としか言えないくらいに顔は潰れ、内蔵は飛び出し、もはやどんな動物だったのか判別できないほど損傷していたことだった。そのあまりにも凄惨な死に様に、言い様のない感情がわき上がる。

 こんな、こんなのってないだろう。

 悪いのはこいつじゃなかっただろう。

「祐輔くん?」

 一足遅れてぼくに追いついた琴絵に見せるように、ぼくは一歩脇に退いた。死骸を見た琴絵は手で口を覆い、その場に立ち止まる。

「せめて、こんなところじゃなくて人目に付かないところに運んであげよう。制服が汚れるだろうから、ぼくが運ぶよ。あの空き地が近かったよね。そこくらいまでは、

 …………? ……琴絵?」

 そこまで口にしたところで、彼女の様子がおかしいことに気がついた。

 顔面は蒼白で、口を押さえたまま、ふらつくように後退りをする。

「琴絵? どうし、」


「――気持ち悪い」


 彼女が死骸を一瞥して漏らしたその一言に、ぼくの思考は一瞬棒立ちになる。

 その顔に浮かんでいたのは、紛れもない嫌悪だった。

 そう、

 そうか。

 しばらく静寂が降り、雨の音だけが辺りに響く。そして、ぼくはゆっくりと感情を整理しながら口を開いた。

「……傘を持っててもらっていい? 両手を使わないと、上手く運べないから」

「あ……うん」

 その言葉で我を取り戻したらしい琴絵に傘を渡すと、ぼくは死骸を抱えるように持って空き地の方向へと歩いて行く。そんなぼくと間隔を開けながら、彼女が後ろから付いてくるのが分かった。

 目的地へたどり着くと、ぼくはそこにしゃがみ込み、そっと死骸を降ろしてやる。

「祐輔くん、大丈夫? 制服が血で汚れて――」

 ぼくは立ち上がると同時に、ゆっくりと振り向く。

 そして、彼女を強かに殴り飛ばした。

 持っていた傘が地面に落ちて跳ねる。どちゃ、という音を立てて彼女は泥の中に仰向けに倒れ込む。ぼくはその上に馬乗りになると、その顔面を殴りつけた。

 痛い。やめて、祐輔くん。痛い。痛い。顔を守ろうと手をかざしながら、必死に懇願するその声を無視して、ぼくは拳を振り下ろし続ける。埋めてやろう、あの死骸のように。そう思った。唇が切れ、腫れ上がり血だらけになった顔で彼女は謝り続けていたが、そんなことはどうでもよかった。

 ゆるしてください。もうしません。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――。

 哀願はぼくの耳に届くことはない。

 雨は地面を叩き続けていた。 

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