駄洒落
悪路を飛ばして先を急ぐ。予定時刻ギリギリだった。
やれやれ、この日をずっと待っていたというのに、抜けたことだ――賢介は自嘲するような笑みをその顔に浮かべてみせる。
「ねぇ、まだ着かないの?」
不安そうな亜有子の声が助手席から飛んできた。彼はハンドルを握りながら、苦笑いをしたままそれに答える。
「もう少しで着くはずだ。……ったく、『ついてない』よな」
「それ、駄洒落?」
「あれ、面白くなかったか?」
全然、むしろ寒かった、と亜有子は答える。溜息交じりに「賢介って昔っからそういうセンスないよね」と言われ、少しくらい笑わせられるだろう思っていた賢介は少しばかりのショックを受けた。
……どうせ俺にはセンスがないですよー、だ。
うすうす自分でも気付いてはいるものの、なぜか口に出すことはやめられない。これが性分というものなのだろうか、と考える。だとしたら、なかなか親父くさい性分だ。
賢介が内心いじけていると、亜有子はふと真剣な面持ちに変わり、口を開く。
「……これで、終わりなんだね」
横顔を盗み見ると、どこを見ているともしれない亜有子の瞳が目に入る。
「そうだな」
決して少なくない興奮を含んだ亜有子のその声音に、賢介は感慨深いものを覚えながら相槌を打つ。――そう、今日でハナコの「芸」も見納めになるだろう。
あいつを飼い始めたのは亜有子と同性し始めた直後のことだったか、と賢介は思い出す。
彼女は決して物覚えは良くなかったが、躾ければ従順に従ったため、賢介たちは色々な芸を仕込んで面白がっていたものだった。「お手」や「まて」や「とってこい」などのペットが行う基本一般な芸はもちろん覚えさせたのだが、特に他の芸より早く覚えた「ふせ」はハナコの十八番だったので、調子に乗った賢介たちは、ことあるごとにそう言いつけては可愛がっていた。
が、先日急に体調を崩したハナコはもう賢介たちと一緒に暮らせるような状況ではなくなり――そして今、彼女と最後に対面するために車を走らせているのだった。
「もう歳だったからな。会えるのもこれで最後になるだろうし、せめてお別れくらいは言わないとな。……家族だったんだから」
「うん」
亜有子の顔が不意に小さく歪み、彼女は口元を手で覆った。
賢介にはその気持ちが分かったが、そっとたしなめる。
「……向こうに着いたら気をつけろよ」
「分かってる」
亜有子は表情を取り繕う。
あ、と思いつき、賢介はここに来るまでに考えていた冗談を口にした。
「ほら、最後に『ふせ』も見られることだしさ」
賢介にとってはそれは会心のジョークだったのだが、亜有子には理解できなかったようで、顔には「?」マークが浮かぶ。
……せめて伝わって欲しかったな。
賢介が苦笑いをしている内に、目的地はすぐそばまで近づいていた。
「遅ぇぞ」
車を降りて目的地である建物へと少し歩いて行ったところで、賢介にとっては義理の兄であり、もともと友人でもあった呉田昭吾が腕を組んで待っていた。とは言え不機嫌そうな様子ではなく、むしろ上機嫌のように見える。
賢介は頭を下げた。
「悪い、仕事が忙しくてさ」
「普通休みを取るだろうが。俺だってただでさえ経営難の病院を他のに任せてきたんだ……まぁいい、多少遅れたくらいでどう思うやつらはここにはいないしな」
着いてこいよ、と昭吾が促すので、二人は案内されるままそのコンクリート造りの建物へと入っていく。
この対面をずっと待ち望んでいた。
賢介は自分の中に興奮にも似た気持ちがわき上がってくるのを感じる。やっと、やっとだ。この時が来た。そうと思うと、賢介は心中にそぐわないわずかな物足りなさが浮かんでくるのを感じ、左右に頭を振る。――バカか俺は。
最後にハナコの芸が見られる。それに関しては嬉しい、と言うよりも滑稽なものを賢介は感じていたが、それは不謹慎な想像に間違いはなく、さっき亜有子に言うまでは(通じなかったが)ほとんど口に出すことはなかった。しかし、
「昭吾」
「ん?」
「お前もハナコに会うのは久しぶりだよな」
違和感を覚えたのか、一瞬昭吾の反応が遅れる。
「あ、あぁ……そうだな。俺も『せめて最後くらいは』ってことで呼び出されたクチだ。さすがに感慨深いっちゃあ、感慨深いな」
すると、賢介はにやりと笑う。
「よかったな、昭吾。……最後に『ふせ』が見れるぜ」
昭吾は亜有子が示した反応と同様に、初めは顔に「?」マークを浮かべていたが、意味が分かった瞬間あからさまにぎくっとした表情を浮かべ、こわばった口元から戦慄したような切れ切れの笑みを漏らした。
亜有子はまだ意味が分からない様子だったが、理解している昭吾は引きつった笑みを貼り付けたまま言った。
「バカかお前は。……お前がさせてたのは『ふせ』じゃなくて『土下座』って言うんだよ」
そうして三人は目的の場所に辿り着く。
その小さな部屋の中には思っていたよりも近代的な設備が整えられており、そして殺風景だった。こんな場所でさえも科学に支配されているという現実に、賢介は奇妙な思いを抱く。
ハナコは部屋の中央にある大型のオーブンのような設備に入れられていた。
その前にはすでに何人かの親族が集まっていて、賢介たちを待っていた。
「やっと、だね」
亜有子は他には聞こえないように賢介に囁く。
「そうだな、これで証拠もすべて消えてなくなる。……何も支障はでない」
そう、これでようやく安心して眠ることができるようになるのだ。――せめてあなたも、最後くらいは安らかにお眠りください。
「お別れでございます」
従業員のその号令と共に、箱の扉が閉じられた。
めらめらと炎が燃え上がる。独特の甘い匂いが部屋の中に微かに漂ってくる。
賢介は悪鬼のように心の中で高笑いしながら、義母を燃やし尽くすその炎に魅入られたままじっと立ち尽くしていた。感慨深いものが胸を過ぎる――今まで大変だったが、これで遺産は俺たちのものだ。
彼は、声には出さずにそっと呟いた。
――さぁ、さっさと荼毘に「ふせ」。すべて燃やして消し去ってしまえ。