首っ丈
「おはようございます――貴志川さん」
ぼくと莉子の一日は、少し距離を隔てたキスから始まる。
ぼくは自分では起き上がることも充分にできないので、寝床から動き出すには莉子の介助なしではどうにもならない。華奢な体つきの莉子にそんなことを強いるのは申し訳なく思うけど、その分、感謝もしている。
そのあと、莉子はぼくを朝食の席に着かせ、二人分の食事をテーブルに出す。
いつも、ぼくが起きる頃にはもう、莉子は朝食の用意を済ませている。
それも簡素なものではない。下手したら、普通の家庭の夕飯より手間をかけているんじゃないかと感じる位だ。ロクにものを口にすることができないぼくに、そこまでするのはどうかとも思うのだけど、嬉しくないわけじゃない。
今日の献立は、ミネストローネスープに、夏野菜のサンドイッチ、香草が入っていて少し変わった色をしている粗挽きウインナーに、塩漬けのキャベツの付け合せ(ザワークラフトと言うらしい)。白いプリンのような自家製デザートの隣では、ぼくの好きな銘柄のコーヒーが僅かに湯気を立てている。
「今日は少し、手を抜いちゃいました。すみません」
莉子はそう言いながら申し訳なさそうな笑みを浮かべるが、とても手を抜いているようには見えないし、申し訳ないのはむしろぼくの方だ。これだけの朝食を、僕は一切口にすることができない。固形物は受け付けられないのだ。
いつか莉子に、どうせほぼ全ての料理を残してしまうのだから、そんなに作らなくてもいい、という意を示したことがある。でも、そのときだって莉子は、「楽しいですから。貴志川さんのために、料理するの」と言って、儚げな雰囲気の顔を綻ばせていた。
まるで、白く揺れる百合のような微笑み。
その笑顔に、ぼくはいつだって心奪われてしまう。
どんなになっても、ずっと莉子と一緒にいたいと夢見てしまう。彼女の献身を甘受し続けてしまう。
彼女と出会ったのは、一年ほど前のことだ。
当時のぼくは大学三年生で、卒業後の進路を真面目に考えなくてはいけない頃にあった。
これといった目的もなく、惰性で大学に入ったぼくにとって、それはとても苦しく、わずらわしい時期だった。やりたいこともない。興味のある学問もない。そんな自分が社会に出て何かをしているところを想像することができなかった。そんなとき、莉子を見かけたのだ。
今でも忘れることはできそうにない。五階建ての部室棟、その最上階のテラス。
そこで莉子は、今にも飛び降りそうな様子で、風に嬲られていた。
ぼくがテラスを訪れたのは、大した目的があってのことではない。ただ、部室を訊ねた帰り、少し気分転換でもしようかと思い、気紛れに屋上へ上がってみただけだった。長細いプランターがいくつも並び、その中で放置された花たちが枯れている、そんなテラス。大学の構内の中で、廃墟のような異質な存在感を醸し出している、荒れ果てた屋上。
そこに彼女は、立っていた。
儚げな風貌に、色濃い憂いの気配をのぞかせながら。
一瞬だった。彼女の姿を見たとたん、ぼくは寒気のような興奮のような感覚に襲われ、その場に立ち尽くした。あぁ、ぼくはこのときを待っていた。そんな風に思うくらいに、衝撃的。長い髪を嬲られるままにして、今にもその風に掻き消えてしまいそうな存在感で、立っている、彼女。
莉子。
ぼくは地面へと身を投げ出そうとする彼女の手を、思考の消えた頭で、引き止めた。
「今日はお客さんがくるんですよ」
莉子が言ったその言葉で、ぼくは我に返った。
最近、頭がぼーっとすることが多い。莉子と同居を始めた、今から一か月前位からずっとこんな調子が続いている。どうしてだろうか。ぼくの体がこんな風になり、莉子と同居を始めてから、ずっとだ。
でも、ぼくはこんな体でも、幸せだ。
愛しい彼女が傍にいてくれること。毎日毎日ぼくの世話をしてくれること。そしてそのことを笑顔で「楽しい」と彼女が言ってくれること――そのすべてが、ぼくにとってかけがえのない幸せだ。それこそ、これ以上とないほどに。
一度だけ、彼女と一緒にいる自分を疑ってしまったことがあるが、今はもう、そんなことは微塵も思わない。
「好きですよ、貴志川さん」
こんなぼくを好きだと言ってくれる莉子。
こんなぼくを必要だと言ってくれる莉子。
傍から見れば、何を愛に溺れているんだ、、と言われることがあるかもしれない。でも、幸せの形は人それぞれで、千差万別だ。ぼくたちにとっては、これが愛の形であったに過ぎない。これが正しい。これで正しい。ぼくたちにとっては、この生活こそが今のすべてだ。
満足に体を動かすことができなくても、ぼくは莉子を愛することができるし、莉子もぼくを愛してくれる。
それで十分だ。
それ以上、ぼくは何も望まない。
出会ったぼくたちは、お互いがお互いの付属品のようだった。
足りないところを補うように、ではなく、足りない部分をより深めるように。彼女がぼくを必要として、ぼくが彼女を必要とした。それぞれの持つ心の中の暗い部分を共鳴させて、心地よい響きに浸るような、そんな間柄。一対の音叉。今までの人生がまるごと意味のなかったものに思えて、時々怖くなることさえあった。
「ずっと一緒にいましょうね、貴志川さん」
そんな約束すら当たり前のように交わしたぼくたちは、溺れていたのだろう。
あんな出会いだったのだ。それこそ、運命と表現してもおかしくない位に、劇的な。だからぼくたちはお互いの必要性を強く信じていた。あんな形で出会ったのだから、ぼくらの関係には何かしらの意味があるのだ、と。特に莉子はそのことを信じて疑わなかった。
「わたしにはあなたが必要で、あなたにはわたしが必要なんです」
あぁ、分かっているよ、莉子。
そんな風に繋がっていながらも、ぼくはたまに正気に戻ることがあった。確かにぼくに莉子は必要だ。でも、これで正しいのか、ぼくたちは間違っていないのか。そんな疑いが鎌首をもたげてくる瞬間は、日常の中にぽつぽつと、夢から覚めるかのように、幾度も、幾度も。
でも、今はぼくも信じて疑わない。
一対の音叉。共鳴し合う一存在。ぼくたちは互いが存在しなくては、響くことはできない。
さっきから、バタバタと隣の部屋で物音が絶えない。
ぼくは少し意識を失ってしまっていたのだが、どうやら、莉子の言っていた“お客さん”が来ているらしい。……騒々しい客だ。ぼくと莉子の生活に土足で踏み込んで、何を騒がしくしてくれているのか。
時折、物音の中に悲鳴のような声が混ざる。
莉子は間違ってる。こんなことは正しくない。
聞いたことのある声だった。大学で何回か会ったことのある。莉子の友人だ。莉子と口論でもしているらしい。仲裁に入りたいと思うが、生憎、ぼくの体は動かない。
何か物でも投げつけているのだろうか、物音は一層激しくなる。
莉子が怪我でもしないだろうか、そんな風にぼくはやきもきしながら事の成り行きを聞いていたが、突然、ガラスの割れるような音がして、ぎょっとした。食器棚でも割れたのだろうか? ガラスの破片で、莉子は怪我をしていないだろうか? やきもきがはらはらに変わり、息も止まりそうなほどにぼくは緊張する――
と、隣の部屋とぼくのいる部屋を隔てていたドアが、唐突に開かられた。
何かを決心したような、莉子の友人の瞳
が、ぼくの姿を見た途端、徐々に恐怖の色に染まって行く。
声にならない短い悲鳴を漏らし、数歩、後ずさる、信じられないものでも、見ているかのように「貴志川さんには、わたしがいないとだめなの」背後から莉子、の、声、
その声に、彼女の友人が反応する「狂ってる」そう呟いて座り込むと、その後ろに莉子が立つ、右手に、いつも料理で使っている包丁を持って「狂ってる――あなた、狂ってる」絶叫しながら逃げ出そうとしたその頸部に包丁が突き刺さり、声なのか息なのか分からない空気の音が漏れる、刃を引き抜かれた部分から血飛沫を上げてごとりと墜ち、奇妙な痙攣をしながら床を濡らした、
――そして、彼女の様子を見るために屈みこんでいた莉子が、服を朱く染めながら立ち上がる。
「貴志川さん、ごめんなさい、うるさくして。もう、静かになったから」
莉子は、いつものような笑みを浮かべた。ぼくもつられて笑みを返す。
血溜まりの上に足跡を付け、朱に染まった服装のまま、彼女は歩み寄ってくる。そして再びしゃがみこむと、ぼくにキスをした。少し距離を隔てたキス。ガラスの壁越しのキスを。
「わたしにはあなたが必要で、あなたにはわたしが必要なんです」
あぁ、分かっているよ、莉子。
「この生活さえあれば、わたしは他に何もいらないんです」
ぼくもだ。ぼくも君以外には、何もいらない。
「――ずっと一緒にいましょうね、貴志川さん」
そうだ。ぼくたちはこのまま、ずっと一緒だ。
ぼくが入っているホルマリンのガラスの円筒容器に、莉子の手の形の赤い痕が付く。それに気付いた莉子は「ごめんなさい、後で拭きますね」と申し訳なさそうに笑った。笑った。笑った。あぁ、そうだ。この笑みのためならば、ぼくは何だって、首から下の体すべてだって、容赦なく捨てることができる。あの日、ぼくが莉子に疑いを打ち明けた日。莉子がぼくを首だけにし、そして同居が始まったあの日から、ぼくのすべては莉子のものなのだ。もう疑うことなど何もない。ぼくには莉子が必要で、莉子にはぼくが必要、あれ、あぁ……また、意識が曖昧になってくる。眠い。世界がぼやけて、現実味を失ってゆく。どうしてだろうか。もう少し、莉子と一緒に起きていたいのに。現実の中で彼女と一緒に夢を見ていたいのに。あぁ、眠い。意識の輪郭がおぼろげになる――どうしてだろうか、一か月前位から、ずっとこんな調子だ。