7 ヨクコウ教会1
「…タクシー代あるか?」
「…カードなら…。」
「…歩くか。…いや、電車で行こう。走ればちょうど一本ある。」
斎は電話のあと心無しか無口になってしまっていた。…どうやらよほど叱られたらしい。「ラウール坊や」は顔は綺麗だがやり方は汚い…政財界に詳しい年上の知人はみな口を揃えてそう言う。父もまた、そんなコメントに苦笑して、うちけすことをしない。
2人は電車の駅まで走ってゆき、そこから一駅だけ電車にのり、降りてまた走った。
斎はとても足が早く、持久力もある。むしろ陽介のほうがこういう場面では毎度遅れがちだ。しかし斎は今日に限っていつものように「やーい、オタク男~悔しかったら追いこしてみろ~」とかムカつくような悪ふざけはしなかった。…よほどさんざん怒られて、さしもの「斎様」もすっかりしぼんでいるようだ。陽介はかえって複雑な気分だった。『どんぐり』が熱を出したときのような気分というか、『アルテミス』が気絶しているときのような気分というか。
教会のまえにたどりつくと、ようやく斎は口を開いた。
「…へえ、ビトウんちって、こんなに学芸ドームの近くだったんだ。道理で日よけしてないよね小夜。傘しかさしてない。」
「春季は着てくるぞ、帽子付きのパーカー。黄緑や水色のストライプのやつ。」
「パーカー…。なんか弟のほうがはんなりしてるよね。着てるもの軽くて洒落てるしね。小夜はチェックとか水玉とか日本人好みの物が多いでしょう。」
「…否定はせん。」
「…はああ、可哀想な小夜! わたし弟より可愛くない姉の気持ち、すごくよくわかるよ。うちの弟も大変な美少年でさ、総長宮に望まれてお小姓になってねえ。」
「…おまえにくらべりゃ大抵の弟は可愛いだろうさ。さ、行くぞ。…物壊すなよ。」
「…いつか殺す。」
「40ぐらいで殺してくれるとベターだな。」
礼拝堂の前を通り過ぎて母屋の玄関へ行った。毎日ここの前を通って学芸都市ドームへの連絡通路へ入っているが、母屋に入るのは初めてだ。呼び鈴をならす前に「みゃーん、みゃーん」とすばらしくかわいらしい猫の鳴き声がした。ぱたぱた足音がして、中からドアが開いた。春季がいた。
「…先輩、すみません…。」
春季は暗い顔で言った。
「…いや、どっかで倒れてたりしたら、お前一人じゃ運べないだろう。一緒に探そう。」
陽介がそういうと、春季は小さくうなづいた。
春季の代わりです、と言わんばかりに「みゃーん」と猫が鳴いた。
ふとそっちのほうを見て、陽介はびっくりした。
「…これか!」
思わずそちらに近付くと、その巨大な白猫は値踏みするように陽介を見上げた。陽介は立ち止まった。すると、
「うわー、でか!」
そう言って陽介の後ろから斎が現れた。それを見て春季はびっくりしたようすだった。
「…あんた何しにきたんですか。」
「…これ、何猫?」
「多分ペルシャ系でしょうが…ひろいもんですからわかりません。」
「でかー…10キロくらいある?」
「最後に計ったときは8キロでした。」
「1メートル以上あるよね!?」
「…しっぽ入れれば多分。」
「うきゃー!!」
斎は奇声を上げて白い巨体にばふっと抱き着いた。
「わっ!」
「なにするんですか!!」
おもわず制止しようとした2人と対照的に、白猫ショウヤは「みゃーん」と鳴いて、鷹揚な様子を見せた。
「すごい猫だ!! すごいすごい!」
「みゃーん」
なにやら感激して猫の隣に座り込む斎を、2人は呆然とみおろした。
「何食べさすとこうなるの?あんたがこんなにでっかくしたの?」
「え…はあ、まあ、そうです。餌はキャットフードとか、あとときどきスパゲティとか…のこりもの。」
それでも猫を誉められると悪い気はしないらしく、ぼそぼそと春季は答えた。
「絶対だっこするぞ!」
斎はそう言うと、米袋ほどの重さのある猫をがしっとかかえあげた。
「きゃー重いーvv」
大喜びだ。
なんとなくむっとして陽介は言った。
「何さわいでんだよ。静かにしろバカ女。何しに来たかわかってんのか。ドタマかち割るぞ。」
「ふふーん、割ってみ。」
斎は勝ち誇ったようにそう言った。陽介はむかーっとした。
ショウヤはまた可愛い声で「みゃーん」と鳴いた。
「よーくおしゃべりする猫だねーっ。」
「はあ、愛想いいんです。客の膝は必ずのしっとやります。のっかって座ったりはしないけど、挨拶っていうか、手でのしっと。」
「可愛いv」
「…どうも。」
春季はなぜか頭を掻いて照れくさそうに言った。
斎がショウヤを放すと、ショウヤは静かに陽介の足下へ行き、「みゃーん」と挨拶すると、そのまま居間へ入っていった。
3人はショウヤのあとに続いて居間に入った。
ダイニングのテーブルの上には、食べかけの夕食がまだ少し残ったままになっていた。
「…ニュース、食事しながら見たんです。心配になって…戸締まりを。」
「礼拝堂のほうをやってたんだろう?」
「…ええ。見に行ったら電気もつけっぱなしで…でも鍵はかかってました。」
「物音とかはしなかったのか?」
「全然。…荒らされた形跡とかもないです。」
「とにかく一緒に行ってみよう。」
春季はうなづいて、階段のそばの裏口へ2人をつれていった。ドアをあけると、向こうは廊下になっている。
「…礼拝堂につながっているんです。礼拝堂の入り口に武道場への入り口もあって…あ、武道場は地下なんですけど。」
三人で礼拝堂と武道場を一回りしたが、小夜は見当たらなかった。
「…一応母屋のほうも見てみよう。電話してるうちにもどってたのかもしれないし。」
母屋にもどって、また三人一緒に探したが、やはり小夜の姿は無かった。
「…そうだ、部屋を見てない。」
春季はふと気付いたように言った。
「部屋って…小夜の部屋か?」
「姉さんの部屋は見ました。僕と一輝の部屋です。…見通し悪いんですよ。」
三人はそのまま2階へ上がった。
「…見通し?」
「…まあ奥は2段ベッドだけど…姉さんときどき兄貴たちのとこで昼寝する癖があるから一輝のベッドにいるかも。」
「…アブねえくせだなあ。喜んでるだろ、兄貴達。」
斎はぼそっと言った。
春季は笑った。
「…父はヤメロって五月蝿いですけどね。僕達は別にかまわないから。母は別に何も。姉さんが寝たあとなかなかいいですよ。いい匂いして。」
春季はドアを開けた。
部屋を見て、陽介と斎は呆然とした。
身長ほどに積まれた本の森だった。
「…すげえ部屋だ。」
陽介が呟いた。
確かに見通しが悪い。
「あ、読みたい本あったら持ってっちゃってください。ぼやぼやしてるとヒスった一輝に全部捨てられちゃいますから。…うーん、空気悪…ちょっと換気しよっと。…いやあ日本州って紙が酸性紙なんですね。古本が臭くって…のどがいたくなるんですよ。参ったなあ。」
春季はそう言って換気扇を回した。
斎が感心した口調で言った。
「…これ尾藤くんが全部読んだの?小夜はヨーロッパ育ちだっていってたけど…尾藤くん日本語読めるの?」
「半分は共通言語並記ですよ。そのせいでみんなこんなに分厚いんです。」
「残り半分は日本語だよね…?」
「僕はいわゆる本の虫ってやつですからね。活字フェチなんです。なんか読んでないとおちつかないんですよ。もともとウチは共通言語と日本語と英語のチャンポンだし。母が英語ですからね。」
「英語の本はないな。」
陽介が言うと、春季はうなづいた。
「本読みは父の習慣なんです。母は全然活字を読みません。新聞もよまないですね。」
本の森を倒さないように隙間を進み、奥のほうへたどりつく。ベッドはカラだった。
「…いませんね。…念のために他の部屋も全部見ましょう。」
春季が引き返そうとしたところを、斎が呼び止めた。
「…ねえ、この本の山、借りていい?」
見ると、それは教団関係の書籍だった。春季はちょっと呆れたような顔をした。
「…そんなもの読むんですか?…まあ、かまわないですけどね。返さなくていいですから持ってってください。その手は毎月増えて処分に困ってるんですよ。」
「毎月新しいの発行されてるんだ?」
「3年くらい前から爆発的に増えましたね。誰かやり手の編集局員が入ったんじゃないかと思います。それに…教団的には大事件が次々起こってるらしいんです。」
「大事件?」
「まず聖地の封印ですね。それにともなって夢が減ったらしいです。」
斎は本を持ったまま立ち止まっている。
「…聖地の封印?…夢が減った…?」
「…うちのキ印共も倒れなくなりましたね。昔はほんとばたばた倒れてそのたびにヤレ預言だヤレ記録だって大騒ぎしてました。まあ、倒れるのは病気のせいだと思いますけどね、ナル…なんとかっていう、突発性の睡眠発作を起こす症例があるそうですから多分それ…。まあそれはともかく、…それで魔法樹が枯れたんじゃないかって話になって、調査隊が出たんですけど、聖地そのものが確認できなかったって。…つまり地図にある場所からなくなっていたって意味です。僕は道に迷ったんじゃないかとおもっていますけどね。…なにしろうちのが2人行ってるから。」
「魔法樹が枯れた…」
「…興味あるんですか?そういうの。」
春季は少しバカにしたように尋ねた。斎はそれに答えずに、尋ねた。
「あんたのお母さん、ひょっとして『谷のリリヤ』か『島のエポナ』じゃないの?」
春季はそれを聞いてびっくりしたようすで顔を変えた。
「…うちの母はリリヤという名前ですけど…」
陽介は斎の顔を見た。斎は春季にうなづいた。
「…お母さん英語のほかにフランス語やロシア語が話せるでしょ?…それで教団とやらでは、お母さんかなり偉いほうなんじゃない?」
「…ええ、いや、ヨーロッパの人だから、スペイン語とかも話せるらしいですよ。使わないけど…。地位は父より上って聞いてます。でも家では普通のお母さんですよ。父のほうが威張ってるし。亭主関白とのほほんママのラブラブカップルです。」
「知り合いなのか?」
陽介が尋ねると、斎は首をふった。
「…いや、でも噂の人だからね。みんな知ってたよ。」
春季は眉をひそめて言った。
「あなた、教団の人なんですか?」
斎はじっと春季の目を見て言った。
「いいや。教団の話は今日初めて陽介から聞いたんだ。…でもどうやらわたしのいた神殿と、あんたんちの教団は、関係があるってことは間違いないみたい。それにお母さんは多分、もとは神殿の巫女さんだよ。」
「…どういうことです?神殿って…。神殿にいたんですか?」
春季は尋ね返したが、斎は首を横に振っただけだった。
「…聖地そのものがない…か。」
斎は溜息をついて、もう一度首を振った。
「…いや、場合じゃない。今はまず小夜のこと探さなくちゃ。…墓参りなんかいつでもできるし…魔法樹は枯れてなんかいない…。尾藤くん、…今日でなくてもいいんだけど、今度その話をゆっくりできる?あたしも本見て勉強しておくわさ。日本語は怪しいけど、多分共通言語のほうはなんとか読めると思うし。…それにいっぱい絵が入っているからわかりやすそうだし。」
陽介は口を挟んだ。
「…俺が読んでかいつまんで説明してやろうか。おまえまったく活字言語不自由だから。そんなにべらべら喋るのにな。スラングも。」
すると斎は目を半分くらいの開き具合にして、回りの森を指差した。
「…あたしだって神聖文字ならこのくらい軽く読めるし、必要なら書ける。」
「うるせえなあ、善意だろ、受け取れよ。」
「無礼者め、受け取ってやるわさ。ムカツクけど。」
「けっ、悔しかったら日本語の補習組から脱出してみやがれ。」
「キー、はらたつー!!みてろーみてろー!」
「…んじゃ俺が借りてくわ、春季。」
「あ…はい。…どうぞ。」
春季は了承したあと、急に不安そうな顔になった。
陽介は言った。
「…心配すんな。この凶悪女とお前を2人っきりにしたりしないから。」
「…いえ、そうではなくて…あの、…」
春季は言い淀んだ。
…多分、「安物のファンタジーみたいな狂人のたわごとが本当だという可能性」について陽介に相談したかったのだろう。だが斎がいたので遠慮したのだ。
陽介は察して、言った。
「…春季、何かに書いてあることが全部本当なわけないが、全部嘘であることも稀だ。…あとで3人で少し考えてみよう。2人で考えてもいいが、3人のほうが妥当性のある答えがでるとは思わないか?どうだ?」
春季はおずおずうなづいた。
戸口でショウヤが「みゃーん」と鳴いた。
3人は部屋を出た。
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春季は当惑していた。この奇妙な女が、春季の何かを壊してしまって、心の中が上手くいかなくなりそうだったのだ。
春季は家の中ではきわめて地位が低い。兄たちはみな「お前は親にかわいがられてるんだからいいだろ。」と言っていつも春季に八つ当たりした。その実兄弟ケンカになっても親は絶対に兄達のカタしか持たず、結果として春季は「負け役」を常に引き受けてやらなくてはならなかった。親や兄たちが春季を教会に引き込まないのは多分ポロが出るせいだろう、と春季は思っている。つまり、平等とか平和とか神の声とか言ってる人間が、実は末の弟をサンドバックにしてなんとか表面だけとりつくろっているにすぎないということを、春季は赤裸々に知っている証人だからだ。春季の前では格好がつかないのだ。
親が春季に求めてくることは「いつも可愛くしていること」だった。だから春季が「かわいくない言葉」を口にすると露骨に嫌そうな顔をした。必要かつ重要な何かを言っても耳をかさなかった。どんなに正しいことでも、否、正しければ正しいほど、春季の言葉は受け入れられなかった。春季は家族が飼っている、芸達者な犬のようなものだった。実際昔両親は芸達者なダルメシアンを飼っていて、春季はその犬とよく比較され、犬以下だとよく言われた。要するに気が向いた時に撫でられたり蹴られたりし、家族の望む芸を要求されて、拒めばバカ扱いされた。そのくせ春季が必要としているときに助けてくれる者はなかった。
家族よりも陽介のほうが春季を大切にしている…春季は最近とみにそう思うことが多くなった。陽介はいつも春季の都合を確かめてくれたし、春季が傷付いたり不安になったりしていないかそっと探りをいれたりする。言葉が終わるまで静かに待っていてくれるし、よく考えて返答してくれる。めんどくさがったり、無視したりしない。春季が何かを主張してもけっして「我侭だ」とは言わなかった。小夜は彼のどこを見ていたのだろう?と思う。
ショウヤは絶対に誰の言うことも聞かないが、いつも自分の甘えたい時に甘えたい相手に甘え、遊びたくなったらボールを転がして手ごろな人物のところへ持って行くような図々しい猫だ。もちろん食べたいものはなんとしても食べ、そのために戸棚も冷蔵庫も自力であけるが、部屋のドアは必ず鳴いて人間に開けさせ、絶対何があろうとも自分では開けない。…春季はある時期から「ぼくもこうやって生きてやる」と決め、やっと家族のなかで人間らしく生きることができるようになったと感じている。…不評だが。
春季はショウヤと暮らしながら、家族に一つの解釈を適用していた。それは、「ウチの家族が自分にとってきわめて不都合なのは、あのやくたいもない宗教のせいだ」という理論だった。その証拠に洗礼を受けていない小夜は比較的春季に優しく、利害も一致している場合が多かった。「全部あの宗教のせいだけど、父と夜思は教団を離れては生きられないからしょうがないのだ」と思うことで、春季は家族を許してやることにしていた。
そのせいもあって「あの宗教」は日々春季の中で落ちぶれていった。怪しい新興宗教で、刻々情勢は…つまり教義は…かわってゆくし、ばかげたファンタジーみたいな物語を間に受けてゴッコ遊びに興じている…そんなふうに春季は思うようになった。教典も読んだけれど、それは非論理的な点や、非現実的な点を探すためだったし、そういう点を見つけると、春季は安心した。自分は正しいのだ、と確認できた。
まさか木の下に神様などいるわけないし、そんなドームがあるわけないし、それを守っている乙女達なんてあまりに馬鹿馬鹿しいし、魔法の力のある木などあるはずない。…常識的な判断なはずだと春季は思うし、その妥当性をうたがったことはなかった。
…魔法の力。魔法樹の実在。
それがもし事実だったら、春季の根底はひっくり返ってしまう。
常識をもってバカな家族を許してやっていた自分が、物をしらない頑固な愚か者に転落し…そして自分に奴隷であることしか求めない家族が正しいということになる。
(冗談じゃない。僕は…)
難しい顔になっていたらしく、ショウヤが「みゃーん」と足下にすりよって来た。
「…ショウヤ…。」春季は気をとりなおした。「…姉さんどこへいっちゃったのかな。他の部屋も全部みてみようね。」
春季は重いショウヤを「どっこいしょ」と持ち上げて、のしのしと次の部屋に向かった。