26 発行日
斎から「やな医者到着。咲夜が帰った。」の報を貰った晩に、アルテミスが陽介宅からふらりといなくなった。…何しろ陽介の手を受け付けない問題児なので、居れば居たで何かと手がかかる、居なければ居ないでこれまた心配…とはいえ、四六時中いられるとハッキリキッパリ困るので、お母さんも陽介もこれといって話題にしなかった。
それから、さらに2週間ほどが過ぎた。
春季のために開けてあった連休は、思い立って二日目から予定を組み、年上の知人たちと昨年までのようにそれなりに楽しく過ごした。斎は医者につかまっているとかで、ホテルに缶詰めにされていた。(当り前だ。)ぶーぶーぐちぐち電話を寄越す斎とは対照的に、春季は忙しいのか自由がきかないのか、一度も電話をよこさなかった。
連休明け、もののみごとに、陽介は5月病になった。
学校に行きたくなかったが、家で母と顔を突き合わせているのはもっと御免なので、いやいや学校へ行き、時々サボって保健室で寝た。「頭痛が」というと、保健室は黙ってベットを貸してくれた。そのベッドもともすれば満員で、五月の病人は陽介だけでないことが容易にしのばれた。3回目に行ったとき、やんわりと「スクールカウンセラーとおしゃべりしてきてたら?」というようなことを言われ、煩わしくなったので、その後は部室でサボった。授業へ行く時間はだんだん少なくなり、そのうち体育と音楽の他は、好きな歴史の時間しか行かなくなった。
自分の疲れの正体が何なのか、陽介にはよくわからなかった。変なふうにイライラし、顔にはにきびが一掴みほどもできた。
ときおりは暑さを覚えて、部室の窓を開けっ放しにするような季節になりつつあった。窓をあけていると、初夏の花壇の甘い花の香りが漂ってくることもあったが、あまり快く感じなかった。
そして遂にある日、限界かと思うときが来た。いつもと同じはずの鞄がやけに重く感じられて、「これはいよいよ俺も病院へいかなけりゃだめか」と観念せざるを得なくなった。仕方がないのでとりあえず、学校につくなり人を避けて、朝からサボり体勢で部室に潜り込んだ。昼を食べたら、兄もかかっている医者へいって抑ウツ剤でも…と他人事のように考えながら、重い鞄を部室の隅の机に置いた。
…そういえば会誌の後書きがまだだった、と、どうでもいいことを思い出した。
重要なことは何一つできないが、不思議なことに、どうでもいいことならいくらでもできるのだ。
陽介は苦笑いして、手書き用のペンを出すために、鞄をあけた。今どき手書きでノートをとる生徒など滅多に居ない。しかし…否、だから、陽介はわざと手書き用具を持ち歩き、会誌の編集記事はすべて肉筆で書くことにしていた。そのためにペン字とカリグラフィーを練習し、ペン字は段も持っている。陽介の字で作成された肉筆ページは、まあまあ好評だ。
…そういえば去年斎が居なかったころに付き合っていた春季の姉は、部室に初めてやってきたとき、陽介のことを「文字の印象そのままの人なのね」と言っていた。それがどういう意味なのか陽介には今一つ判然とせず、戸惑った…。
…開けた鞄の中を見て、陽介は吹き出した。
「…なんだ。おまえかよ。」
「にゃ~。」
…アトムという白黒猫が、陽介の鞄の中にぴったりとはまりこんでいた。アトムはたまに遊びに来る野良なのだが、まれに気に入った入れ物(??)を発見すると、何日も陽介宅に滞在することがある。鞄にはいって揺られるのがさぞかし楽しかったのだろう、目はうっとりしていて、機嫌もよい。…アトムが無理矢理入っていたのでは、重いのも当り前だった。腹が立つやらほっとするやらで、陽介は一人で笑った。今朝もぼんやりしていたので、アトムが鞄に入っているのにまったく気付かずに持ってきてしまったのだ。それを精神状態のせいだと思うなんて、自分でも可笑しかった。
ひっぱり出そうと頑張ったが、いやがってアトムがにゃーにゃー騒ぐので、仕方なく、ペンだけとりだして、そのまままた鞄は蓋をかぶせておいた。途端にアトムは大人しくなり、「にゃーん」の「に」とも言わなくなった。
「…ま、トイレしたくなったら出てくるだろ…。…のんびりしてな。」
だれに言うともなく言い、陽介は白い原稿用紙の周囲に、粋な枠線を引いた。
…どのくらい作業に没頭していただろうか。ふと気がつくと、中庭は休み時間の喧噪が広がっていた。時計をみると、3時間目が終わったところだった。原稿も出来たので、印刷機でもまわそうかと思い、カバーをめくると、インクがきれていた。
「…だれかまたイカン物を刷りやがったな…どうでもいいけど、インクなくなったら替えろよ。」
また女子たちがエッチなゲイの本でもつくったのだろう。陽介はぶつぶつ文句を言い、在庫を探したがなかったので、購買部へ買いに行くことにした。ついでにパンでも買って来ようと思った。
購買部の常連、みたいな生徒というのがいて、オバチャンに馴れ馴れしく話しかけたりしているのをよくみかけるが、陽介はあまり購買部では顔を売っていない。パンと牛乳とインクを買って、インク分だけ領収書を切ってもらっていると、後ろから長身の女教師につかまった。
「おいコラ久鹿。サボりはときどきにしろ。みんな心配してるぞ。」
陽介は身を竦めた。文芸部の顧問だった。でかくて肩幅がひろく、四角い頑丈な体つきなうえ、ときどき「いじめっこづかみ」で生徒の後ろ衿をつかんで持ち上げてつるしたりするので、陽介たちは「ジャイ子」と呼んでいる。本名は須田英子さんとかいう、日本的なよい名前の英語教師だったりするのだが...。
「あ、すいません、実は家からうっかり猫入りの鞄もってきちゃって、教室に行けなくて…」
「…もっとましな嘘つけ。」
「ほーんとですってば。部室に居ますよ。みますか?」
「それはともかく、ちと相談室までおいで。」
「え…いや、午後ちょっと病院いきたいんですけど…」
「…あっそう。」
ジャイ子は少し考えた。それから陽介の耳もとにヒソヒソ言った。
「…あの行方不明が帰って来てるよ。午後から授業に戻るらしいゼ、先輩クン。レア情報。」
びっくりして陽介が思わず見ると、ジャイ子はニヤリとして、でかい手をひらひら振った。
「…じゃ、おだいじにな~。文芸部はお前さんが沈没したら全員漂流だから、病院行ってしっかり治せよ~。まったくハンサム君が顔にストレスにきびつくっちゃって、罰符だよ~?」
そして立ち去った。
…ジャイ子が同人誌のイベントでエロ本を売っているという噂は本当なのだろうか。そんなどうでもよい思考が、一瞬頭をよぎった。
+++
そんな話を聞いたからといって、どうにかできるわけでもない。陽介はまた部室にもどって、印刷機のインクを替えた。慣れてしまえば簡単な作業なのだが、勿論幽霊女子部員が進んで替えるはずもない。インク替えがすむと、原稿を揃えて、一枚ずつ印刷し始めた。
ありがたいことにアトムは印刷機には興味がないらしく、大人しく鞄にはまったままだ。
部数を確認しながら、刷り上がったページを丁寧に並べてゆく。…これにしたって、タミコあたりがいたら3分で蹴散らされている。
なんとなく、家に帰って、そうせきくんとラブラブにボール遊びでもしたくなった。きっとそうせきくんは、病院に行けとも学校に行けとも言わず、なんの嘘もなく、気が向き続ける限り、陽介とじゃれてくれることだろう。
…こんなのは逃避だ。
陽介は頭を振った。
一枚ずつ丁寧に紙を二つ折りにし、ページを慎重にそろえる。
ふと、顔が痒くなって軽く掻くと、爪の先ににきびがひっかかった。
(…痛っ…)
陽介は顔をしかめた。
(…ストレスにきびか…そうなのかな。なんかいやだな。)
ページが揃っているかどうか、一冊分ずつめくりなおす。…ここまでくれば、もうすぐ完成する。確認した分は一冊分ずつ互い違いにかさねてゆく。
(…)
ノックの音がした。
陽介が振り返ると、ドアががらがらと開いて、黒いおかっぱ頭がひょいと顔をのぞかせた。
「あ、いた、先輩!」
ひまわりみたいな顔で、にっこりした。
春季だった!
その顔を見ると、陽介の顔も自然にほころんだ。
「おう、いつ帰って来たよ?」
「今朝です。ごねてごねてごねまくって無理矢理帰って来ました。」
「遅かったな~。もっと早く帰ってくると思ってたのに。」
「何無茶言ってんだか! すごくすごくがんばったんですよお、僕!」
春季はそう言いながら部室に入ってきた。コンタクトレンズは結局体質に合わなかったのか、安い眼鏡を鼻にひっかけていた。陽介のやたらに近くまで寄って来たが、陽介は別に拒まなかった。…そりゃ勿論、抱き寄せたりもしなかったが。
「教会行ってみた?すぐ翌日くらいに硝子入ったよ。」
「まだ行ってないです~。…いやはや、僕って行方不明扱いだったんですね!びっくりしちゃいましたよ。担任やらなにやらにいろいろ聞かれて大変でした。まさかホントのことも言えないし…学費は一年分払い込まれてるから、とりあえず今年はなんでもないらしいです。親ジョーハツってことなら生活保護の特例項目適用だそうで…」
「よびもどせばいいじゃん。」
陽介がのほほんと言うと、春季は顔をしかめた。
「…先輩、ボケたのと違います?」
「…うーん、最近少しブルーだけど、まだボケまでは…。…だって、問題ないだろ、別に。」
「何が問題ないんですか。問題山積みですよ。」
春季はぷんぷん怒って言った。陽介は製本中の会誌を机に置き、少しニヤニヤした。
「…おまえ、それじゃ、聞いてないの?」
「何をですか?」
「…菊さんも斎も谷の神殿は動きたくても連邦まで入ってくるのは至難の技だろうっていってたぜ。エリアは出入りの規制かなりキビシイからな。」
「…は?」
春季はそれを聞いてポカンと口を開けたまま固まった。
「…だから、あれ、半分はハッタリ。まず木守、これないだろうってさ。…まあでも、必要があれば手引きして入れるつもりだとは言ってたが。」
陽介がそういうと、春季はみるみる真っ青になった。
「な…なんでおしえてくれないんですかーーーーー!!!!」
「だから電話しろって言ったのに。」
「…連邦回線からケイタイに繋がらなくて…。固定電話の番号は忘れちゃってたし…。」
「えっ、嘘だろ、俺確か国際オプション入ってたはずだけど?!」
「…ぜんぜんかかりませんでしたよ。オプションメニュー契約だけしてオンにしてないのと違います?」
「それはしてないわ。…つーか、普通自動でオンだろう?!」
「…端末操作なんじゃ?」
2人はしばらくケイタイを出してやいのやいのもめた末、ついにサービスセンターに電話を入れて確認した。するとどうやら陽介のつかっているケイタイの会社の場合は、海外オプションを利用するとき国際局番を先頭に打たなくてはいけなかったらしいことがわかった。
「…先輩、ケイタイは連邦の電話公社のダイレクト回線のものにきりかえて下さい。」
「…すまん。こっちのほうが基本料金安くて…。」
「しかしラウールめ畜生が…騙しやがった! みてろ、いつか必ずこの貸しは返してもらうからな! くされ市長めが!!」
「…お、おまえ、なんか…なんかガラ悪くなって帰って来てねえ?」
「悪くもなりますよあんなとこに20日も!!!」
春季はガオーと叫んで椅子を蹴飛ばした。
「てゆーか先輩サボりだし!なにしてんですか授業中ですよね!」
今度は鉾先がこっちにむいたので、陽介はにっこり作り笑いして言った。
「…あっ、春季、面白いもの見るか?」
「…なんですか。」
「俺の鞄あけてみ。」
春季は大人しく言うことをきき、鞄の蓋をひょいとめくった。
「…あーっ、アトム!」
「今朝学校ついたら鞄に入ってやがってさ~! もう笑っちゃったぜ。テキストは入ってないし、参ったよまったく。」
「あはははは! 鞄にはいってたの気付かないでもってきちゃったんですか?先輩ってば何考え事してたんです?... わーい、アトムだアトムだ!」
春季はすっかり機嫌がよくなり、アトムを撫で回した。
「わー、猫ひさしぶり! 猫だ猫だ猫だーvvvv」
アトムもいい加減ハマり飽きていたのか、春季にひっぱり出されると、今度は素直に従って、ずるずると鞄から出て来た。春季はアトムの毛皮を丁寧になでつけ、さきほど蹴飛ばした椅子を引いて来て座り、アトムを自分の膝に載せ、嬉しそうにまた撫でた。アトムは「なーご」と一回だけ鳴いたが、別に不満そうではなかった。
陽介が製本作業に戻っても、春季の弾劾はもうとくになかった。春季は急に大人しくなり、アトムを飽きずに可愛がっている。
会誌がすっかり綴じ上がったころ、チャイムが鳴って昼休みになった。春季は思い出したように自分の持ち物から、サンドウィッチを取り出した。陽介も出来上がった会誌をきちんと積んで、先程買ったパンと牛乳で昼食をとることにした。どちらともなくパンをちぎり、アトムにもわけてやった。
…なんとなくほっとした。
「…先輩、会誌できたならください。」
「…その前に会費入れろ。」
+++
何か動き出すときは他のことごともまた一斉に動き出すものらしい。
その晩嬉しそうな斎から電話があり、やっと目が6割くらい開いて、医者が帰った、と報告があった。
春季が帰って来てるぜ、うちにいるから遊びにこないか?と陽介は誘ってみたが「まだ6分開きだから遠慮しとく」とのことだった。けれども斎はだれより春季が陽介のところに帰って来たのを喜んでくれて、「そのうちまたあたしもゆっくり話がしたいから、宜しく言ってね、お袋の伝言の件もあるしさ」と言った。陽介は了承し、春季にもちゃんと伝えた。
春季の両親とはすぐに連絡がとれたのだが、一家はもう少し外国でようすを窺うことにしたらしい。…というか、どうやらむこうで一番上と四番目が入院していて、身動きとれないらしかった。春季は、教会を閉めてとりあえず母屋の管理だけ、と一家から命じられ、当分あの家に一人で留守番することになった。「そろそろ夏っつっても全然さしつかえないね」くらいの天候になりはじめたころまで、その留守番は続いた。陽介の名誉(?)のために言っておけば、陽介は一家の留守中に、春季の部屋には泊っていない。もっとも春季はちょいちょい夕食がてら陽介の家に泊っていたが。勿論久鹿家の父は渋い顔をしているらしいのだが、お母さんが何か裏工作してくれているらしく、今のところおとがめはとくになかった。なお、2人は最近はお母さんから少しお茶をおそわっている。
猫達だが、そうせきくんは相変わらず毎日雨だろうが風だろうが、陽介の足音がわかるかのように、ちゃんと門の上にのっかって陽介を出迎えている。そうせきくんにとっては陽介ぼっちゃんは最愛の人で、陽介にしてもそうせきくんは最愛の猫だ。2人はそんな一心同体ならぬ一心二体な仲で、今後も末永く幸せにくらすことだろう。タミコは最近少し太り、お母さんに餌をへらされてしまった。おめんちゃんは暑がりなので最近は廊下の暗がりで暑さをしのいでいる。うっかりつまづくとあたりまえだが大変怒る。どんぐりと春季の再会だが、春季は感動のあまり涙ぐんでいたが、どんぐりは「しゃー」と言って通り過ぎただけだった。(というか、一応どんぐり的にはそれで挨拶したつもりらしい。)バショウくんは滅多に姿がみえないが、ちゃんとゴハンだけはたべている。ぱすたは春季と再会できて大喜びで、春季が泊るときはかならず春季の布団に「うふーんv」ともぐってきて「うふふーんvv」と寄り添ってときどきはとんでもないところにはさまって眠っている。アルテミスの行方は杳として知れないが、マヤ夫人はたまに遊びに来る。マヤ夫人は春季に愛想をふるため、ときどき逆上したぱすたに襲われている...が、けんかはマヤ夫人のほうがかなり強い。そのほかの久鹿家の猫たちも、みな元気だ。
春季が帰って来た日、学校につれて行ってしまったアトムだが、帰りも陽介の鞄にはめ込まれて、おとなしく揺られて帰った。しかしなにしろ野良なので、次の日には居なくなってしまっていた。
陽介のにきびは2日ほどで「あれよあれよ」というまになおった。結局病院にもいかずにすんだ。
…失礼な話なので絶対に春季に言うことはできないが、あの5月病はおそらく一種のペットロスだったのではないか、と陽介はひそかに思っている。
THANX.




