19 洗礼
花の香りがかすかに漂う、しかしまだ冷たい風に吹きつけられて、春季は我に返った。終わりの桜の花びらが、春季の周りでくるくると小さな渦を作り、鼻にしみる冷たい空気に涙がこみあげた。
…州都の春だ。
春季は黙って真夜中の空を仰ぎ見た。パネルのせいで星はよく見えない。春季が子供時代を過ごしたあの山小屋のあたりのようには。
それでも明るい一等星がぽつぽつと見えた。
…自分の左手を見ると、薄くぼんやりと光って見えた。
周囲をみると、公園だった。…いつも陽介がここまで送って来てくれて、そして2人はここで別れる、…あの公園だった。
(…僕は…たくさんヒトがいる世界で…愛したり憎んだりしながら…いろんなヒトと生きている…)
(当たり前のことだと思っていたけれど…ホントはとても運のいいことだったのかもしれない。)
春季は静かにうつむいてそう思い…そして顔を上げて、歩き出した。
向かう先は、もちろん自宅だ。
エリアの外れの一角にさしかかると、そこから礼拝堂の灯りが目に入った。
(僕ンち…)
(お父さんと、お母さんと、兄貴たちの家。)
(…姉さん。)
(姉さんのいる家。)
門は誰かが開けたままになっていた。
春季は門を通り、静かに閉めた。
それから玄関へ行った。
母屋の玄関は開いていなかった。
礼拝堂へまわった。
物置きの戸が開けっ放しになっていて、中から裸電球の柔らかい光が漏れていた。
春季は物置きに入り、スイッチをひねって電気を消した。
それから静かに戸を閉めた。
礼拝堂の入り口は、開いていた。
ここは、普段も夜の間中ずっと開いている。
たまに信者さんが転がり込んでくることもあった。兄か父が応対し…大抵は1~2泊させてやる。彼らの事情はよく知らないが…今はなんとなくわかる気もしたし…おそらくは、あの中には信者でないヒトも混ざっていたであろうことも見当がついた。…またそのことを、兄も父も厳しく問いつめたりはしなかったであろうことも…。
礼拝堂の祭壇は火が消えて、焦げた古木のかけらが、ぬれたまま散らばっていた。祭壇は水浸しになっており、周囲は絨毯がはがされ、あちこちに椅子やその残骸が散らばって…無惨だった。
その光景は、明らかな敗北を示していた。
すみの椅子に、疲れはてた様子の美治が一人で座っていた。
春季がゆっくり近付くと、美治は顔を上げた。
…顔が腫れている。ケンカでもしたのだろうか。
「…ミハ兄。」
「…」
呼び掛けたが、美治は返事をしなかった。
さらに近付いて、春季は椅子を一つ持ち、美治のすぐそばに置いて、そこに座った。
「…眼鏡、どうした。なくしたのか。」
美治は疲れた声で尋ねた。
「…壊れた。なにもしなかったけど、ぱりーんて、こなごな。…あの壊れ方からして、もう耐用年数が限界だったのかも。」
美治は手をのばし、春季の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「…大丈夫か?」
「…何が?」
「…リリヤの雷くらってただろう。…俺だったら即死だ。…お前はズ太い。」
「あの硝子のこと?…うん、…死んだかと思ったけど、なんか…??…なんか、通りすがりの魔女のヒトが助けてくれたらしいんだ。」
「ああ、あいつお前を助けたのか…。…硝子?いや、違う。おまえ小夜を助けにきただろう。あのときだよ。」
春季は少し首を傾げた。
「…ごめん…死にかけたあとのこと、よくおぼえてなくて。…あの、姉さんは…?」
「…いや、おぼえてないほうがいい。…おまえばバカだから、きっとリリヤやアキラと正面衝突するだろうって気がしてた…。」
美治はそう言って、春季をまたぐしゃぐしゃなで、それから、抱き締めた。
「…春季、小夜を助けに来たのがお前だったことはうちでは多分俺しかしらない。…俺も黙ってるから、お前も、思い出しても言うな。」
「…!」
…思い出しても言うな。
以前もそんなことを、こうして…別の誰かから言われたことがなかっただろうか?
春季はわけもわからず震えた。
今、自分の何かが殺されそうになっている。強くそう感じた。
…そして多分それを殺してしまわなければ、自分は家族にとって不都合なのだ。…不適格、といってもいい。
春季は哀しい気持ちになり、美治の背中に無意識に手を回そうとして、…静止した。
少し上げた自分の左手が、うっすらと光って見えた。
春季はつまっていた息を静かに吐き、光る手でそっと美治の背中に触れた。
「…ミハ兄、木の根元には、黒髪の美女がいて…娘と離ればなれになって、たった一人でその呪いと戦っていたよ。」
美治は春季を力なく放した。
春季はニコっとした。
「…でも、笑ってた。」
「…」
「…そのひとに頼まれた伝言を届けなくちゃいけないんだ。…だから、行くね。」
「…」
「…いつもありがとう。ミハル。」
春季は立ち上がった。
美治はもう何も言わなかった。
礼拝堂を横切って、春季は母屋へ向かった。
いつもなら温かい空気が流れてくる居間への廊下は、ひんやりと寒かった。春季は大股にその通路を進み、母屋に入った。
居間には父がいた。
本棚のところで写真たてを見ていたが、気配に気付いて顔を上げた。
春物の薄手のセーター…清潔な私服姿だった。だがその顔は痣だらけになって、唇も切れていた。手にも包帯をまいていた。
「…どこへいっていた?」
父は尋ねた。
春季はこたえた。
「…根の下の国。」
父は顔を上げた。
「…何を言ってるんだ?」
「…ケガ、大丈夫?」
「…大したケガじゃない。」
そう応えながら、父は訝しげに春季をのぞきこんだ。
「…根の下の国…といったな。どう言う意味だ?」
「…」
春季は少し考え、それから注意深く言った。
「…『あれ』と何の取り引きをしたの?お父さん。」
父の眉間に険しく皺がよった。
「お前…どこのだれに何をふきこまれて来たんだ。」
「どこのだれかな?…むしろ貴方がそれを僕におしえてよ。『あれ』は何なんですか?」
春季はまっすぐに見つめ返した。
父の顔が凍り付いた。
春季はよく考えて、それから言った。
「…お父さんかお母さんが『あれ』を騙したせいか、何故か僕が約束を履行するよう恐喝されました。」
「…お前…『夢』を?!」
「夢なんかじゃない。夢だったらその顔のケガはなんなのさ。」
「…いや、そうじゃない。お前が言ってるのは『ミルエ』のことだろう?また話したんだな?!あれほどいけないと言ったのに!」
「?! どういう意味?」
「ミルエのいます地は今この世界でないところにある。だからお前が見たのは『夢』だ! くそ、なんということだ! …夜思! まだおきられないのか?夜思!!」
父は階段のほうへ向かって大声で叫んだ。すると階段からのっそりと、仁王が現れた。…まるでケチャップをかぶったような痣ができていた。
「…親父殿、いい加減におちついてくださらんか。一輝兄も夜思も絶対安静だ。今夜はもはや一歩も歩けんぞ。」
「春季が夢を…! ええい、お前では話にならん!」
仁王はそういわれると「ふんっ」とおもいきり鼻をならした。
「ああそうだろうとも!せいぜい貴様の妻とでも話すがいい! これ以上小夜に何かする相談なら俺は妨害してやるからな!よくおぼえておいてもらおうか!」
仁王の低い声は地鳴りのようだった。そして仁王はくるりと春季を向き、怒鳴った。
「このクソ低能オタクめ! そうまでして親の注意をひきたいか! 夢を見る奴など夜思だけでたくさんだ!」
春季はきっぱりと言った。
「まったくだね。僕は夢なんか見ないよ仁王兄。…姉さんどこにいるの?具合悪いの?」
はっきりと言い返したせいか、仁王は少し言葉につまった。春季はさらに言った。
「…今お父さんと大事な話してるんだ。でも終わったら姉さんのとこ行くよ。どこにいるの。」
「…部屋にいる。」
「そう。有難う。…別にクソ低能オタクって発言はとりけさなくていいよ。あんたたちの無礼には慣れてるから。でも僕に好かれてるとは思わないでよね。」
「…お前に好かれたいとおもったことなぞ一度もない。」
仁王はせいぜい威厳を取り繕ってそう言うと、再び二階へ消えていった。
春季は父に目を戻した。
「…『また話した』って言ったよね。僕、前にも『あれ』と会ってるの?」
「…それはお前が一番よくわかっているはずだ。」
「…」
春季は思い出そうとしたが、思い出せなかった。…可能性があるとすれば、あの山奥の廃屋だが、なにしろ記憶がなくなってしまっている。
「…『あれ』と何のとりひきをしたの。僕は約束を守れといわれても見当もつかない。あそこにいた人は、多分僕の両親がした約束だろうって言ってた。」
「誰がいただと?」
「…聞く前に答えてほしい。」
「まず先に答えるのはお前だ。」
「…知らない人だよ。」
「女だな? 」
「女だよ。けっこう美人だったな。…で?何の約束したの?」
「…いずれにせよおまえには関係ないことだ。」
「残念だけどそういうわけにはいかないんだよ。 息子だと半分同じ匂いがするから、近くを通ると掴まるんだよね。」
すると父はにっこりした。…信者向け、営業用スマイルだった。
「私は何も約束などしていない。そもそもミルエと話したこともないからな。お前と違って。…約束したのはお前なんじゃないのかい?おまえは以前のときも我々には何も明かしてはくれなかったが。」
春季はゆっくり言った。
「…死んだ人たちは黒い髑髏に成り果てて、障気を放ちながら『あれ』の慰みものになってるみたいだよ?…苦しませたり騙したりして殺すと、その手の呪術はしっぱいするんだってさ。…あんなに仲よくしてくれた人たちを。鬼か、あんたは。」
春季がそう言って睨み付けると、父は困ったように溜息をつき、やっと話す気になったのかそれとも本格的にだます気なのか、春季に座るように言った。春季が椅子に座ると、父も座った。
「…春季、お前も家族の一員だ。こういうことになったなら話しておかなくては。子供だからと言っている場合ではないようだ。それに、そろそろ少しずつこういう事実に触れていくようにしたほうが良いだろう。いつまでも手品とか言われるのも困るしね。」
「…」
「…おまえの言う『あれ』だが、確かに我が家は『あれ』に呪われているのだ。だがお前の言うような、変な約束だか契約だかをして、しかもそれをすっぽかした、なんて事実はない。ただ、呪われているのは確かだ。私はともかく、夜思はたびたび危険な目にもあっているらしい。『夢』は個人的経験だから、くわしいことはなんとも言えないがね。」
「…お父さんは恐喝まがいの目にあったことが…ない?」
「『夢』では、ないよ。…だが、…実は、P-2のドームにいたころに、この次元で呪術的攻撃をうけている。」
「…どんな?」
「…詳しくは言いたくないな。まだ私にとっては傷になっているから。…ただ、最終的な結末として、マルフォイが犠牲になった。」
マルフォイは父が昔飼っていた、芸達者なダルメシアンだ。
「…?マルフォイって…いなくなったんじゃなかったの?」
「…いなくなったんじゃないさ。…惨い犠牲になったんだ。お前や小夜に言えたようなきれいな最後ではなかった。だから言わなかった。…一輝がくわしく知っているよ。回復したらきいてみるといい。」
春季は『あれ』が「大切なものを順にとる」と言っていたのを思い出し、少し緊張した。
「…なぜそれが呪術的なものだとわかったの?」
「…お前と小夜にはまだ出入りさせていなかったが、祭壇のある部屋があったんだよ。地下だったが。」
「…」
「…そこの壁が、黒ずんで…おかしいと思っているうちに、壁に文字が浮かびあがった。『どこにいるか』という一文だった。…それがはじまりだったな。…次は、鉢植えから根だけが溢れて部屋中にひろがったりした。朝起きたらわたしの耳もとまで、白い根がのびてきていた。すぐに処理しようとしたが…朝日をあびて溶けた。…次はなんだったかな?…とにかくそういう小技がいくつもあったあとに…お母さんだ。…入院していたことがあるだろう?おぼえているかい?」
「…あったね。一週間くらい?潰瘍じゃなかったの?」
「…一週間だって?とんでもない。28日間だよ! あのとき母さんは入院はしていなかった。教団の本部で祈祷をうけていたんだよ。…足が真っ黒になってしまってね。」
「足が…?」
「ああ。…爪の裏まで炭をぬったように真っ黒だった。…多分夜思がおぼえているだろう。見つけたのは夜思だから。これもあとできいてみなさい。」
「…」
春季はそれをきいたとき、それは呪術的なケガレなのではなかろうか、と少し思った。
「…そのとき、そういう呪術を跳ね返すわざを行なったのだ。それがうまくいかなくて、マルフォイが犠牲になった。」
「…マルフォイが犠牲になってなお、うまくいかなかった…?」
「その通り。」
父は足を組んだ。
「…それで我々は、強烈な手を打った。もうそうする以外なかった。」
「…どんな?」
春季がたずねると、父はしばらく黙った。そして言った。
「春季、…これは、外部にもれてもいけないし、教団にもれてもいけない話なんだ。だまっていられるか?」
「…その強烈な手っていうのは、教団内でさえ、禁じ手なんだね。」
「…ああ。」
「…勿論連邦の法律にふれるんだ?」
「…そうだね。」
「…尾藤家を守るために、彼らを身替わりに差し出したんだね?呪術でめくらましをかけて、かれらがいかにも尾藤家の一員であるように見せ掛けた。」
「…お前達を守るためにはそうする以外になかった。」
「…彼らを騙して。」
「…仕方ないだろう。死にたかったのか?むろん彼らに対して悪かったと思っているさ。だが他に何か手があったのか?」
「…」
「春季、認めるのはいやだろうさ。だが動物は所詮、他の生命を犠牲にすることによってかろうじて生きている。全ての動物が例外なくそうなのだ。従属栄養という。われわれは略奪せずには生きられないのだ。例外はない。われわれは代謝エネルギーを自力で合成することができない。」
春季は、巧妙な摺り替えに気付いていた。そして更に、そこにまだ何か嘘がひそんでいることも看破していた。
けれどもいくらほじくりかえしても、多分父が家族のためにそれをやったというのだけは本当だろう、と思った。
…それならば、守ってもらった自分に、何が言えるだろう。
「…その隙に、逃げてきたんだ、まったく違う、遠い場所へ。」
「そういうことだ。」
「好きでやってた武術指南の先生から、あまり好きでない宣教師に転身して。」
「…まあ修行のうちだ。」
春季は心の中で、以前のクリアでクリーンだった武道家の父に、静かに黙祷を捧げた。
「…『あれ』と夢はどういう関係なの?」
「夢はミルエの管理する膨大な記録の流出なのではないか、というのが今の最新の説になっている。」
「ミルエは何かの管理者だということ?」
「喩えだよ。…こう言ってもいい。ミルエの外部記憶のようなものにシンクロしているのだと。」
「…外部記憶ってつまり…外付けの独立したディスクみたいな?」
「そう、まさにそれだな。」
「じゃあ夢見はそれを再生するプレーヤーみたいなものだってこと?」
「いい喩えだね。」
「…魔法樹ってなんなの?」
「…リリヤが言うには、ミルエが契約履行のために作った生ける水道管のようなものなのだそうだ。魔法樹が枯れれば、契約は履行されなくなる。…事実上の破棄、だ。…それと、意図されたものではないのかもしれないが、結果として夢や魔力を中継するアンテナの役割もはたしている。」
「…木は…ミルエが支配している子分てわけじゃないわけだ…。」
「むしろミルエでも制御しきれていない別個の存在なのだ。水道管を生き物にしたのが失策だったようだな。…魔法の力の源がミルエなのか魔法樹なのかは、実際の所議論が分かれているが、とにもかくにも最終中継点が魔法樹であることは間違いない。」
「…ふうん。」
春季は眉をひそめた。
…何かがひっかかっている気がしたが、よくわからないのであとで考えようと思った。
「…教団てなんの為にあるの?あんな…おそろしいものに、ついていっていいの?幸いをやるとかいわれたくらいで。」
春季がそう尋ねると、父は言った。
「春季。そんなおそろしいものを野放しにしておいていいのかね?」
「監視ってこと?…でも教団の信仰はちがうでしょう?さらに多くの幸いとやら目当てにきよく正しく美しく生きるのが信仰でしょ?」
「春季、清く正しく美しく生きても、救済を知ることは多分ない。」
「…どういうこと?」
「…救済は人間の精神のそんな浅瀬にはないという意味だ。…もっと深みにある。信仰もまた然り。」
春季は怪訝に顔をしかめた。
「…救済なんて脳内麻薬のもんだいだよ。」
「そうだな。 だが相手は麻薬なだけあって、分泌させるのはなかなか難しいんだ。」
…一理ある。
「…人間は何から救済されたいのだろう?」
父は言った。
「…不幸から。」
春季が答えた。
「…不幸とはなんだ?」
父は言った。
「…」春季は考え込んだ。「…不幸ってなんだろう。…現実そのもの?いや、夢幻の世界にも不幸はあるよね。悪夢って不幸が。」
父はうなづいた。
「それに、不幸のうちわけは人によって違うな?妻を失った夫の不幸と、舞台で台詞を忘れた役者の不幸がイコールで結べるはずもない。そうして考えて行くと、人数分の不幸の種類がある。」
春季はだまってうなづいた。
父は言った。
「…だが、それにまつわる感情はいくつかにしぼられる。恐怖・怒り・憎しみ・哀しみ・嘆き…。」
「…そう…かもね。」
「人間は本当のところ状況や現実から逃げたいわけではない。不安とかそういった気持ちの中からこそ解放されたいのではないのかね?」
「…」
「力のあるものは、おおいなる不安をもたらす。力のあるものといかにして付き合うかが、不安の濃さを大きく左右する。…だから『神』や『悪』と自分との関係を、考える。
…わたしの実家はここ日本州の片田舎にあるが、そこの『神』は、ドラゴンだ。ドラゴンは洪水を起こす。だから、洪水をおこしたりあばれたりしないように、みんなで美味しいものをそなえたり、いのったりする。…無心についていくのだけが、宗教ではない。荒ぶるものを鎮めるのも、宗教なのだよ。
…お前はさっき、救済は脳内麻薬だと言ったが…それに似たものを利用した非常に簡単な救済方法もないではない。いいかね、まず人間を、乱暴にしばりあげて冷水に漬ける。それから溺れる寸前で引き上げる。それを何度かくりかえしたのち、抱き締めて、なぐさめて、温めてやさしくし、いたわってやる。…すると、恐怖に興奮した交感神経が一気に安心して副交感神経優位の状態にひっくりかえる。それがどんな心地だか見当がつくだろう。」
「…涙が出るほどほっとする…」
「その通り。その感触、それが…想像するところの救済された…という体の状態に限り無く近い。…恐ろしいものを頭上にいただく宗教は、そういう種類の救済を心だけでは救われないタイプの人間の体に簡単に与えることができる。そうとも、救済など、脳の内部の出来事だ。だがたったそれだけのことが自分では出来ない、そういう人間もいる。すべてをまっすぐに見てしまえば、世界はあまりに危険に満ちているし、あまりに欺瞞に満ちているからね。そういう感覚にごまかしの効かないまじめな人ほど、救済のために激しい何かが必要なのだ。」
春季は軽く2~3回うなづいた。
…なんとなくわかった。つまり、教団の神様は…恐怖の神様だということだ。皆さんそれとわかってて、つきあっているということだ。好きで。
(…ハードSMだな。)
…なにやらかえって不安を感じた。
「…少しわかったみたい。」
「そうか。…私の仕事でもあるからな、いつでも話には応じるよ、春季。」
「…もう少しきいてもいい?」
「ああ。」
「…それで斎さんに魔法樹生やしたのはどういう目的?」
いきなり現実の話題になり、父は少し調整のために黙った。
そして言った。
「…むこうでも少し話したが、…夢が途切れて、立場的にまずくなっている。だからアンテナが必要だったんだ。」
「…なぜ斎さんだったの?」
「…あの娘は特殊な血の持ち主で、善くもあしくも魔法樹とつながりが深いんだ。だから、道がひらきやすい。」
「特殊な血?」
「…詳しくは私はわからん。だが神殿には、そういうかけ合わせてはならん組み合わせというのがあったらしい。『穢れた血』として、忌む習慣があったそうだ。」
「近親相姦とかそういう意味?」
「…おそらく遺伝子的なものだろうな。詳しくは私にはわからん。ただ、実際あの娘のアンテナ感度はかなり良好だった。我々の夢が途切れてからも夢を見ていたらしいし。」
…なるほど、そういう…あの人はそういう魔法にしばられているというわけだ。
春季は少し暗い気持ちになった。
そして更に尋ねた。
「…先輩のことどうする気?」
父は黙った。
しばらく沈黙が流れた。
そして父は言った。
「…彼が覗き見してしまったのは我が家の重大事項だった、というのは、もうわかるね?」
春季はうなづいた。
「…でも、たとえ先輩が『見た』といっていいふらしたとしても、誰も信じないと思う。」
「…彼は目木斎を通じてベルジュールとつながっている可能性がある。P-2での目くらましの件がパリにバレたら我々は破滅だよ。」
「ベルジュール市長がそんな夢みたいな話、信じる?」
「…あいつは、…関係者だ。」
「…なんの?」
「…ミルエの。」
「…どういう意味?」
「…おまえ、ミルエの顔は見なかったのか?」
…言われてみれば、見ていなかった。後ろからちかづいてきたのだ。
「見てないけど。」
「そうか。リリヤが言うには、同じ顔なんだそうだ。」
「…え?なんで?」
「わからない。だが、同じ顔だということは、何人もの夢見が口をそろえている。…聖地に略奪戦をしかけたというのも、怪しすぎる。」
…聖地の略奪戦というは斎の弟が死んだときの話だ。
「…顔が似てるからって…関係ないんじゃない?」
「…Pサークルの周辺にも連邦非加盟都市はいくつかある。なぜわざわざ地中海を越える必要があったんだ?」
「…」
「…あいつは聖地に呼ばれてる。それはまちがいない。…まあそれは別としても、亡くなった彼らが儀式を行なっていたとき、部屋にミルエのイコンを貼っていたらしくてね。」
「あ…市長のポスター?」
「いや、あれは市長のポスターじゃない。あくまでミルエのイコンなんだ。教団のディアムトというイコン作家が描いたものだ。美しくかけている。…そのおかげで市長が取り調べをうけてしまっていてね。市長のグルーピーの集団自殺と勘違いされたんだ。我々には好都合だったが…。向こうとしてはかなりいい迷惑だったはずだ。今も血眼で真相究明につとめている可能性が高い。」
そういえば斎もそんなようなことを言っていた。タカノさんとかいうひとが心労の末ハゲができたとかなんとか…。
「…じゃあ…先輩のこと、どうするの?」
「…お前はメンバーからはずしてやろう。」
「…殺すの?」
「…」
春季が暗い目で見上げると、父は少し考え直して言った。
「…白き炎の向う側にほとぼりがさめるまで10年ばかり幽閉するという手もなくはないな。…そうだな、それも悪くない。賢そうな子だし、本でもあずけておけば大人しくしているだろう。」
春季はその衝撃を、なんとか表に出さずに飲み込んだ。
閉じ込める?陽介を…あの炎の向う側に?
自分達家族の他には出入りのかなわないあの場所に、ひっそり閉じ込める…?
嘆きも叫びもだれにも届くことのないあの場所に…?
「…鳥のように篭に入れておけば、たまに一緒に遊ぶこともできるさ。お前のすきなときに。…向こうにいる間はあまり歳をとらないしな…そのうちおまえのほうが背も高くなり、力も強くなる。お前でもちゃんと面倒がみられるさ。ショウヤみたいに、かわいがってやればいい。きっと懐くだろう。」
春季が目をそらさずにじっと黙り込んでいると、父は少し笑い、その目線を逃れて近付くと、耳もとにひそひそと言った。
「…おまえ、あの子が好きなんだろう?」
…春季は奥歯を噛み締めて、屈辱に震えた。
そんな残酷で非人道的で…とにかく許されるべきでないおそろしい犯罪行為に、自分が誘惑され、傾いていることに腹が立った。その激烈としかいいようがない強力な引力の引き起こす目眩、…その甘美なことといったら!
春季はじっと自分の左手を見た。…今逆上してはいけない。
「…姉さんを見てくる。」
精一杯静かにそう言って、春季は居間を発った。




