17 約束
春季はあまりその後の出来事をおぼえていなかった。だから次に意識がはっきりしたとき…てっきり自分は死んでしまって、死後の世界にいるのだと思った。
薄闇といえばいいのか、薄明かりといえばいいのか…ぼんやりとした場所に立っていた。
女のすすり泣きの声が聞こえた。
声のするほうに歩いていくと、金髪の白人の女が座り込み、髪をふりみだして泣いていた。
「…どうしたんですか。」
春季が尋ねても、泣くばかりだった。
春季はしばらくその肩をみおろしていたが、やがてため息をついて、また歩きだした。
…なんとなく、以前もここにきたことがあるような気がした。
いつのまにか真っ白な砂の上を歩いていた。
誰かが古い歌をうたっている。
汗が出て来た。
足に水を感じて目をやると、足に、澄んだ水の波がときどきかかっているのだった。
…波打ち際、という場所らしかった。
勿論春季はそんな場所を歩いたことなど今までに一度も無い。けれども映画か何かでみたことはあったので、なんとなく見当はついた。…見当はついた、というのはつまり、…海の全景を見渡すことは、その明るさでは無理だったからだ。
その古い歌は、薬を作るときに歌う歌で、香草の名が恋歌の中に順にでてくる。その通りまぜてひいたり煮たりすると、何かの薬ができる…そんなようなことを誰かに聞いた気がする。
…力のある魔女の作った薬が効くのは調合が正しいからではない。力そのものが、まじないなのだ。手順を説明したにすぎないただの歌が、最強の呪文になってしまうのだ…。
誰かのそんな言葉が心に浮かんだとき、ふと周囲を見回して…春季は立ち止まった。
…根拠のない恐怖が唐突に春季を煽り立てた。
春季はからみあった木の根の上に、裸足で立っていた。
…ぞくぞくと、寒い。
(…なんだ?)
春季は更に周囲を見回す。
けれどもそこには、どこまでも絡み合う巨木の根が、視界の果てで薄闇に溶けるまで広がっているだけだ。
「まっていたよ。」
そっと囁きかけられて、春季は硬直した。
耳に聞こえたふうではなかった。
脳裏に直接割り込んでくるような、無気味な感触だった。だがそれはまぎれも無く「声」だった。…振動を、伴っていた。振動…というか、ショックを。
「…話はつきそうかい?」
またそっと尋ねられた。
…甘い声だった。柔らかい、男の声だ。脊髄が痺れるような不思議な美しい声だった。
「…なんだ、約束をわすれたのかい。まったく、これだからお前達は…」
声はそう言ってひっそりと笑った。
「…まあいい。じきに思い出すさ。…約束はまもってもらうよ。…心配するな、こちらも守る。」
不意になにか大きな気配が近付いた。炎がなめる紙のように春季は縮み上がった。
「…でもあんまり待たせると順番に『とっちゃう』からね。」
そして何かにぎゅうっと締めあげられた。…後ろから何か巨大なものに抱かれたのだと…あるいは握りしめられたか、巻き付かれたのだと…気がつき、叫び声をあげそうになった。
「…姑息な手をつかって逃れるなよ。」
息が詰まった。恐ろしかった。まったく圧倒的に、力が…否、存在の質量そのものが桁違いに違うのだということがありありとわかった。なすすべもなく、春季はただそこにいることしかできなかった。いや、ただそこにいることだけでも、十分にたいしたことだと思えた。立っているのか座っているのか、倒れているのかさえ自分でわからなかった。
…薄暗い地面にコロコロと何かが落ちて来て転がった。春季は目を閉じたかった。それができないならば手で顔を覆いたかった。けれどもどちらもできなかった。
春季の足下に転がって来たのは黒い髑髏だった。その黒い色が呪術的な『穢れ』であることが、気配でわかった。…息もできない。声など出るわけがなかった。もし出たら、自分はどんな悲鳴を上げただろう?…春季はそう思った。
「…だれだかわかるね?まったく姑息なことを…。私を騙したつもりなのか。あまりに稚拙だよ。…今度こんなことをしてごらん。今のおまえの一番大切なものを『とる』からね。あんなことをしたところで、ヤツの力など何の役にもたたないってことを教えてやろう。…何をおびえているんだ、わけのわからない愚か者じゃあるまいし。怖いのかい。」
春季はどんな返答も返すことができなかった。春季はまるで、「恐怖」という水を破裂しそうに詰め込んだ薄い革袋のようだった。体中から汗が染みでて、全身が氷のように冷たかった。
「…ああ、そうなんだね。それならわかるだろう? どんなに待っているか。同じように怖いよ…魂の奥まで凍り付くほどに…それが砕け散ってこなごなに失われてしまいそうなほどに…」
そしてまた唐突に今度は、解放された。
「…待っているよ。きみに、より多くの幸いを用意して…。待っている…。」
その言葉を最後に、気配は消え失せた。
…風が吹いた。
ふと我に返ると、春季は白い砂のまん中に立ち尽くしていた。
歯が噛み合わず、まだがくがくと震えていた。
目がよく見えない。
震える手で目を激しくこすった。しかし、ふと、眼鏡をしていないせいで見えにくいだけだと気がついた。
…なんだかそれはおかしい気がした。死んで体を残してきたならば、眼鏡などに左右されるのはなにやら妙だ。…妙、というか、変に「現実的」なのではなかろうか?
春季は自分の両手を見た。
…かろうじて、見える。
見えにくいのは暗いせいもある、と気がついた。
ますますおかしい。
手を組み合わせて、それから深呼吸した。…するとさらに奇妙なことに、少し頭がすっきりした。
(…僕には、どうやらまだ肉体がある。肉体か、あるいはそれに類したものが。なにか、生物体のエネルギーにかかわる部分が。物理的な法則に左右される何かが。…まだあるんだ。…つまり、多分、死んでいない。)
…とにかく歩こう、と思った。
そして一歩踏出した途端、…春季は落ちた。
「うわああっ!!!」
自分の声に驚いた。声が…出た!
…そのときめまぐるしく、視界に古い記憶が再現された。
黄金色の何か。土の匂い。廃屋の暗闇。
古い、古い、遠い昔に失われた、秘匿された記憶。
多分、生きて行くために邪魔だった体験の記憶。
(僕は泣きもせずにそこに一人でいた…古ぼけた廃屋に…たった一人で…)
…春季は、抗う術も無く、どこまでも、落ちた。
そして、どこかに、ふわりとたどりついた。
黒い髪の女が一人いて、そっと春季を受け止めた。
大柄な女で、春季を抱きとめた腕が、母親のように柔らかかった。
声も嗄れ果てた春季に、女は黒い切れ長の瞳でひっそりと微笑んだ。
「…かように遠いところまで、よく参ったのう。様々に辛かったであろう。」
春季はぼんやりと女を見上げた。女は春季に尋ねた。
「名はなんという?」
春季はかすれた声で応えた。
「はるき、です。」
女はうなづいた。
「…そうか。わらわはイーヴ。」
どこかで聞いた名だ、と春季はぼんやり思った。
女はまた、尋ねた。
「…『あれ』に会ったであろう?」
先ほどの圧倒的な『あれ』のことだとすぐにわかった。春季はうなづいた。
「…はい。」
すると女もまたうなづいた。
「…そなた、危ない。」
「…」
それはいわれずともわかった。
「…目をつけられておる。何故じゃろう?」
「…わかりません。」
「…お母さんは巫女さんかの?」
イーヴは春季を下ろして、座らせた。
「…はい、そうらしいです。」
「…お父さんは、血筋の戦士かの?」
「…父は…宣教師です。」
「おお、父上は、夢見であったか。」
「…はい。」
「…では多分父上のせいであろう。父上が何か勇んで約束してしまったのかもしれぬ。勇みは普通ならば男の性ゆえ。…まあ一概には言えぬがのう。…或いは母上やもしれぬ。」
春季は不審に思った。
「…それは僕をなにかの代金に差し出すといったような約束ですか?」
「いや、父上が何を約束したのかはわらわには分からぬ。じゃがおそらく…その約束の履行をそなたが為すよう要求されているのじゃろう。」
「なぜ僕が?」
「…『あれ』は目が悪い。目くらましをかけられて、父上を見失っておるのじゃな。何かそなたに見せていたのう?それが多分めくらましの呪物じゃ。半分同じ匂いのそなたがたまたま紛れ込んだものじゃから、そなたをつかまえたのであろう。」
「…目が…悪い?」
「…らしい。わらわもはっきりとはわからぬが、あれはすぐになんでも見失う。…まあ、有り難いことではあるがのう。…そなた、これを飲むがよい。すまないが水はない。とんでもなく不味いが、がまんして飲むのじゃ。」
「これはなんですか。」
「薬じゃ。」
「ああ…さっきのは、あなただったんですね。歌がきこえました。」
春季は波打ち際で聞いた古い歌を思い出した。
「ほう、よい耳をしておる。…これは普通の者が作れば風邪薬なのじゃが…わらわがつくったのでもう少しましな出来のはずじゃ。」
春季はうなづいて…彼女を信用し、その小瓶の薬を飲み干した。…確かにとてもよく知っている風邪薬の味がした。
体が温かくなった。
「…有難うございます。あたたまりました。」
「…その薬、本当に効けば、そなたをそなたの世界に戻してくれるはずじゃ。そなたがここにいるのは危険ゆえ、いそぎ作った。…まわるまでにもう少し時間がかかる。」
「…そうだったのですか。それは…ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたものか…」
「礼はよい。かわりに一つ頼まれてはくれまいか。」
春季はごく自然にうなづいた。
「はい、なんなりと。どんなことでも、きっと為します。」
「そうか。有り難い。…では頼む。わらわの娘に告げ給う。…すまぬが滅多にないチャンスゆえ、そなたの左手に書き込ませてもらう。…ああ、見えないように書くゆえ、心配はいらぬ。」
「ええ、どうぞ。忘れてはいけないですからね…。…でも、あなたの娘は、どこにいますか?」
「…帰ればそなたの魂を抱えて逃亡中じゃ。しばし放っておけば、向こうからやってくるであろう。」
「…??僕の魂、ですか?」
「…出会えば魂はそなたの体に戻るであろう。そなたは失った何かを再び得るであろう。しかしその不死性は失われるので、今後はかような場所にけっして出入りしないことじゃ。長生きしたいならのう。…親に泣きつかれても、お願いはきいてやらぬほうが、そなたのためにも向こうのためにもよいぞ。世の中には、自分と子供の区別の曖昧な親がわりとたくさんおっての、やってはいけないとわかっておって、他人には決してやらせぬのに、自分ではやるものだから、自分の子に平気で強要したりすることもあるでのう。…それはさておき、そなた帰ったら半身を失う痛みに泣くことになるであろうが…まあ助かっただけめっけものじゃ。誰がかけた保険か知らぬが、為した者は大物ぞ。敵にしたくないのう。…どうもそれを為したのは、そなたの親ではないようじゃ。残念ながらそなたはそなたの親の『いちばんのむすこ』ではないようじゃからのう。」
「子が6人もいれば自然に順位はつきますよね、人間は社会を形成してゆく動物ですから…」
「おやおや、小さいのに悟り過ぎじゃのう。」
「いちいち傷付いてたら、生きていけないでしょう…?」
「いちいち傷付いても、生きてゆける。傷付いて、立ち直るという手順を端折るのは、緊急のときだけでよい。」
「ぼくらはいつだって緊急事態ですよ。」
春季がそう言って笑うと、女は苦笑した。
「…そうじゃのう。わらわもそなたほどのときは、毎日緊急事態であったやもしれぬ。…けれども、たまには端折った部分をほどいてみることじゃ。黴びておるやもしれぬゆえ。」
女が春季の肩をぽんぽんと叩いた。すると、急に肩が軽くなった。…春季はうなづいた。
「で…それ…って、つまり、保険をかけたヒトが…?よそのヒトだという意味ですか?よそのヒトが僕の魂を僕から外してどこかに隠したのですか?今日みたいな日のために?」
「ヒトではないかもしれぬ。あと、魂は外せぬ。それと、なぜそうしていたかも断定はできぬ。…だが、まあ、だいたいはそゆことじゃ。」
春季の腕にまじないをかけながら、女は簡単にそう説明した。
「…僕は誰かの呪術の中で踊っているのですか?」
春季が尋ねると、女は笑った。
それはまばゆいような笑顔だった。
春季はびっくりして、みとれた。よく見ると、非常に美しい女だった。
「ハルキ、人間は全て、大いなる魔法のなかにある。そなただけではない。みな、すべて。それを恨んでみても、はじまらぬ。…誰かの?そうさのう、誰の魔法であろうか。大き過ぎて分からぬ。」
「…あなたも…ですか?」
ぼんやりと尋ねると、女はうなづいた。
「さよう。わらわや娘は、さらに大きく強き魔法にしばられておる。」
「…あなたは…帰らないのですか…?あなたの世界に…。あなたの娘のいる世界に…」
「…ひょっとすると、ひどく邪悪な惨たらしい魔法…それがわらわを縛る魔法ゆえ。」
春季は何故か、彼女のために泣きたい気持ちになった。すると、女は手をのばして、春季の頭を撫でた。
「しんぱいせずともよい。なるよーになる。…たいていこーゆ貧乏クジひくヤツはそれに対応できる能力のあるヤツだったりするのじゃ。適材適所じゃよ。はっはっは~。ほら、わらわもかように『あれ』の足下で元気に日々暮らしつつ反撃ねらっておるじゃろう?他のだれかにそれができようか。なかなか難しいぞえ。…おお、薬がまわってきたようじゃの。ではたのんだぞよ。」
春季はまただんだん目が見えにくくなってくるのに気がついた。時間が残り少ないことを悟って、急いで尋ねた。
「…『あれ』が僕に見せたのは黒い髑髏でした。…父が為したのは、よくない呪術ですよね?」
すると女は険しい顔になった。
「ふむ、生け贄じゃな。…インパクトは強いがのう、現世のしがらみは殺人を許すまい。…厄介事にまきこまれざるをえないであろう。」
…ものすごく常識的な返答があり、春季はまったくそのとおりだな、と納得した。
「…あと、呪術的には、しっぱいじゃ、ソレ。ドロドロしてしまったようじゃのう。鶏やるみたいにすぱーっとやらぬと。…多分為した者に返ってゆくぞ。騙し討ちにしたとか、苦しませて死なせたのとちがうかのう?気持ち良くやるか、せめてすぱーっと一撃でやらんとのう。」
「…わかりました、ありがとうございます。」
最後の礼は言葉になっていたかどうか。
春季の視界は急速に狭くなり、春季は溶けて染み込んだ。




