14 向こう側-2-
遠くの地平線に日は沈みかけのままだった。
斎がその扉をくぐると、そこは聖堂だった。
祈りの鐘が鳴り響いている。
席には一人の信者もいない。
そのがらんとした巨大な聖堂の祭壇で、誰かが儀式を行っていた。
斎が近付くと、横柄な口調で、その男は「座れ」と言った。
斎は男のすぐ後ろの席に座った。
「…あんた一番上?」
「…黙れ。」
男はそう言い、蝋燭に火をともして歩いている。
引き締まった体つきの、精悍な印象の若い祭司だ。
斎は熱心に礼拝するその男をしばらくだまって見ていた。
男が次の経文を広げ始めると、言った。
「…何をお祈りしてんの?」
「…別に何も。」
男はそう答えた。
「…ふーん。そうか。いつもそうしているのが普通だから、今もそうしているんだ?」
斎が尋ねると、男はうなづいた。
「そうだ。」
「…大変なんだね。」
斎がそう言うと、男は少し笑った。
(あ、笑うと少し一番下に似てる…)
「…そうでもないさ。いつも同じでいいから、余計なことを考えなくてすむ。…学校の制服と同じさ。」
「学校、制服だったの?」
「…神学校だから、教師も揃いだ。」
「カソリックの神学校出たのに、教団にもどったの?」
「俺が戻ってやらないと、親がかわいそうだからな。…弟たちは好き勝手やればいいさ。」
「でもあんたの人生は?」
「…小娘がよく言う。」
男はそう言って、笑った。
鐘の音が大きくなった。割れるような不協和音が響き渡る。
斎はひらりと椅子の背に飛び乗った。
斎がいなくなった場所を、ぶん、と空気を震わせて、剣が通過していった。
斎はそこから祭壇の上に飛び移った。剣が追ってくる。後ろにトンボをきって避けると、目の前を間一髪で刃物が掠めた。
「…刀があるんだろう。抜け、小娘。」
「…あんたなんぞに使うまでもないさ。」
斎は祭壇のクロスを力任せにはぎとった。祭壇の上にならんでいたものが床におちて粉々に割れた。辺りに飛び散った赤いワインが水滴のまま宙に浮かぶ。その中を切り裂いてくる剣に、斎はクロスを巻き付けた。
「…小夜がいたけど、何する気?」
「…今にわかる。」
男はそのまま剣を手放し、素手で斎の首を鷲掴みにした。
あっ、と思う間もなかった。斎は散らかった祭壇に首をおさえつけられて、なにかナタのようなものを後ろ首に叩き付けられ…斎の視界はぐるぐると床を転がった。
+++
「大丈夫か?」
と、尋ねられたような気がしたので、うん、大丈夫、と言おうと、斎は目を開けた。
「ああ、…2時間くらいは多分なんとかなるよ。」
別の誰かが答えた。
なんだ、あたしじゃなかったのか...斎はぼんやり思い、少し視線を動かした。
いい匂いがする。どうやら花にかこまれているらしい。
「…もう半年くらい様子を見て、また折をみてやりなおしたほうがよいと、私は思う。…本当に、そういった恩寵を失う、というような事実があるのであれば…確認してみないことには。…第一親父たちも黙ったままなのに、いいのか?俺たちだけで勝手に。」
低く、太い声がそう言った。誰かが儀式を止めるように、提案しているようだった。
「…で、こいつをどうするんだ?このまま返すのか?」
そう言った声は一番上のあいつだ。
「…本当のことを言ったって、どうせ誰も信じないさ。」
太い声はそう言ったが、別の少しかん高い感じの神経質そうな声が言った。
「…恩寵どうの、というのも、実際に道をひらいてみればわかることだよ。」
太い声はまた反論した。
「…道はひらいた、恩寵はなかった、では話にならんぞ。」
すると神経質な声は少し調子が荒くなった。
「じゃあ仁王兄、きくけど他になにか手があるとでもいうのかい! それに一輝兄の言う通りだよ。この女、生首で外に出す気?」
斎はおそるおそる首をうごかそうとした。
…動かない。
「…道がひらけば首が繋がるとでもいうのか。」
「…さっき一瞬道が開きかかったときの傷、何一つのこってないだろ。多分かなりのエネルギーがむこうから流れ込むんだよ。だから繋がるとおもうね。それに、切り離しても生きてるんだよこの女。気色悪い…。見ろよ。いつのまにか目があいてる。」
「…喉がないからもうしゃべらないはずだ。見るのくらい許してやれ。」
一番目がそういなした。
斎は猛然と抗議しようとしたが、口も動かなかったし、声もでなかった。
「なんかひゅーひゅー言ってやがる…。喋ろうとしてるのかよ。」
3番目が気味悪そうに口を挟んだ。
「…一輝兄が首なんかもぐから…」
「縄でくくってにげられたからな。こうでもしないとまた逃げる。…小夜にいきなり道をひらくのはまず無理だそうだから、まずはこいつである程度ひっぱっておいてからでないと…。こいつの濃い血は良きにつけ悪しきにつけ魔法樹と干渉しあう性質があるというからな。まだ逃がすわけにはいかん。…さあ、逃げないうちに始めよう。」
一輝が手をぱんぱん、と鳴らすと、兄弟は小学生のようにわらわらと定位置とおぼしき場所についた。
「小夜、こっちだ。こっちへおいで。」
一輝がそう呼ぶと、斎のいる場所の近くにドアができた。少し たつとそのドアがおそるおそる開いて、小夜が現れた。小夜は白い長い貫頭衣を着ていた。長い髪はほどいたまま、背中に垂れている。仁王が歩み寄って迎えた。
「…仁王兄さん、春季は?」
「…お母さんにしかられて、ふてくされとる。」
小夜は不安そうにしている。…斎に…正確に言うと斎の生首に、気付いていないらしい。
「小夜、こっちへきて、そこの台の上に仰向けになりなさい。」
一輝が言うと、小夜は大人しく従った。
「…兄さん…」
「大丈夫だ。すぐ済むから。…じゃあ布団かけるからな。」
斎は声を出そうとしたが、出なかった。
一輝は典礼用の白い布を、小夜にかけた。小夜の全身はすっぽりと布に覆われた。
すると兄弟はその祭壇の隣にもうひとつ同じ台を置いた。そこにはすでに「何か」が置いてあり、布がかぶせてある。
見ていると、一輝がやってきて斎の顔を覗き込んだ。そして少しニヤっとすると、斎の首を拾って、その台の端まで運んだ。布をめくると、斎の体があった。
(くそむかつくこいつら~!)
斎の頭は体にぴったり合わされて、白い布を被せられた。
それからばらばらと何かがふりかけられた。いい匂いがする。儀式用のハーブだ。
そして兄弟は何かを詠唱しはじめた。
(何語だろこれ…)
体と繋がっていないせいか、今回は斎には痛みはなかった。
だが隣の小夜は物凄い悲鳴をあげた。
…痛いのだろう。
(…小夜…)
斎は耳を塞ぎたい気分だった。けれども塞ごうにも手がうごかない。
小夜の断続的な悲鳴を聞くと、あの痛みが脳裏に蘇るような心地がした。
誰かが何かを叫ぶように唱えた途端、地面が大きく縦揺れを起こし、「どーん!」というような音が鳴り響いた。
(…来た!)
小夜の絶叫は頂点に達し…ほどなく、ぱたっと消えた。…おそらく気絶したのだろう。
微かにぱきぱきという音をたてて、斎の首に何かが触って来た。
(な…なんだ?)
そしてだんだんと痛みが伝わり始めた。
(く…首がつながりかかってる…?)
「…よし! 今回は成功だ!…効果てきめんだな。こいつ自身がアンテナみたいなものなんだ。親父の言った通りだったな。こいつを使ったのは正解だった。」
「小夜も抵抗しなかったし。」
「…凄い木だな…。これが『アンテナ』か。」
「魔法樹が無事ならこいつの中継でまた夢が訪れるはずだ。ミルエとの対話もなりたつ。それなら聞ける、何がおこったのか。」
(なるほどそういうことか…)
斎は痛みに歯をくいしばって耐えた。
(夢見がわるくなったから、中継用のアンテナを立てるのが目的だったんだ!)
(あたしや小夜はアンテナ台ってわけ?!畜生、いい迷惑だよ!)
(まさか一生ここにアンテナ立てとく気じゃないでしょうね。)
(冗談じゃない、なんとかしてここを出なくちゃ…)
「よし、じゃあ次の段階へ移ろう。」
(まだあるのか?!)
斎はあまりの痛みに脂汗を垂らしながら、一輝の声に耳をすました。
「この木を中にしまうんだ。このままじゃどこへも連れていけないからな。さ、やるぞ。…美治、ハーブは?」
「ああ、ここに。」
再びハーブの香りがたった。
(し…しまう?!…そりゃヤバいかもしんない…)
「…小夜、もう少しだからな。がんばれよ。」
小夜にだけ一輝はそう声をかけた。
再びハーブがばらばらと降り注ぐ。
そのときだった。
ひああー…ん、というような、細いけれどもはっきりとした音が響いた。
兄弟は手をとめた。
斎も耳をすました。
もう一度音がたった。
それからキャアアと女の悲鳴が聞こえた。どうやらリリヤの声のようだった。兄弟はざわついた。
「リリヤ?!リリヤになにか…!」
「私が見てくる。」
一輝がなにか(多分ハーブの入ったかご)を斎の顔のそばに置き、走って行く。
犬の鳴き声が遠くでした。
「…親父の声だ。」
仁王が言った。…兄弟には人間の声に聞こえているらしい。
残った3人の弟たちは明らかに動揺しているようだった。
…チャンスだ、と斎は思った。
痛みをこらえて手を動かしてみる。…大丈夫、今度は動いた。首も動く。
ただ、体の上に木が生えているので、起き上がるのは無理だった。
(…上等。)
斎はすうっと息を吸った。
「うわっ!」
突然美治の声がして、集中をかきみだされた。
「どうしたんだよ美治兄。」
「足下!」
「わっ、どうしたんだこれ! 溶けて来てる!」
「…リリヤが揺らいでいるんだ。だから空間が保てなくなりつつあるんだ。」
仁王が言った。
(なんだって)
(じゃあ)
(ここってリリヤが支えてる場なのか。)
(…ってーことは…)
(…と、とにかく急ごう。)
斎がもう一度集中しようとしているところへ、だんだんと女の悲鳴が近付いてくる。
(こ、こっちくるなよ! くそっ!)
(気が散って…)
「リリヤ!」
夜思のかん高い叫びが響いた。
「うわ!」
「リリヤ!」
仁王が走ってゆく。
(なんなんだ、くそ、布団めくってくれよ!見えねえ!)
「うわーっ!!」
仁王が大声を上げてふっとばされ、壁に激突する鈍い音がした。
「仁王ーっ!」
リリヤが叫ぶ。
するとその叫びをかき消すように、ぐううう、と低い唸りのようなものが響き、辺りの空気をびりびりとふるわせた。
ワンワン!と猟犬がそれに吠えついている。するとそれはもういど低く長く唸って空気を震わせた。
(こ…これは…なんだ、リリヤの心象の暴走なのか??)
斎は痛みに歯ぎしりしつつも首をかしげた。
(リリヤのささえてる世界…ということは、リリヤの支配力が一番強いわけで…えーと、それを凌駕する怪獣が暴れているということは…)
そこまで考えたところで突風に襲われた。
風が斎と小夜にかけられた布を巻き上げた。
(しめた!)
斎が素早く目をやると、そこには…
(げええっ!なんだこりゃ! でかい!スフィンクス?!グリフォン?!)
口に生魚のようにリリアをくわえ、先端が蛇の頭になっている長い尻尾で一輝を巻取っている。巨大なたてがみのある…強いて似たものを挙げるならライオンだろうか、ライオンを巨大化させたような白い動物…が息を吸い込んだ姿があった。
(…吸った?てことは…)
次の瞬間怪物は物凄い炎をぶわーっと吐き出した。
「うわああああ!!」
「ぎゃあああ!!」
「バカヤロー!!!」
斎はバカヤローと言ったが、腹の上にわだかまっていたクロスが燃え上がるのを見て(これは…)と思った。
(使えるかも!)
その騒ぎに小夜が目を覚ました。そして腹の上に斎とならんで木を生やしている自分に呆然となった。
炎がおさまったところで犬が思いきり、その怪物の首に食い付いた。自分の体の何倍もある相手だったがまったく物怖じしていない。
「きゃあああっ!火がーっ!!火がーっ!!たすけてえーっ!!!」
我に返ったらしい小夜が自分の体の上でクロスが燃えているのをみつけたらしく、金切り声で叫んだ。壁の近くでその声をききつけた仁王がよろよろと起き上がった。
「お父さん!仁王兄さん!たすけてーっ!!」
小夜は声の限りに叫び続ける。仁王はよろよろと歩いてきたが、真直ぐすすめていない。
…また風が吹いた。怪物は犬を首にぶら下げたまま、ものともしない。
(ええと、風だ、風の呪文!なんだっけ!風!風!)
斎は一心不乱に考えた。思い出せない。体が焼けただれて痛い。
「…このはこずえまきあげたり…」
「たすけてーっ!!」
「このはこずえまきあげたりみどりのはやて天へ!」
斎が呪文に念をかけると急に風向きが変わり、みるみる吸い上げるように上へ上へと風が上がり始めた。
「やった!」
腹の上の炎があっというまに上の木へ広まる。
小夜の悲鳴が恐怖に掠れた。
「助けてーっ!!春季ーっ!!」
怪物が再びごうっと炎を吐くが、その炎も風に煽られて上へ上へとのびてゆく。
「早くもえちまえ!」
斎が叫ぶとさらに火勢が増した。
怪物は焼けこげたリリヤをぬかるむ床に捨て、片手をぶんと降って、首の犬を払いのけた。それからずぶずぶとぬかりながら、小夜と斎のほうへ歩いてくる。斎は木をゆさぶってみたが、まだびくともしない。動けなかった。
(きたよ…どうする?挨拶でもするか。)
床に落とされた犬が必死でリリヤに近付いて、助け起こそうとしている。
怪物は泣叫ぶ小夜を覗き込み、それから前足を振り上げた。
(わっ!)
斎は思わず片目をつぶったが、怪物の手は思いきり小夜に生えている大木の幹を掻いていた。
(…?)
「いーっ!痛い!!」
小夜は悲鳴をあげた。涙がどーっと出ている。かなりひびいたらしい。
けれども怪物は容赦なくそれをくり返した。その鋭い爪は巨大な木片を造り出し、あたりにまき散らした。
「いたいーっ!!たすけてー! 仁王兄さん!」
(こ…これひょっとして…)
斎はゴクリと固唾をのみ、多分間違いないと思って、びっくりした。
(そ…そうだったのか…。)
斎の木のほうは生木の割に火の回りが早く、やがてぼとぼとと燃えた枝が落ち始め、上から少しずつ崩れ始めていた。
(もうちょっとだ。)
(早く燃えろ)
(早く)
ようやっと小夜のそばに仁王がたどりついた。
「仁王ーっ!」
一輝が仁王を呼んだ。振り返った仁王に、一輝は怪物の尻尾に巻かれたまま、何か棒のようなものを投げた。仁王はそれを受け取った。
「仁王! 小夜の頭の上にたてて!」
焼けてぼろぼろになったリリヤが、犬にすがって起き上がりながら叫んだ。
仁王は一瞬顔を歪めたが、リリヤの言った通りにした。
するとリリヤが…ふわりと宙を飛んでやって来た。
そしてまず木を掻きむしる怪物に手をかざして唱えた。
「黒き土赤き岩砕き耕せり光の矢結べ!」
リリヤの声に答えるように轟音がたって、怪物に雷が落ちた。流石に、怪物は、ぐらりと揺らいで重い音とともに倒れた。斎は思わず目をつぶった。
(うわっ!なんてことを…!)
次にリリヤはそばにあったハーブを掻き集めて小夜に投げ付けた。ハーブは音を立てて小夜をバラバラと打った。
小夜は泣いている。
「あきら! 封じ込めの凶歌を!」
リリヤが言うと、あきらは聞き取りにくい言語でできている長い呪文を詠唱した。…斎には犬の遠ぼえのように聞こえた。
斎は急いで木についている火を煽った。上からばらばら落ちてくるものはますます多くなり、木はだんだんと軽くなった。
(いそいでくれ!)
斎が急いでいる隣で…歌の終わりとともに、小夜の苦痛が終わっていた。
…木が消えている。火も。テーブルの上に仰向けになって小夜は呆然としたまま、涙に濡れている。体は火傷と血にまみれている。
「さあ、つぎはこっちよ。燃え尽きる前に入れてしまいましょう! 仁王、ここへ。」
(ダメか!)
斎が覚悟を決めたときに、唐突に視界が暗くなった。
(なんだ?!)
「わあアアッ!」
「きゃああっ!!」
リリアも仁王もなぎ払われた。…例の怪物がゆら~っと斎を覗き込む。
「サンキュ! やっちまってくれ!」
斎が言うと、怪物は燃えている木にさらに思いきり炎をふきつけた。それから思いきり前足で木を殴りつけた。
めりっ、と言って木のもえさしが傾いた。
「いっっってええええ!でももう1発!」
怪物がもう一度思いきりなぎ払うと、木のもえさしは粉々になってふきとんだ。
「やった!」
斎は飛び起きた。大丈夫、首もつながっているし、腹に穴もあいていない。…ただ続いた痛みのせいでふらふらだったが。
「よし!いくぞ!」
怪物に声をかけると、斎はそのたてがみを掴んで首の後ろにのっかった。
「走れ!どっちでもいい!どこでもいいから走れ!」
「待て!逃がさんぞ!…リリヤ!」
あきらが制しようとして叫んだ。リリヤが早口で呪文を唱えると、斎たちの前の地面がボコっとめくれ上がった。
「わっ!」
斎は転がり落ちた。怪物は軽くそれを飛び越えて、向こう側へ行ってしまった。
「小夜!起きて!」
リリヤが小夜の腕をつかんであきらのほうへ引きずっていった。
「あきら!使って!」
リリヤに言われたあきらは小夜を受け取って、その手を掴んだ。
(やばい!来る!)
あきらがまた遠ぼえを始めると、斎は床に叩き付けられた。
「ぐわっ!」
まるで岩石が次々にのっかってくるかのように重量がかかり、まったく身動きできない。
「リリヤ!あの怪物、なんなんだ!」
夜思が声が裏返るほどの勢いで叫んだ。
「わからないわ。」
リリヤがわからない、というと、兄弟が一斉にうろたえるのが見て取れた。リリヤは一瞬顔を歪めたが、次の瞬間毅然として言い放った。
「…なんであろうと、我々を邪魔しようとしているのですよ!排除しなければ始まりません!…怯んではいけません!」
すると兄弟たちはぐっとふみとどまった。リリヤは言った。
「…ぐずぐずしてはいられませんよ。あきらが斎を押さえているうちに一輝を助けなくては…!」
するとそれが聞こえたかのように、怪物は尻尾を振って一輝を地面に叩き付けた。一輝の食いしばった歯の隙間から血が伝った。
「おやめっ!!」
リリヤは悲鳴のような制止の声を発した。そして美治をふりかえると責めるような口調で言った。
「何しているのですか?!動けるのはお前だけですよ!兄さんを見殺しにする気ですか?!」
こんな限界状況下だったが、美治は一瞬不服そうな顔をした。斎はそれを見のがさなかった。
「…親父をやって小夜を掴みな! そうしたら脱出できる! 大丈夫! 3番目はあんたの味方だっ!!」
ぐっしゃりつぶされそうな胸の最後の隙間で斎が怪物に言うと、怪物は今度はくるっと後ろをむくようにして、一輝を巻いたままの長い尻尾をめくれ上がった境界を越えてあきらに叩き付けた。
「だあああっ!」「ぐはあっ!!」
そして一輝を放して空いた尻尾で、小夜をくるりと巻取った。小夜とあきらの手が離れると、斎の体は急に軽くなった。
斎が跳ね起きるのを見て、美治は慌てたらしかった。
「…冗談じゃねえ。」
床のめくれ上がったところをよじ登って乗り越えようとする斎に、美治はあわてて駆け寄ると、服の裾を掴んで斎を引っぱった。
「待て!」
「バーロー待つかよ! おまえも木生やされてみやがれ!」
「誰が味方だふざけるな!」
斎は美治を蹴りつける代わりに、突然ぱっとふりかえって首を近付け、ひそひそと何事か美治に囁いた。
それを聞いた美治は思わず手を緩めた。
「…なんだって?!」
斎はそれには答えずに、めくれた床を素早くよじのぼった。
「何してるの美治!」
リリヤが鋭く叫んだ。美治ははっとして斎の足首をぐいっとつかんだ。斎は今度は美治の顔を思いきりけとばした。
「うわっ!」
「ぐずぐずしてはいけません美治!」
美治はまだ斎の足を放していなかった。蹴られてカッとなったのか、思いきり引っぱった。
斎は舌打ちした。片手でしがみついたまま、素早く懐から剣を抜いた。
「ひっ…」
ひらりと光るなにかを見て美治は思わず手を放した。その手が一瞬前まであった場所に、少しの躊躇もなく、澄んだ日本刀の刃が突き刺さった。…どかっ、と重い音がした。
「…な…刃物?!」
斎は答えずに刀を引き抜き、逆手に握って美治に斬り付けた。
「くそっ!」
後ろに飛び退く美治の少し茶色がかった前髪が切れてはらはらと落ちた。美治はぞっとした。
斎はその隙に一気にめくれた床の山を乗り越えた。
「おいで!」
白い毛むくじゃらの怪物に声をかけると、それは小夜を尻尾に巻いたまま、斎のあとをついていった。




