13 向こう側-1-
春季はしばらくすーっと下に落ちて行った。
それは恐怖感のある急速な落下ではなく、物理法則を無視した加速のない運動だった。
速くもなかったが、遅くもなかった。
少し風のある日にのった自転車…そんな感覚だった。ただし、方向は下向きだったが。
落ちて行く自分を感じる時間がしばらく過ぎたあと、春季はすとん、とどこかに降り立った。
あたりは暗く、そして静かだった。
生暖かい。
少し何か匂うような気がした。…古い家の玄関に入ったような…そういう匂いだ。
それが「森」の「小屋」の匂いだと、春季は唐突に気がついた。
春季はまだヨーロッパにすんでいたころ…ショウヤを拾う以前のことだが、「神隠し」にあったことがある。そのとき、春季はドームを遥かに離れた山奥の廃屋で発見された。春季自身は小さすぎてそのときのことをよく覚えていないのだが、家族…とくに母や、母とべったりの長男にとって、それが大変な事件であったらしいことは薄々知っている。不思議なことに父はそれほど気にかけてはいなかった。「ミルエによばれたのだろう、よくあることさ」と、いつもそう言って2人をなだめ…そして春季に話を合わせるように目配せする…。
(こんなところに小屋が…なんでだろう。)
春季はそう思い、少しの間、闇のなかでその匂いを感じていた。
ふと、話声がするのに気がついた。
そちらに注意を向けると、話声は急に大きくなった。声のほうに向かって、春季は歩き始めた。
(お母さんの声だ…)
父の自慢話をして、誰かに痛烈に皮肉られている。春季は苦笑した。
(まったくお母さんてば…ラブラブなんだから…)
すぐに春季は薄明るい場所に出た。
そこは石だたみの広場だった。昔住んでいた家の近くにあった集会所だ。
(…)
話が、戦争の話にかわっていた。誰かが、母に喋っているらしい。
…弟、の話をしている。
一向に話している人物の姿は見えない。
そこまできて、春季はふと、服の下に隠した刀のことを思い出した。
(…ここに、おいていこう。)
春季は刀を出して、広場の片隅に隠した。
…弟、は、戦闘で死んだらしかった。
(…仲よかったんだな。…可哀想…。)
(…姉さんは僕が死んだら、悲しいかな…。)
…きっと、悲しくないかもしれない。なんとなくそんな気がした。
いつの間にか話声は止んで、あたりは再び静かになった。
春季は広場をぬけて、昔住んでいた家のほうに歩いて行った。
しかし道筋は合っているはずなのに、家にたどりつくことはできなかった。
(…ここは…似てるけど…似てるだけで、同じじゃないんだな…)
やがて春季は教会にたどりついた。
自分が住んでいた教団の教会ではない。古いカトリックの大聖堂だった。
(…うわあすごいな…こういうのって建てるのに150年とかかかるって何かで読んだっけ…)
戸を開けて中に入ると、突然祈りの鐘が鳴りはじめた。
(くう…なんて音だ…)
その凄まじい音量に、春季は思わず耳を覆った。それでも鐘は春季の体を揺さぶるほどの勢いで鳴り続けた。
(…く…苦しい…出よう。)
春季はそのまま入って来た戸口に向かった。
そしてドアを出た。
しかし出た場所は、入って来た場所とは違う場所だった。
(…ヤバい…刀を…とりにいけなくなったかも…)
春季はそう思ったが、くよくよしていても始まらない。とにかく周囲を見回した。
そこは大きなむき出しの岩盤の上だった。ふりかえると、戸は消えている。
(…くそ。)
春季はクサって歩きだした。
少し進むと、足下に穴が開いていた。
よく見ると階段がついている。
春季は階段を降りた。
中は真っ暗だったが、足下に迷うことはなく、春季はすたすたと進んだ。
「ほめよ たたえよ」 「ききたまえ このよろこびのこえ ちかいのこえ なげきのこえ」
壁にそう書いてある。
春季はどこか地下の部屋にたどりついた。
「あなたは どこにいますか」
正面の壁にそう大きく炭でなぐり書きがしてある。
部屋はわりに広く、なぐり書きのすぐ手前に祭壇のようなものがあって、蝋燭がともっていた。
蝋燭のまえには生臭い供え物がつみあげられている。…ちまみれの、頭のない小動物。
(お供物だ…久しぶりに見たな…)
春季が小さかったころ、教団はこうした…殺した動物などを供物として使っていたが、そのせいで信者が増えないという現実的な問題の前に屈し、今ではこれをやっていない。今は果物が中心だ。美治までの兄たちは、小さいころこの「供物」を扱わされていて、…とくに神経の細い美治は、今でも肉料理を出されるのが苦手だ。とくに骨つきは駄目らしい。小夜はそれを見て怒る。作ってる私が、まるで酷い人みたい!…と。
(…僕はなんかこういうの見ると食べなきゃ勿体無いとかおもっちゃうけどね。)
春季は近付いて、冷たい供物を無造作に掴み、ひっくり返した。
(…僕もいつか死ぬよ…。あたたかかったお前達みたいに…。だから許さなくていい。)
(許させるなんて…とんでもなく酷いことだよね。)
(神様とやらが、この子たちを供えるに値する方であることを祈るね。誰かが言うようにたとえまがい物でも…そこに救済があるのなら…)
(価値があればこの子たちを殺すことに正当性が生まれるという意味じゃないけど)
(せかいは命の炎を奪い合うことで回るなら)
(残酷な残酷な残酷な死は正しさや価値を超えて)
(絶対の)
(それだけは歴然と絶対化したゼロ地点…)
散らばってゆく思考の中、ぼんやりと手についた血を眺める。
そしてもう一度壁を見る。
「あなたは どこにいますか」
春季はそっと供物をもとに戻し…そのごわごわに逆立った固い毛皮を撫でた。
ここは、どうやら古い神殿の跡らしい。斎場なのだろう。
きいたことがある。「島」には古い神殿があって、そこには昔別の神がまつられていたが、ある聖人が訪れてミルエの福音について教え、それ以来、「島」はミルエに帰依したと…。
「ようこそ、春季。」
突然話し掛けられ、春季はびっくりして振り向いた。
「…お父さん。」
そこには父が立っていた。
…髪が長い。背中までのびている。
「…髪…」
春季は言いかけて、やめた。
なぜかわからないが、父は本当はそうなのだ、という気がしたからだ。
「…聞いたか、あの話。」
父は言った。
「…戦争で弟が死んだって話?」
「…わたしが恩寵を失ったという話だよ。」
「…」
春季は多分、普段なら父を気づかう言葉を出すか…それでなければ黙っていただろう。
だがまるでそのとき、春季のそうした…そうした表面的な、「そうするべきだからそうしている」という部分がまるで無視されたかのように、まったく思ってもいなかった反応を春季は返してしまった。
「…よかったじゃん。ふつーの人になれるよ。」
そのとき、ぴしりと音がして、眼鏡がくだけた。
小夜と揃いで買った高いフレームも、根元まで粉々だった。
視界がブれた。
父の顔にの焦点があわない。胡乱に…ちらちらとして見えた。
春季は不思議と、眼鏡のことについてはあまり驚かなかった。目はすぐ慣れるたろう。看板だの黒板だのを見なくてすむならもうけたと言ってもいいくらいだ。たいして不自由などない。
そんなことよりむしろ、父にいきなり本当の気持ちを言ってしまったことに動揺していた。
だが父は笑った。…そして言った。
「…そうかもしれんな。…でも普通の人になってどうする?春季。ピザの宅配でもしてお前の学費をかせごうか?」
父はそう言うと、春季に近付いてきて、春季の顔を撫でた。
…父は多分春季の顔が見えないのだな、と春季は直感的に悟った。それで、大人しく顔をさわらせた。
「…学費とかは…まあ、僕もバイトするよ。男6人もいるんだし。みんなでやれば食べていけるんじゃない?」
「おまえは面倒をみられるほうだからそれでいいかもしれないが、兄さんたちはなんと言うかな?」
「…いやなら出てけば?」
「全員でていくかもしれんぞ?」
「…ああそう。邪魔だもんね、僕。」
「…そんなことはないさ。ただ働くといやなことがたくさんあって…なんだって俺がこんな思いして誰かを食わせなきゃいけないんだ、と思うこともあるのさ。」
「そうだろうね。好きな女は食わせても弟食わすのなんかごめんだよねえ。セックス一つできないもんね!」
春季はそう言ってげらげら笑った。
父は春季の顔から手を離した。
「…いい気なもんだ。」
「…ほかにどうしろってのさ。じゃまだから死ねばいいのかい。」
「そんなことを話しているんじゃない。」
「ああ、そうだろうね。あんたは自分の悲しみを話して、僕を悲しませてるだけさ。僕がめそめそ泣けば癒されるんだろ?」
春季はつぎつぎに口からそんな言葉が出て行くのを、呆然として聞いていた。なにがおこっているのか、自分でもよくわからなかった。
(変だ。…なんでこんなことを…うまく…いつもうまくやってきたのに…なんで急に?)
「そうして言うのさ。大丈夫だよ可愛い春季!お父さんがなんとかするさ!…くたばれよ。」
「ああ。」父は嘆くような声を出した。「まったくだ、リリヤ。こんな供物をささげなくてよかった。やっぱり男の子は駄目だな、美しいのは毛皮ばかりで…そうとも、これなら肉屋の豚のほうが余程きれいだ。」
「なぐったり抱き締めたりしたいだけなら、枕でも相手にしてよ。」
春季は思いきり冷たく自分の口がそう喋るのをただ聞くしかなかった。
「…僕は生きてる人間だ。あんたたちの感情の塵捨て場じゃないよ。」
「…お前もしょせん腐った水のつまった器物にすぎん。」
「ぼくの水がくさってるとしたら、それはあんたたちの塵をひきうけすぎたせいだよ。…二度とアイシテルなんて言うな。あんたたちの愛のしるしは平手打ちと吐瀉物と…生ゴミだ。くさらないわけないだろ。」
春季はそう言って、またげらげら笑った。
(この笑い方…目木さんと先輩が…)
ぼんやり自覚したが、笑いはとまらなかった。
(せんぱい…人間が狂っていくのって…簡単なのかな、ひょっして…。)
そのとき床を突き破って足もとから何本もの槍が春季に突き刺さった。
「わああっ!!!」
「静かにおし! お前はこんなときに! どうしてわからないの! どうして!」
声は母のものだった。
視界は真っ赤になっていた。不思議と痛みはなかった。ただ体を幾通りにも突き刺した槍の、やけた鉄のような熱さと、ひどく「ヤバい」かんじ…。
(これ…死んでるよ、僕…多分)
体が動かない。父には…見えていないようすだった。
春季は何本もの槍に突き刺されて、天井近くまで持ち上げられていた。足はぶらりと垂れ下がって…地面についていない。
(…こ…怖い…)
(怖いよ…せんぱい…)
(…こわいよ…)
喉に何かつまって苦しい。力なく春季が咳き込むと、ごぼごぼ血がでてきた。
+++
斎は縄をほどいて歩き出した。
(さて…多分ここは白き炎の向こう側…。ここばっかりは来たことないからなあ。とりあえず地図かくつもりでちゃんと見て行こう。てゆーか実体つきでこんなとこ歩くなんてヤナ感じだなあ。)
斎は闇の中をすたすた進んだ。飛ぼうと思えば飛べるはずだが、歩くほうが落ち着く。
(ああ…生臭い。やだなあ。何の匂いだろう。)
顔をしかめたちょうどそのとき、突然目の前でカーテンがさあっとひらいた。
(うわ!まぶしい!)
目を慣らすためにしばしばと瞬きをした。
(なんだよ!)
ようやく細く目をあけると、そこは「女の子の部屋」だった。
(あ…かわいい箪笥…それにベッド…)
ベッドには小夜が捨てられた娼婦のように倒れていた。
(小夜に見えるけれど…小夜だろうか。)
斎は頭を掻いた。
「さよー、さよー」
とりあえず小声で呼んでみた。
「うー…ん。」
「さよー、あたし。目木だよ~。」
斎がそう言うと、小夜は薄く目を開いた。
「あ…目木ちゃん?」
「うん。おひさーv」
斎はにっこりして手を振った。
小夜は目をこすりながら起き上がり、眼鏡を探したが、なかったらしく、途中であきらめた。
眼鏡のない小夜は、どきっとするほど艶かしかった。
「…あれ、おかしいなあ、あたし…?ここ、どこ?」
「…急に小夜がいなくなったって、弟チャンがさがしてたよ。」
「あ…春季?…そうよ。鍵をかけにまわってたの。」
「うん。」
「そしたらお母さんが、おいでって。…」
そこまで言って、小夜はハッとして口をつぐんだ。
「…じゃ…夢?ううん、夢じゃない…?ここ…どこ?…目木ちゃん…」
「…何が夢だって?」
「…あたし…ママに殺された…」
小夜はそう言った。
斎は黙って小夜を見た。
小夜は涙を流して言った。
「…ママがあたしをたき火につっこんだの。とても熱かった…。顔が焼けて…。腫れて…痛くて…。」
「…」
斎は眉をひそめた。
リリヤはどうするつもりで小夜をつれてきたのだろう?
小夜は泣きながら自分の顔に触っている。
「…顔は大丈夫みたいだよ、小夜。」
「…え、本当?」
「まだ痛い?」
「ううん、でも、とても痛かったの。」
「うん…。でももう大丈夫みたいだよ。」
「…よかった。」
小夜ははなをすすった。
「うふふ、目木ちゃんこういうところで会うの、2回目だね。」
「え?そう?」
小夜は子供のように嬉しそうにうなづいた。
「うん! 前に学校でわたしが保健室で休んでいたとき、来たでしょう?天井からさかさまにぶらさがっていたのを、わたしずーっと見てた。一時間くらい。そのときわたし死ぬのかなっていったら、目木ちゃんは大丈夫だよって言った。」
斎の記憶にはなかった。…だが逆さにぶら下がっていることはよくあるらしい。まえに別の知人からも言われたことがある。
「…そうだっけ。」
「そうだよ。」
「…でも小夜、…今回はちょっと危ないかもしれない。油断しないでね。いつまでも嘆いたり笑ったりしていないで、じっと回りをよく見てね。そして本当のことを否定しないでね。…わたしもう行かなくちゃ。」
そのとき窓の外で凄い雷が鳴り響き、立ち木にあたってばりばりと木が割れた。
「…なんか、悲鳴がした。」
小夜は不安そうに言った。
「…あたし、見に行く。」
斎が言うと、おびえたように、小夜は言った。
「…やめなよ、目木ちゃん。きっとよくない…それ。」
斎は少し苦笑した。
静かに窓をあけると、ふわりと飛び下りた。
+++
斎の足がついた場所は広場だった。
「?なんだろ。」
石畳の片隅に、何かきらりとひかって見えた。
近付くと、石畳の隙間に、黒い漆塗りの鞘が見えた。
「あ…これ、陽介の部屋のトコノマにかざってあるのの短いほうじゃない!」
斎はびっくりして、その短い刀を拾い上げた。…ずっしりと重い。実物だ。
「…陽介…。」
斎はすこし殊勝な顔になり、その重みをじっと感じた。
「…借りるね。…できれば長い方がよかったなんて、死ぬまで言ったりしない。」
斎はジーンズのベルトを少し緩めて、刀をベルトのわきに挟んだ。…そういえば服も陽介のお古だ。
斎は広場を横切って、外へ向かった。
広場を出ると、荒野だった。
遠くに巨大な環状列石が見えた。
(ソールズベリーの遺跡みたいだ…)
斎はそれを目指して歩き出した。
遠く見えたが、歩いてみるとすぐだった。
…生臭い。
(やだなー、なんかありそう。)
斎はぞわぞわしながら石の間をすり抜けた。
「!」
石に囲まれた丸い広場のまん中に、巨大な硝子の破片が刺さっていた。それは斎の背丈より高く、形は細長い。よく見るとただの硝子ではなく、鏡であったもののなれのはてらしかった。そしてそのてっぺんに、血まみれの人間がボロ布のようにひっかかっていた。
(ヤバい!これは死んでるかも…生きてても、こんな目にあったら、もう正気になれないかもしれない!)
斎は硝子に手をかざして「音」を読んだ。…陽介に聞いたのだが、この、斎たちが「音」と呼ぶものは、「こゆうしんどうすう」というのだそうだ。
(あ…まだ生きてる。…いそがなくちゃ。)
斎はあっという間に「音」を計算すると、その聞こえない「音」を喉の奥の方で鳴らした。
すると鏡は細かくふるえ始め…数秒後にこなごなにくだけた。
ささっていた人間は「とさっ」と軽い音をたてて、地面に落ちた。
「…ビトウくん!」
斎は駆け寄って、助け起こした。
春季は大きな目を見開いたまま、ぼんやりとして…ただ、血に濡れていた。
「…ビトウくん…どうして来たのさ。馬鹿だなあ。」
斎は血で貼り付いた春季の髪を、頬からはがして整えた。
春季は…身動き一つしなかった。
「…ダメか…」
諦めようとしたとき、春季が口を動かした。
「…目木さん…」
「ビトウくん!」
斎は慌てて顔をちかづけた。
「…汚れますよ。」
「…陽介の服だけど、まあ、仕方ないさ。」
するとこわばった顔で、春季はむりやり笑った。
「…親父とけんかしちゃって…」
「…ああ、お父さんにやられたの?」
「…いや、やったのは母です。」
「…仲、いいんだね、御両親。」
「…ええ。親戚とかいないし。あの人たちにとっては、家族がすべてだから…」
けほっ、けほっ、と春季は力なく咳き込んだ。口からごぼごぼ血が出た。
斎は春季を地面に寝かせ、横にかたむけて、口の血を地面に出せるようにした。春季は血を吐いて…しばらくして静かになり、また喋りだした。
「…痛くないんですよ。不思議だな。」
「…うん。」
「…母を皮肉ってたの、目木さんだったんですね。」
「…聞こえてたんだ。」
「…弟さん、…死んじゃって…お気の毒です…。」
「…。」
「…目木さん…あまり気にしちゃいけません。…僕もじき死にますよ。…死なんて…だれにでもいつか来るんだから。」
「…そうだね。」
「…白い火の向こうに、こんな世界があるなんて…僕はしりませんでした。…母の怒号は…いつも恐ろしいと感じていたけれど…こんな…八つ裂きにされてるなんて…気がついてませんでした…おそろしいはずですよね…。
…広場…に、先輩からあずかった、刀、隠してあります。持って…ここを出てください。ここは…本当に怖いところです…あなたがいるのは危険すぎる。」
「!あれあんたが持って来てくれたの?」
「ああ…みつかったんですね…よかった…大事なものです。けっして…なくさないでください…先輩…に宜しく言ってください。」
春季はそこまで言うと、目を閉じた。
斎は春季のこめかみにそっと触れて、言った。
「…そのまま、じっと目を閉じて、動いちゃいけない。…もしかしたら助かるかもしれないから、…いい?じっとしているんだよ。なにがあっても。」
「…動こうにも…もうどこも動かないですから。」
「…正気みたいだから、なんとかなるかもしれない。あんたは勇気があるよ。…本当の勇気ってやつがね。…とりあえず、血をとめる。体が保てば助かるよ。ここは、心とか内側が優位の世界だけれど、実体も伴ってる以上、物理法則は無視されない。」
「…心が優位…ああ、そうなんだ…だからあんなふうに…僕は…父に…ひどいことを言ってしまった…。…なのに、不思議ですね。あなた相手には…あっちの現実よりずっと上手くやってるじゃないか…」
「…きっとあたしの弟が、馬鹿姉をまた助けてくれたんだよ。…さあ、少し黙って。」
斎はそう言って、手から力を注いだ。
春季の体を繭のようなものが包みはじめた。
薄赤い繭だった。




