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今宵こそは本当のお夜伽のつもりで

 龍之介はもう蔦江に乳をもらっていた。

「おはようございます。龍之介様はぐっすりとお休みでした。今朝は早くから、ぱっちりとお目が開き、ご機嫌も麗しいようでございます」


 いつものように、にこにこした蔦江が言った。普段の綾ならば、蔦江からそうしたことを報告されることも嫌だったが、今朝は素直に喜ぶことができた。綾も笑顔を向ける。


「そう、よかった。蔦江どの、もう少し龍之介様をお願いいたします。わたくしは奥の者に髪を結ってもらいます」


 簡単に自分で結ったが、今朝はきちんとやってもらいたかった。奥向きの女中の中に上手なものがいるのだ。

 蔦江は、綾の柔かな態度にちょっと驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの笑顔になった。

「はい、わかりました。ごゆっくりどうぞ。あ、そうそう。今日は呉服屋が布地を持ってくるそうでございますよ」

「そう、では後ほど一緒に見に参りましょうか」

 自然に出てきた言葉だった。

「はい、ぜひご一緒に」

 蔦江もにこやかにそう答えた。


 よく寝たこともある。自分が今までどれだけイライラしていたかがよくわかった。

 それに皆は、昨晩、綾が若様のご寵愛を受けたと思っている。

 余所者だった綾が、やっと今、桐野に仕える者となったと考えたのだろう。おかげで綾を取り巻く世界が変わっていた。皆が仲間として受け入れてくれたような気がした。


 鷹丸が、ここの若様だったということがわかってよかった。龍之介のことを自分の子供のようにかわいがる兄の正重だった。それだけでも龍之介の扱いはぞんざいにはされないだろうと考えていた。




 その三日後、再び綾は白波から、お夜伽の知らせを受ける。

 今の綾は、正重が鷹丸だとわかっている。そして、今度こそはたぶん、鷹丸のものになるのだと覚悟もしていた。

 前回と同じように支度をして、中奥にある正重の御寝所へ行く。今度はかすかな希望と期待感があった。


 白波と同じ侍女がついてきた。

 白波は、今度こそはうまくコトが進むかどうか、気がかりなのだろう。

「よいな、若様のご機嫌を損ねるでないぞ・・・・・」

と、前回と同じことを口にした。


 綾はご寝所で座って正重を待っていた。

 もしかすると、また眠るだけなのかもしれない。それでもよかった。正重の側にいられるだけでうれしかったのだ。

 前回も遅かったが、今宵もすっぽかされた(どたキャン)かと思うほどなかなか正重は現れなかった。


 半時ほど待っただろうか。

「待たせてしまった。済まぬ」

と、駆け込むようにして鷹丸がご寝所へ入ってきた。

 あわてて平伏する。

「綾、そなたの顔を見せてくれ」


 そう言われて、そっと顔を上げると屈託のない正重の笑顔があった。本当にたまにでもいいから、この笑顔が見られるだけで幸せだと思う。

 正重は布団の上に胡坐をかき、綾も同じ布団の上に座るように促された。


「最近、西洋の油絵に凝っていて、さっきまで描いていたのだ。これがおもしろくてのう」


 正重の顔が生き生きしている。

 剣術も子供も、絵を描くことも好きだという。ずっと満月の夜の庭を描いていたそうだ。


「いかんな。絵のことになると、つい夢中で話してしまった。退屈だろう」

「いえ、わたくしは正重様がうれしそうに語っている姿が好きでございます」

 正重は意外そうに目を丸くして見る。

 言ってからはっとした。

「申し訳ございませぬ。馴れ馴れしいことを申しました」


「綾、謝らなくてもよい。好きと言われて悪く思う者はいない。それとも撤回するか?」

 屈託なく笑った。

「いえ」

 少し顔を赤らめてしまった。


「綾」

 正重の表情と声が変わった。

 少し真剣味を帯びている。

「龍之介はどうだ」

「はい、日に日に大きくなっております。だいぶ重くなり、表情も豊かになりました。かわいい盛りにございます」

 その綾の言葉に満足げにうなづく。


「そなたはどうじゃ。今宵は疲れてはおらぬか?」

「はい、わたくしもおかげさまで充分に休ませていただいております」

 正重はその答えにも満足げに目を細める。


 少し、間があった。


「今宵は、抱かぬと叱られるのでな」

と、正重が声を落として意味ありげに、白波たちのいる控えの間の反対側のふすまをみる。

 そちらの方に、正重の側近、新太郎と久四郎が待機しているのだろう。


「あの、初めての夜伽の翌日、新太郎が、なぜ綾を抱かなかったのか、と詰め寄ってきた。あの穏やかな大人な男が、目を吊り上げてわしに食ってかかってきた」

 今宵も新太郎が控えの間にいる。聞いているだろうにと綾はひやひやした。


「別に新太郎に叱られてもどうもないが、参ったのは家老たちでな。中にはわしが衆道しゅどうだと思っておったものもいて、わしがおなごを寝所に呼んだと聞いて、涙を流さんばかりに大喜びをしたということ」

「若様・・・・」


 衆道とは、男色。つまり、ゲイのことだ。正重があまりにも女性に手を出さないために、そう思われていた。そういえば白波もそうこぼしていた。他の家ではその時の気分で、簡単に女中たちを手籠めにする若様もいるのにと。



 また正重は悪戯っぽい目をしている。

「それに、シンが・・・・・・」

「はい、シン様が?」

 新太郎がどうしたのだろう。


「綾がわしに興味を持っているというのだ。きっと抱かれたかったはずだと申してのう。それを、一方的に呼び出して、期待をさせて、さっさと寝てしまったとは何事ぞ、とな」

「えっ、そのようなこと・・・・」

 綾は真っ赤になっていた。


「若っ」

と控えの間から声がした。

 新太郎の声だ。ばらし過ぎだという注意らしい。鷹丸が首をすくめる真似をした。

「だいぶ怒っているようだ。この辺にしておくか」

と笑った。


「そなたがわしを正重とは知らずにいたので、期待をしていたというのはどうかと思うが」

 何も言えずにいる。

 確かにあの時、拍子抜けした。

 それはたぶん、新太郎は綾が鷹丸のことが好きだと知っていたからだろう。鷹丸が正重だとわかり、うれしかった。それは認める。


「今宵はそなたを抱きたいと思っておるが、よろしいか?」

と、正重は綾をじっと見て言った。


 そんなことをお夜伽として呼んだおなごに聞くなんて、本当に変わっている若様だと思う。

 しかし、鷹丸の問いは、綾が呼ばれたからではなく、正重のことをどう思っているかという問いであった。


「わたくしは・・・・・・」

 綾も正重をじっと見てから言う。

「初めてお会いした時からお慕しておりました」


「あの毛虫のときからか?」

と笑う。

「そうかもしれませぬ」

 綾も顔をほころばせた。


「わしもだ。あの時からそなたのことが頭から離れぬ」

 それを聞いて、綾は今までの何倍も幸せな気分になれた。好いた御仁から、好いていると言われたことがこんなに心が温かくなるのかと思った。


「もしもわたくしが気が向かないと申しましたら・・・・・いかがなされましたか?」

 少し意地悪なことを聞く。


 正重は綾を抱き寄せた。綾もされるがままになり、腕の中へ入っていった。あの満月の夜と同じ香のにおい。落ち着く香りだった。その暖かい胸に安堵感を覚えた。


「綾が嫌だと言ったら、またこのまま寝ていただろう。そして綾がうんと言うまで、何度もここへ呼ぶと思う。わしは無理強いは好まぬ故、諦めて、承知してくれるまで」


 身分の高い武士は、皆早くから女性の経験があるという。

 正重はそういう感じには見えないが、年齢的に、早くから周りの者たちがお膳立てをしていたと考える。

 一応、綾も理子の輿入れのとき、奥方の侍女として殿さまの目に触れる役職だったため、そういう場合の知識は多少なりとも叩き込まれていた。



 決して逆らわず、決して声を上げず。殿さま以外、楽しんではいけない、そう教えられていた。


 ぎゅっと抱きしめられる。

 もうすでに何回か抱きすくめられていた綾だが、今夜は特別だった。

 正重の夜着から、じかに暖かい体温が伝わってくる。そして胸の鼓動も聞こえた。


 枕もとの行燈の灯を消した。真っ暗になる。

「これでは綾の顔が見えぬのう」

と正重が残念そうに言う。

「わたくしは正重様のお顔を存じております故・・・・・・」

「改めて見る必要なし・・・・・か」

 くすくす笑われた。


 正重が覆いかぶさってきて、くちびるを吸われた。

 しっとりとしたその感触が心地よい。それが好きあった者同士の愛情の表現だ。

 正重は初めてである綾に合わせて、ゆっくりとその愛撫を繰り返していた。


 その夜が更け、二人は結ばれていた。


 正重の腕の中で、綾が眠りに陥るとき、正重が独り言のようにつぶやいた。


「まだわしが元服したばかりの頃、若い女中に手をつけて、泣かれたのだ。それで目が覚めた。それからは絶対にそういう抱き方をしないと思った。心の通わぬ行為はただの暴力だと思ってな」


 綾は、その女中の痛みもわかる。しかし、それ以上に正重の受けた傷の深さを知る。

 人を傷つけたと悟ると、自分の心も傷つく。その傷をずっと抱えていたのだ。この正重の笑みの奥底にはそんな悲しみもあったのだ。

 そっと半身を起こして、正重の裸の胸に口づけをした。


「鷹丸様の心中しんちゅう、お察し致します。その女中も傷つきましたが、もうタカ様もそれ以上に傷つき、反省もいたしました。もうそのお心を苦しめないでくださいませ」

 正重が綾の背に腕を回した。


「そうか、そうだな」


 二人は身を寄せ合いながら、静かな眠りに入っていった。



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