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好きになった御仁とそして無情なる夜伽の宣告へ

夜伽とは?

女性が、男性と共寝して夜の相手をすること。


 満月の下で鷹丸と会った翌日から、龍之介の抱っこは、乳母の蔦江と菊にもさせることにした。

 龍之介はもう重くて、長い間、腕の中におさめておくことができなくなっていた。すでに綾の左腕は肩から痺れていてずんと重い。今で言えば、腱鞘炎を患っていた。


 細身だが、体のしっかりしている孝子も少しなら龍之介を抱くことができた。そして寝かしているその側で、わらべ歌を歌う時もある。とても楽しそうだった。

 信頼されているという笑顔だった。鷹丸の言う通りだ。


 龍之介も人の顔をみて、喉を鳴らすようにけらけらと笑う。昨日までそんな表情をしなかったのにと思う。 本当に赤子は成長が早い。昨日できなかったことが今日はできる。これならばたぶん今夜は寝てくれるだろう。



 その日の午後、龍之介が昼寝をしていた。孝子に見ているよう頼んで、そっと寝所から出た綾に、他の奥女中が言付けを持ってきた。

 すぐに、白波のところへ来るようにと。初日に顔を合わせたくらいで、滅多に顔をあわせない人だった。


 白波は、温厚な笑みを見せていた。龍之介の成長の様子と綾の体調などを訊ねられた。おざなりの挨拶だった。わざわざ、そんなことを綾に訊くために、呼ばれたのではないことはわかっていた。

 平伏している綾に告げる。


「綾、今日、これからの龍之介様のお世話は乳母の蔦江に任せるようにな」

「は?」


 無礼ながらも素っ頓狂な声を上げてしまった。

 なぜ急に白波がそんな事を言うのかわからなかった。


「綾には今から支度をしてもらわねばならぬ故。それに今宵は奥向きには戻れぬので、そのつもりで」


「支度? 何の支度でございますか。なぜ、今宵はここへ戻れぬのですか。わたくしは一体どこへ参るのでしょう。わたくしは龍之介様の世話役でございます。その務めを差し置いてもやらなくてはならないこととはなんでございましょう」


 心の中の疑問をすべてそのままぶつけていた。もしかすると、なにか粗相があり、綾から龍之介を取りあげて放りだされるのかもしれないと考えた。

 そんなことさせない。たとえ、綾がお役御免となっても、絶対に龍之介を他人の手に渡さない、と力が入った時、白波は言った。


「ここの若様じゃ。正重様が今宵、綾をと仰せられた」


 若様? 


 綾の思考が止っていた。一体、若様がどうしたというのだろう。そのお方が、綾になんの係わりがあるというのか。


 若様とは・・・・・。このお屋敷の中奥におられるという正重様だった。桐野家の嫡男、跡取り。いずれは甲斐大泉藩主となられるお方。龍之介の兄だ。その正重様が綾を? 何のために。

 咄嗟には何のことなのか理解できなかった。

 きょとんとしていると、白波が、コホンと喉を整えて言った。


「今宵、綾は正重様のお夜伽を命じられたのじゃ」


 はっとした。青くなっていたと思う。目の前がサーと暗くなった気がした。夜伽を命じられた。

 夜伽、若様の夜の相手をすることだ。


 なぜ綾が、どうして綾が、どうやって若様が綾を選んだのだろう。龍之介についてきた新参者に興味を示したのだろうか。それだけのことで、綾を抱こうというのか。

 落胆した。力が抜けていた。


「綾、これは嫌とは言えぬこと、わかっておろうな」

 綾の様子を見て、白波は念を押した。

「はい、承知しております」

 力なく、そういう他なかった。逆らうことはできなかった。


 加藤家でも似たようなことがあった。

 理子が懐妊しているとき、理子の夫、明隆が側室を望んでいた。奥向きで一体誰が選ばれるのかと心ない噂が飛び交った。その明隆が選んだのは、華やかで女らしい侍女だった。

 綾は理子の心情を思うと不憫でならなかった。気丈にしていたが、今まで自分の侍女として仕えていた女だった。それよりも綾は、自分が選ばれなくてよかったと安堵した。


 白波のところを出て、自分の部屋へ戻る。しばらくの間、綾は放心したように座っていた。何も考えられなかった。

 孝子が来たが、目も合わせられない綾に怯んでいる様子。

 菊がきた。綾の支度を手伝うように言われたのだろう。


「嬉しくは・・・・・ないご様子」

 菊は綾の表情からそう言った。

「どなたかお好きな御仁がおられるのですね」


 その言葉に、パッと浮かんだ顔があった。それは許婚だった高次ではない。昨夜、綾の涙に抱きしめてくれた鷹丸の顔だった。あんなことがなかったら、今夜の夜伽にこれほど心が揺らぐことはなかったかもしれない。


 ここ、奥向きでは殿さまのお手付きで出世することを望んでいる侍女も少なくはないのだ。ましてや、若様ならば、この先、側室になれる可能性もあるだろう。他の侍女ならそれを出世と考え、喜んでいたに違いなかった。


 綾はもう鷹丸に会うまいと決めていた。まともに顔が見られないと思う。

 綾の男勝りの気性を笑って、それが綾の個性だと言ってくれた人。

 そして、龍之介を見る優しい顔。いつのまにか、綾は鷹丸のことを好きになっていたのだ。

 綾はやっと訪れた春のような恋心を、歯を食いしばるようにして追い払わなければならなかった。


 そしてその夜のこと。


 丁寧に湯あみをし、支度を整える。夜用の抑えた化粧もする。

 菊が丁寧に髪を梳いてくれた。それでも綾の心は重い。


 正重の特別なご寝所は中奥にあった。その控えの間で白波は綾に言う。


「よいな。決して若様のご機嫌を損ねるでないぞ。うまくいって気にいられたら、この先、側室にむかえられるかもしれぬからな」


 綾がそれを望んでいればの話だ。

 しかし、白波はそんなことに気づかない。そうなることがおなごの幸せと考えているようだった。


「他家の若様は、手当り次第に女中に手を付ける困りものもおるそうじゃが、うちの若様は手を付けなさ過ぎて困っておったのじゃ。今回のことは皆、喜んでおるのでな」




 綾はもう覚悟をしていた。何も考えず、身を任せることにした。しかし、心配していることがあった。

 この先、もし側室になったら、龍之介の養育をさせてもらえるのかどうかを。


 ここの嫡男、正重と龍之介は、一応、年の離れた兄弟になるが、今まで一度も赤子の顔を見に来たことはなかった。養子との関係、確かに血のつながりはないが、冷たい兄という印象だった。

 もっとも正重はとっくに元服して、十歳以上になると奥向きには足を踏み込まないしきたりなので、無理はなかったのだが。まだ、どんな人なのかわからないが、綾の頭の中では、自分勝手な冷たい若様という印象が強くなっていた。


 白波ともう一人の侍女がそのまま控えの間に留まる。

 武家通しのきちんと婚礼をした正室と違って、側室は誰でもなれたので、控えの間で何事もおこらぬように二人が寝静まるまで聞き耳を立てることになる。

 それにここは中奥なので、恐らく、若様の側近も別の控えの間に待機しているはずだった。


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