赤子の夜泣きと満月の夜
その晩、龍之介は昼間の興奮が残っていたのだろう。眠いのに眠れない様子でぐずっていた。深夜になっても泣いている。
この奥向きには、藩主の側室がいるだけだが、それでも赤子の声は深夜には響いた。
蔦江も起きてくる。
「やはり、眠れませぬか」
昼間寝かし過ぎたからだ、ほうら見ろと言っているように聞こえる。
「このままだと皆を起こしてしまいますな。どれ、わたくしが」
と蔦江は泣いている赤子を抱こうとした。
「いえ、わたくしが外へ連れだします」
と、言っていた。
「外へですか?」
「さよう、外であやしてまいります」
綾は龍之介に寒くないようにおくるみを着せ、中庭に出た。
曇っていて月は見えないが、慣れた中庭だった。暗くても歩き回れる。
龍之介はしばらくぐずっていたが、綾の歩き回る振動が心地よかったのか、やがて寝てくれた。安堵した。
翌日。
その日の昼は、龍之介はかなり眠たそうにしていた。寝不足がたたったのだろう。これではまた、夕べの二の舞になると思い、昨日の稽古場へ行くことにした。
子供たちの声が聞こえる。龍之介は綾の腕の中で寝たり、起きたりを繰り返していた。
赤子を連れてきた綾の姿を見て、また子供たちが集まってきた。
「昨日は泣いていたのに、今日はなぜ寝ておられるのですか」とか「昨日も寝ておった」という子もいる。それぞれ思ったことを口にする子供たちに、思わず綾の顔がゆるむ。
子供たちの気配から、綾が来ているとわかったのだろう。稽古場から新太郎が出てきた。
綾は無意識に鷹丸の姿を探していた。新太郎の後から、あの笑顔を向けて出てくるのではないかと期待していた。それがわかったのだろう。苦笑しながらシンに言われる。
「タカさまはおりませぬ。今日は久四郎と上屋敷へ出かけておられます」
心の中が見透かされていた。顔を引き締める。
「いえ、わたくしは別にタカ様に会いに来たのではございませぬ」
というが、新太郎の穏やかな笑みは変わらない。
「夕刻には戻られます故、なにか言付けでもございましたらお伝えします」
「いえ、本当にわたくしは龍之介様をあやしに、ここへ足を向けたまでのこと」
少しムキになってそう言った。
そう、綾自身も鷹丸に会いに来たわけではないと自分に言い聞かせていた。しかし、いないとわかって心のどこかで落胆していた。つい、大きなため息をついてしまった。
「綾殿?」
新太郎が綾をじっと見る。
「なにか・・・・・」
鷹丸もはっきりとした顔立ちの美青年だが、この新太郎もきれいな役者のような顔をしていた。近くでじっと見られると、年頃の綾としては気恥ずかしく、胸が騒いだ。
「寝ておりませぬか? 赤子が? ずいぶんとお疲れのご様子」
そんなに疲れが顔に出ているのかと思う。新太郎にはかなわない。
「はい、実は夕べ夜泣きをされまして、外に出ておりました」
「乳母は? 他の侍女たちは何をしているのですっ」
涼しげな目がきりっと上がり、この温厚そうな男にしては相反して怒っている様子だった。
「いえ、わたくしが無理に外へ連れ出したのです。わたくしが世話をする立場ですので・・・・・」
龍之介の世話を他の人に任せたくないのだ。皆まで言わずに後の言葉を飲み込む。
「そのようなたわけたことを。そんなことをしていては綾殿の身が持ちませぬ」
「わたくしは大丈夫です。そのためにここへ参った身ですので」
自分で言って、自分の心がわかった。
赤子についてきた取るに足らない侍女が、他所の武家屋敷でのうのうとしていると言われたくなかったのだ。
余所者扱いはあからさまにされてはいないが、奥向きではまだ受け入れられていないと感じている。そのようなところでじっと座ってはいられなかった。自分の体を酷使してでも余計なことを考える間をつくりたくなかったのだ。
新太郎はまだ、なにか言いたそうだったが、子供たちが稽古場から顔を出して新太郎のことを呼んでいた。鷹丸も久四郎もいないから、新太郎が稽古をつけなければならないのだろう。
お忙しいのにと、綾は頭を下げる。
「ありがとう存じます。わたくしは本当に大丈夫ですから」
新太郎もぺこりと頭を下げ、仕方なさそうに稽古場へ戻っていった。もし、まだ綾がそこに留まっていたら、もう少し厳しく諭されていただろう。
綾はむずかる龍之介を抱いて奥向きへ戻った。
これ以上いろいろ説教をされても綾の頑な心は変わらない。強情な綾だった。
しかし、龍之介はその夜もむずかり、きちんと寝なかった。寝てもすぐに起き、眠くて泣くのだ。
夜泣きも二日目となると、側室の部屋から苦情がきた。
夕べは我慢してくれたのだろうが、二日連続での夜泣きは周りもたまらなかった。
中庭に出ただけなら屋敷内に聞こえる。部屋が近すぎた。
外を見ると、今夜は満月で明るい。これなら明かりなしで、中奥の庭、稽古場の方へ歩いて行かれると思った。
歩きながら、ぐずる龍之介を見ると綾も泣きたい気分になった。どうしていいかわからない。なぜ、龍之介は寝てくれないのか。泣かせている綾はなんと無力なのだろうか。どんどん弱気になり、こんな自分では世話役など務まらないのではないかと思えてくる。
躑躅の中を歩いて稽古場へ向かう。
すると、途中で誰かがクックッと笑う声がした。
「何者ぞ」
と、綾は龍之介を頭から庇い、身構える。
声のする方を見た。
屋敷内なので、なにも持たずに出てきてしまった。せめて護身用の刀くらい身に着けておくべきだったと思う。
「また泣かせているのですか」
近くの大きな松の枝の上に誰かがいた。その人物は慣れた様子で敏捷に飛び降りた。ざっという音がして、綾のすぐそばに着地した。
鷹丸だった。
「どうしてここに?」
綾が驚いて言うと、鷹丸も抗議するように言い返す。
「いや、それはこちらの言うこと。わしは満月が好きで、このように美しい月夜にはいつもここにきて眺めている」
綾が勝手に自分の領域に入ってきたと言わんばかりだった。
ぐずっている龍之介を覗く。そして綾の顔も見た。
すぐに鷹丸は龍之介を抱っこしてくれた。
「お二人とも同じ心境のようだ」
と笑う。
綾もそれは否定できなかった。
それに、日に日に重くなる赤子が綾の腕にも限界をきたしている。
それでも他の人には龍之介を抱かせたくなかった。しかし、鷹丸が抱くと不思議な安心感があった。
「夜泣きで綾殿も眠れぬと聞いたが」
「あ・・・・・・」
新太郎から聞いたのだろう。まさか、綾が鷹丸に会いに来たなどと言ってはいないだろうかと思いながら赤面した。
「少し歩こうか。その方が龍之介様も眠れるであろう」
「はい」
本当に明るい月夜だった。夕べのように雲もない。
「綾殿の母御、父後は息災か?」
「はい、国許で元気にしております。もう長いこと顔を見てはおりませぬが」
「なるほどのう、で、そなたはいくつじゃ」
遠慮のない物の言い方だった。しかし、悪い気はしない。聞いてこられれば、こちらも同じことが聞くことができるからだ。
「十八でございます」
と、はにかんでいった。
「そうか、それならわしと同じだ。だが、おなごならばもういろいろと縁談の話も舞い込んできただろうて」
綾の顔が曇る。心が乱れた。ここへ来るあの夜を思いだしていた。
鷹丸はそんな綾を見逃さない。
「好いた御仁がおられたようだな。そして・・・・ここへ来ることになり、話がなくなった・・・・そうなのか?」
吉野高次、理子の実弟だった。綾とも幼馴染のようなもので、今は理子の夫、藩主の明隆の側近をしている。
一つ上の高次との縁談の話があったのは、理子の懐妊がわかった直後だった。
なぜ、このようなせわしない時期にそんな話をするのか疑問だった。
だが、高次は祝言はまだ先でいいから、許嫁となってほしいとだけ言った。今までそんなことを言う人ではなかったが、この時は些か強引だった。そうかといって、綾には心に決めた人もいるはずもない。理子も弟と連れ添ってくれたらどんなにいいかと口にすることもあった。理子に勧められたら、綾は断らない。それも運命の流れなのだと思い、高次の申し出を承知していた。
だが突如、綾が赤子の他家へ行くことになり、あの夜、駕籠が屋敷内を出る直前に、高次がものすごい剣幕でやってきた。拙者を裏切るのかと罵倒されたのだ。
あの時のことを思い出すと胸が痛んだ。しかし、もう終わったことだった。もう二度と高次の顔は見ないだろう。
自分でも感心するくらい落ち着いた声で話していた。
「許婚がおりました。でも、わたくしたちは幼馴染で、ずっと兄と妹のように接してきたのです。お屋敷を出るときにその関係も終わりました」
「そうか、大変だった。つらかったであろう」
心なしか、鷹丸の月を見上げる表情が明るくなったような気がする。
「桐野へくることになったのは、急だったと聞いたが」
綾はうなづいた。
「龍之介様がお生まれになり、すぐにこちらにお連れすることになっておりました。でも奥方さまが一人で見知らぬところへやるのが不憫だと涙されたのです。それでつい、わたくしが一緒に行くといい、こういうことになった次第でございます」
鷹丸は目を丸くしていた。
「咄嗟的にそう判断し、ここに参ったと申すか」
「はい、わずかな迷いはありましたが。後悔しようにも後戻りできず、ただ、今となっては前に開かれた道を進むだけでございます」
鷹丸は豪快に笑った。
「相変わらず面白いお方だ。真っ直ぐだし、周りを見ずに突っ走る。すぐに頭に血が上るし」
「まっ」
綾が自覚している短所ばかりを上げていた。




