龍之介を取り巻く環境
赤子のみの約束だったのにもかかわらず、桐野家では侍女が世話役としてついてきたことも別に問題にもされず、あっさりと受け入れられた。
今の綾には、世話役の菊と孝子がそばにいてくれる。
菊はもともとこの中屋敷にいる藩主の側室の侍女だった。側室には他にも侍女がいて、特に用事もないので、綾につくようにと白波に言われた。年は綾より四つ上の二十二歳だ。
割とさっぱりした性格で、女特有の噂話をしなければ人の悪口も言わない。必要なければ何も言わない人だ。これは気楽でいい。
そして、孝子はまだ十三歳で、甲斐大泉の国許家老の娘だった。行儀見習いとしてこの江戸屋敷に来ていた。少し不思議な娘で、きょとんとした目で人を見る。
龍之介の居間の静寂が破れた。
乳母の蔦江が入ってきたのだ。
「あらまあ、まだお休みになっておられるのですかぁ」
大きな声を出す。寝ている龍之介がピクリと反射のしぐさをする。
「しーっ、静かになさいませ。いつも言いますが、そなたは声が大きい」
と叱りつける。
しかし、蔦江は全く気にしない。にこにこして綾の反対側に座り、赤子の顔をながめた。
「もう胸が張ってしまいまして、痛くてかないませぬ。早く少しでも吸っていただかないことには・・・・」
そう言いながら、胸を脇から揉むようなしぐさをする。
そのような下品なしぐさがハナにつく。綾は思わず目をそむけた。
蔦江は、一介の旗本の妻で三十歳、四人の子持ちである。四人目がふた月前に生まれていた。その子は貰い乳で育てているそうだ。
蔦江は乳母として、龍之介のために乳が必要な一年の約束で桐野へ来ていた。
しかし、子育てに慣れ過ぎているせいか、何事も大雑把でいい加減にみえる。自分の子ならそれでいいのかもしれないが、時々我慢できなくなる扱いをしていた。龍之介は理子から預かった大事な赤子だった。
さっき会った鷹丸のように、泣くことも赤子の務めだ、などと言ってはいられない。
まだまだ気を張っている綾には、赤子を泣かし続けることは罪、そのものだった。
いつだったか、龍之介が泣き止まず、おろおろしている綾をみて、蔦江は笑いとばした。
「今からそんなじゃ、お悪(いたずらのこと)をする年になったらどうなさいます? 目くじらを立てっぱなしで龍之介様も息が詰まってしまわれますぞ」
綾はそう言われてから、この蔦江が苦手になった。大らかで明るいと思われた性格も、がさつで下品と見るようになった。自分の都合で人を見ると、こうも印象が変わるものなのかと思う。
蔦江が、龍之介をひょいと抱いて自分の胸をだし、その小さな口に押し付けた。同じおなごの身の綾でも、その露わになった白い肌が眩しく映る。胸の痛みが我慢できなくなったらしい。恥じらいもなく、さらけだしていた。
「何をするのじゃ、まだ寝ておられるのだぞ」
と、きつく言うが、蔦江はどこ吹く風で取り合わない。
「大丈夫です。もう起きて乳を飲む時でございます。あまり昼に寝てしまわれても夜、眠れなくなります故」
龍之介もまだ寝ているようでも、目を閉じたまま口を動かし、乳を吸っていた。
綾の負けだった。乳母という立場でも、子育て経験者ということでも向こうが数段、勝っていた。悔しいが、未経験の綾にはどうすることもできなかった。
一人でイライラしている自分がバカらしくなり、そっとその場を離れた。
龍之介の居間の前の廊下に出る。そこには中庭が広がっていた。中央には大きい池があり、大きな鯉が泳いでいる。
綾は廊下に立って、なんとなく池を眺めていた。
中奥の学問所で起こったことを思い出す。
投げられた毛虫の塊から体を張ってかばってくれた鷹丸。人を穏やかな目で見る新太郎。そして生真面目そうな久四郎。
いつも奥向きと時々この中庭をうろつくだけの世界しかなかった綾が、初めて足を向けたところに新たなる出会いがあった。
特に鷹丸のことを考えると、なぜか胸が熱くなった。綾をからかうが、その言葉の端には真実をつくものがある。鋭い御仁だと思う。
あのわずかな時であったのにもかかわらず、鷹丸の存在が綾の心の中に広がっていた。
ふと気づくと、傍らに孝子がいた。嬉しそうに綾を見ていた。
「どうしたの? 孝子殿、何かいいことがあったのでしょうか」
つい綾も笑顔になった。
「いえ、綾様が今日はいつもよりずっとうれしそうなので」
「わたくしが?」
さっき蔦江のことでイライラしていたが、廊下でぼんやりと若い侍たちのことを考えているとそんなことは忘れていた。それよりも心が弾んでいた。
きっといつもの綾ならば、蔦江と口喧嘩くらいしていたかもしれなかった。最近の綾はかなり苛立っていたから。もうずっと寝不足が続いていた。
龍之介の世話で、通常ならば乳母や他の侍女に任せることまで綾がしていた。夜中のおしめ(オムツ)の交換まですべて自分がやらなければ気がすまないのだ。
その疲れがこのひと月の間に出ているのだろう。とても孝子に笑いかける余裕などなかったかもしれない。
孝子は十三歳、一通りの手習いなどは済ませていた。裁縫も菊に習っている。他にもこの奥向きには多才な人材がたくさんいた。
特に江戸に住む一般的な娘たちは武家奉公に来る前に、一通り習ってから入る。
呉服仕立てや祐筆、踊り、小唄、さらに髪結いまでを得意とする奥女中たちがそろっていた。
綾は、今度の散歩にはこの孝子を連れていこうかと考えた。まだ子供のようなものだし、江戸屋敷の侍の子供たちに触れることで気もまぎれるかもしれない。
ふと綾は、独り言をいうように孝子に話しかけていた。別に返事を求めているわけでもなかった。ただ、聞いてもらいたかった。
「わたくしは、余裕がないのであろうか。いつもイライラしているような気がする。龍之介様にも悪い影響を与えてしまうのか」
孝子は綾を見ていた。しかし、綾はたまに空中をみる。そこに何かがあるように。何かを探るかのように。
「お疲れになっているからでございます。だから、そのようなことを申されるのです。龍之介様がもう少し大きくなられましたら、すべてが落ち着くかと思われますゆえ、綾様もわたくしたちにいろいろ申し付けください」
本当に不思議な子だった。確信をつく答えをする。以前にも同じようなことがあった。
初めて菊に会ったときだった。
菊は余計な事を言わない。そういう性分だとわかっていれば問題はなかったが、それが新しい武家屋敷に来てまもない綾には自分が試されている、冷ややかに監視されているような錯覚に陥った。しかし、孝子が綾の不安な心を察し、案じて言った。
孝子に言わせると、菊の中には青緑のまるで深い湖のような静けさがあるだけだと言った。
孝子にとっても菊は会ったばかりの侍女のはずだった。
そうだ、あの時、孝子は具体的に色で表現していた。
「もしや、そなた、人の光が見えるのか?」
そういうことを聞いたことがあった。調子のいい時と悪い時では人から出る光が変わると。そしてその光を見ることのできる人がいるということも。
孝子は、その綾の言葉に顔を曇らせ、目をそらした。図星だったのか。
「気味が悪うございますか?」
絞りだすような声で尋ねてきた。
「なぜ?」
「みんな、そう申されるからです。お婆様はわたくしを化け物を見るようにして嫌っておいででした」
ズキっと胸が痛んだ。
そのようなことを身内に言われて、この少女は心を痛めていたのだ。この江戸屋敷にくることになったのもそのあたりの事情が関係していそうだった。
「わたくしにもわかりますぞ」
というと、孝子は目を丸くする。
まさかと言っているようだった。
「わたくしは光は見えぬが、こうして人の顔を見ていればうれしいやら悲しいやらがわかります。孝子殿はそれが少しだけ鮮明に見えるだけのこと」
「綾様」
孝子は嬉しそうに笑顔を向けてきた。晴れやかな笑顔だった。たぶん、色で言えば橙(オレンジ)色。




