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綾の心情

 体が熱かった。それなのに汗が出てこない。

 一郎も友子も心配そうにしている。容体が思わしくないのだろう。体も怠く、力が入らない。起きるとくらくらするのだ。しかし、雪江の顔を見ると、生きなければと思う。


 人はなんと欲張りな生き物なのだろうか。腹が痛かった時は、この子さえ無事に生まれればいいと思った。しかし、無事に生まれた今は、この子と一緒に生きたいと思うようになった。この子のそばにいて笑ったり、泣いたら抱きしめてあげたいと思う。


 ここに連れられてきたときは本当に驚いた。

 夜のはずなのに、部屋には昼間のような眩い明かりがついて、皆、奇妙な頭に見たこともない着物を着ていた。言葉遣いも町人のような蓮っ葉な物言いをする。しかし、それとも少し違うと気づいていた。


 最初に近づいてきた男は医者には見えなかった。散切り頭で、妙なものを着ていて近づいてきた。この身をどうにかされるのかと恐怖を覚えた。

 しかし、友子を見て安堵した。友子の存在はなぜか懐かしい感じがして、この人なら大丈夫だという眼差しを感じていた。母のような安心感があった。


 それからの陣痛は凄まじかった。

 普通は少しづつ痛くなるものだが、それが一度にやってきて、まるで腹の子を一気に押し出すかのようだった。まだ、刀傷のほうがましだ。その苦痛の声を出さずにいることも辛抱がいる。けれど、絶対に見苦しい真似は見せなくはなかった。綾の腹にいる子は桐野正重のお子なのだから。


 友子は赤子を取り出すと言った。

 その意味がよくわからなかったが、無事に産ませてくれるのだとわかった。だから、友子にだけは気を許し、されるがままになっていた。

 その途中から記憶がなかった。ストンと切られたかのように抜け落ちている。


 綾が目覚めてみると、腹に子はいなかった。手で探り、そこに傷があることがわかった。少しでも動くと痛んだ。

 信じられないことだが、その友子の言葉通り、本当に腹を切って赤子を取り出したのだ。


 最初、そばにいない赤子のことを心配したが、それでも心を落ち着かせていられたのは、友子が綾のところで寝ていたからだった。綾を心配して、ずっとついてくれていたとわかった。


 雪江はかわいかった。面差しが正重に似ていた。それが嬉しかった。しかし、その反面、正重がここにいないことに、いや、正重の元に綾たちがいないことが悲しかった。

 正重がこの雪江を見たら、どんなに喜ぶだろう。たぶん、一日中眺めているか、ずっと抱いていることだろう。あの子供好きな正重だ。


 雪江と名前を決めていた。あの時、正重がつけてくれたから、迷わず雪江と呼ぶことができた。もし、男児だったら、正重の幼名、鷹丸と付けるつもりでいた。正重は何も言わなかったが、たぶん、そういうつもりだったと思う。正重は鷹丸と呼ばれることを好んでいたからだった。


 龍之介もかわいかったが、我が子というものは格別かもしれない。

 あの時の理子の乱心がわかるような気がした。我が身のことよりもこの子を一番に考える、何よりも先にその身を案じるという存在ができた。だからこそ、我が子を悲しませたくなく、自分も一緒に生きたいと思う。母がいないことでこの子が悲しむことが何よりもつらい。




 この診療所は至れり尽くせりだった。綾は今まで自分がいた時代とは全く別のところへ迷い込んできたことをわかっていた。聞きたいこともたくさんあったが、敢えて聞かない。友子も時々そんな目をしていた。しかし、いろいろと聞いてくることはなかった。ありがたいと思う。余計なことを口にしない優しさを持っていた。


 まだ傷も痛く、歩くこともつらいが、御不浄トイレには行かなくてはならない。

 一度友子に使い方を教えてもらったら、何不自由なく使えるようになった。手すりが廊下やあちこちについているし、便座に腰掛けるのはらくだった。水で洗い流せるのもきれいで快適だ。

 それに、どの部屋にも突起がついていて、それを押すだけで明かりが灯るこの便利さに驚いた。これでは夜でも、昼間と同じように何でもできるから、寝る暇がなくなるだろう。人はいつしか眠ることを忘れてしまうのかもしれないと思う。


 その御不浄で会った留美を見たときは、正直言って心底驚いた。男か女かもわからず、遠い島から流されてきた異邦人かと思った。それほど奇妙な姿をしていた。黄土色のその髪が波打って、おなごとは思えないほど短い髪をしていたからだ。

 女の命と言われている黒髪を、耳が見えるほど短くし、色まで付けるその心はいかに。その心がわからない。この髪を切るときは夫を亡くした時。

 しかし、留美は綾がそんな無礼なことを考えていたのにも関わらず、人懐っこい笑顔を向けてきた。



「ねっ、名前なんて言うの? あたし、留美。三日前にママになっちゃった。何号室? 遊びに行っていい?」

 それらの問いに答えられたのは名だけだった。

「綾」

とだけ答える。

「へ~え、綾さんっていうんだ」

 留美は勝手に部屋へ入ってきて、椅子に座る。


「よかった。私の他に若い子がいて。他の人たちってみんな、三十近いおばさんばかりなの。話も合わないし、退屈してたんだ」

「・・・・・・」

 綾が何も答えなくても平気で一人で話していた。


「まずね、あの人たちってさ、私の頭を見て、嫌な顔をしてそのまま下までずっとじろじろ見るの。あったまに来ちゃう。子供が子供を産んだっていう顔。まっ、そうだけど」

 アハハと豪快に笑った。

「綾さんも若いよね。いくつ?」


「十八」

とだけ答えた。

 留美はそれを聞いて、きょとんとし、目を丸くした。かなり意外だったようだ。それが綾の年齢だとわかって大声を上げた。

「うっそ~。十八ってことは高校生じゃない。ねっ、やばい、やばくない? すっごく落ち着いているし、真面目そうだから私よりも上だと思ってた。やるじゃん」

と肩を叩かれる。


 左肩の傷の奥が熱かった。表面上は治ってきているが、綾はそのずっと奥に何か熱い疼きがあるのを感じていた。

 その後、友子がきて会話は中断されたが、友子が雪江を連れて下へ戻っていくと再び留美は戻ってきた。


「ね、すっごく長くてきれいな髪。編み込みしていい?」

 よくわからないが、髪を梳いてくれるということなのだろう。

 昼間、友子が洗髪してくれた。よい香りのする液体から泡がたくさん出て、それで丁寧に洗ってくれたのだ。

 その髪に櫛を入れ、引っ張られる。後ろで束ねて編んだ髪、綾は鏡で新しい自分を見ていた。


「私、これでも美容学校、行ってんの。あとエステとネイルも覚えて、総合ビューティーサロンを開くのが夢なの」

 全く意味の分からない言葉が連発される。

「でもさ、さあと思ったら妊娠しちゃった。初めはどうしようかっって思ったけど、ママになるのも悪くないかって思えて、それで産んじゃった」

 大体の意味はわかるが、その軽やかな響きに苦笑する。


「昨日、彼氏が来て、籍、入れようって言ってくれたの。婚姻届けにハンコ押して。彼も最初できちゃったときは、冗談じゃないって顔してたんだけど、いざ生まれてみたら嬉しくなったみたいでさ。だって、あんなに小さいのに厚司ったら、あ、うちの子の名前。笑えるくらい彼にそっくりなの」


 昨日チラリと見かけた留美の相手。熊のように大きく、いかつい風貌だが、一度目が合ったら達磨のようにギョロリとした目がやさしく笑った。

「いつもこいつがお世話になってます。うるさいっしょ、こいつ」

と言った。

 いい人だとわかった。


「あ、そろそろ私、赤ちゃんを下の新生児室に預けに行かなきゃ。ちょっと待ってて、連れてくる。うちの厚司くんも見てよ」

 すぐに留美が大きい男の子を連れてきた。

「うちの、生まれた時から四キロもあんの。笑えるほどの巨漢でしょ」

 この手にその子を抱かせてもらった。 


 その男の子は、雪江と一日しか違わないのに、ずっしりと重く、しっかりしていた。丈夫に育つだろう。

 今は眠そうにしている。

「結婚するからこの子の名前、彼の名字になる。西村じゃなくて徳田、徳田厚司っていうのよ」


 そう言われて、その子は目を開けた。綾の腕の中で、一度だけ目を開けて真っ直ぐに綾を見た。


 久四郎様・・・・・・。


 ふとそんな気がした。確信はないが、その赤子の目の奥から久四郎が見えた。不動の山のようなどっしりとしたその瞳。

 綾のためにあんなに無残なことになっても、今、またこうして今度は雪江のために、雪江を守るためにそばにいてくれるのだろう、そう思った。


 赤子はまた目を閉じた。眠ってしまっている。

「この子、ずっと寝てるのよ。なかなか起きないんだ。寝る子は育つっていうからいいんだけど」


 綾は心の中で久四郎に詫びた。そして、きっと新太郎もどこかでこうしてせいを受けているのだろうと思うと救われる。罪の意識が少しでも軽くなった気がした。

 二人はきっと正重の言葉、「綾と赤子を頼む」と言ったことを忠実に守ろうとしているのだろう。


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