出会い
綾には何もわからないまま、突然、怒鳴られたことと、その一方的な物言いに怒りがこみ上げてきた。それでつい言い返していた。
「学問所だと思ったから覗いてみただけでございます。それともここではいつもあのような大騒ぎをして毛虫の投げ合いでもなされておられるのでしょうかっ」
綾の見幕に、若侍が目を見開いてみていた。
「学問所なら、それらしく静かになさいませっ」
そう叫んだ時だった。
その綾の声に、腕の中の龍之介がピクリとして、真っ赤になり、顔を歪める。火がついたかのように泣き始めていた。綾は慌てて外へ連れ出した。
せっかくよく寝ていたのに。
綾は自分の短気のせいで、龍之介を起こしてしまったと反省する。それまでの騒ぎでも起きなかったのに。
「驚かせてしまったようだな」
若侍も失笑しながら外に出て来た。
その侍は、稽古場へ顔をだし、中にいる別の侍に声をかけた。
「久四郎、静かにさせてくれ。後は頼んだぞ」
「はっ」
久四郎と呼ばれた細身で小柄な侍は、チラリと綾を見たが、すぐさま道場の奥へ消えていった。
龍之介はなかなか泣き止まなかった。それどころか、いくら綾が左右に揺すってあやしても全身に力が入り、反り返るようにして泣く。痙攣でも起こすのではないかと心配するくらいの興奮状態だった。
そんな困っている綾の周りに、毛虫騒動で外に逃げていった少女たちが近寄ってくる。七歳から十歳くらいまでの少女たちだ。彼女たちの関心は赤子だった。
口々に「赤子、かわいい」「小さい」と言っている。泣いている赤子に慣れているのだろう。泣き声は気にせず、赤子の顔を見たがった。
「タカ様、まだ背中に毛虫がついております」
タカ様と呼ばれた若侍は、そう言われて手の平で自分の肩を払い、二、三回飛び跳ねた。五、六匹の毛虫が地面に落ちた。
キャッと近くにいた少女が飛び退いた。
「もうないか」
と背の高い少女に背中を見せて聞いていた。
タカが綾に近づき、その腕からひょいと泣いている龍之介を取り上げた。
「何をなさいますか」
綾はすぐに抗議をしたが、タカは臆することなく、赤子をあやし始めた。
「かわいいのう。龍之介様か」
タカはそう言って綾に笑顔を向ける。
目鼻立ちのはっきりした二十一世紀で言えば、イケメンだった。ハッとする。
「さようでございます。龍之介様でございます」
すると少女たちが口々に龍之介様と呼びかけ、タカの周りに集まった。
タカは赤子の背中をポンポンとたたき、少女たちにその顔を見せたり、その辺を歩き回ったりしていた。
すると声も枯れんばかりに泣いていた龍之介が、段々と落ち着いてきた。そのうちに泣き止み、ウトウトし始めた。
綾でもどう扱っていいかわからないほど泣いていた龍之介をあっという間にあやしてしまったのだ。
何なのだろう。この御仁は。
そう思い、改めてタカと呼ばれている侍を見た。身分はそれなりに高そうだ。それでいて高飛車にならず、こうして子供たちとも馴染んでいる。赤子の扱いも綾よりは上手だと思う。
そんな綾の心を悟ったかのようにタカが言った。
「男の子は泣くこともその務め。これだけ大声で泣けば後はよく寝てくれるであろう。まあ、ここは学問所だから、静かにしないと誰かに叱られるがな」
そう言ってタカは、チラリと綾を見た。皮肉を言われた。再び、タカを睨みつける綾。
「泣くのがお務めだなどと、なんて野蛮なのでしょうか」
と、言い返した。
タカは綾の言葉に笑う。
「なかなか勝気なおなごぞ」
そこへ稽古場から別の侍が出て来た。目元の涼しげな長身の男だった。
少女たちは「シン様」と呼んだ。
「タカ様、毛虫を学問所に持ち込んだ四名はそれぞれ反省して、素振りを始めております」
「そうか」
タカは寝入った龍之介を綾に返した。そして少女たちに顔を向ける。
「お師匠が戻ってくるまで手習いでもするか」
少女たちが、一斉に「はい」と小気味のいい元気な返事をする。タカは少女たちを連れて、学問所へ戻っていった。
その場に、シンと綾が残った。学問所へ歩いて行くタカと子供たちの背中を見ていた。
「タカ様は子供好きで、子供たちからも好かれております。皆、赤子の頃からタカ様にあやしてもらい、遊んでいただいた者ばかりでございます」
シンの方が、タカよりも年長で穏やかだ。綾もシンとなら静かに落ち着いていられる。
そこへ中年の厳格そうな女性が急ぎ足で現れた。シンに深々とお辞儀をし、学問所へ入っていった。この女性が師匠なのだろう。すぐ、その入れ替わりにタカが平屋から出て来た。
にこやかな笑みを浮かべながらこちらへ来る。そんなタカの姿を見た綾の胸はなぜか波立ち、穏やかにしていられない。
「さっきはいきなり怒鳴って悪かった。女の子たちの師匠が座を外していて、わしが少し指導していたのだが、男の子たちが庭の毛虫を桶で集め、女の子たちを驚かそうとしたのだ」
と、タカが説明をした。
「それであんな騒ぎに・・・・」
「そう、わしが稽古場と学問所を行ったり来たりしていたから、稽古場の方に隙が生じたのであろうな。普段ならこのようなことは起らぬのだが」
なるほど、子供というものは敏感にいつもと違うことを感じ取り、その隙を見て、いろんな発想で悪戯をしようとするのか。そう感心していると、タカが真っ直ぐ綾を見て言った。
「そなたが龍之介様についてきた世話役の・・・・」
それに付け足すように綾が答える。
「綾と申します」
「そうか、綾か。よい名だ。拙者は鷹丸、タカと呼ばれておる」
その時、シンがなにか言いたそうにタカを見た。しかし、タカは気にすることなく、綾の腕の中で眠る龍之介の顔を覗き込んでいた。
「拙者は新太郎、シンと呼ばれております。今、稽古場で指導している者は久四郎。子供たちは兄様と呼んでおります」
学問所からは、子供たちが師匠の後について繰り返し、声を張り上げているのが聞こえてきた。
「こちらではおなごの教育も同じ学問所でやっておられるのですね」
「うむ、朝と昼に分ければ何の問題もない、そうであろう」
鷹丸はそう言って同意を求めるかのように新太郎を見た。
「はい、誠に。普段ならそれで結構でございます。何の問題も起らぬはずでございました。しかし、今日はタカ様が道場の窓枠に這う毛虫を見つけてから、稽古どころではなくなりました。皆がソワソワして気がそれておりました。そこへタカ様も学問所の方へ行ったり来たりで、こちらも四名が抜け出したのに気付きませんでした」
「なるほど、そうなると今日の騒動はわしが引き起こしたことになるか。すべてはわしの責任となるのだな」
「はい、タカ様がその原因を作りましてございます」
「すまぬ」
タカは口ではそういうが、その表情からは全く悪びれてはいないのがわかる。
「綾殿があの場に現れた時は肝を冷やした。しかも赤子連れ。あれほど慌てたことはない」
それでもタカは楽しそうだ。
新太郎も感心して言う。
「綾殿を庇うためとはいえ、タカ様も見事に毛虫をかぶりましたな。そして綾殿もあれほどの毛虫を怖がりもせずに平気でいるとは、おなごながら気丈な振る舞い」
そう褒められると心苦しい。
「いえ、そうではございませぬ」
今更ながら、あの時のことは思い出すだけで体が震える思いにかられる。
「実は、毛虫は大の苦手でございます。急なこと故、声も出なかった次第でございました」
それを聞いて鷹丸が声を上げて笑った。
「そうか、それはいい。声が出なかったということか」
「はい」
消え入るような声で言った。
道場の窓から久四郎が顔を出した。
「タカ様、素振りが終わりました。全員、反省しております」
「あい、わかった。今、行く。騒ぎの原因を作ったわしも素振りをするとしよう。シン、皆に稽古をつけてやってくれ」
「はっ」
新太郎は綾に一礼して、稽古場に入っていった。




