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気になる女性

 無事に女の子が取り出された。元気な産声をあげていた。

 一先安心する。綾は麻酔で眠っていた。


 二階の空いていた病室に運んだ。

 もし、綾が目覚めたとき、病室で独りぼっちっだったら、きっとパニックになるだろうと考えた友子は綾のところに付き添うことにした。


 なぜか放ってはおけなかった。

 周りを見る目、言葉遣いといい、普通の人ではない。まるで、時代の違う世界から迷いこんできたような女性、綾だった。その眠る顔はかわいらしく、あどけない。


 一体なにがあったというのだろうか。身内が心配して探し回っているのではないかと思う。警察に通報した方がいいのか、しかし、友子はそうしないでいた。そうしたらこの女性は困ったことになると直感していた。

 輸血をしていた。どれだけ出血をしていたかわからなかったが、かなり貧血をしていた。カラになった血液パックを新しいものに取り換える。


 夜明けは近いらしく、外はもう白んでいた。

 その薄暗い病室で、友子は綾の影を見つめていた。この二十歳前後の綾を他の誰かに見立てていた。

 結婚したばかりの頃、友子は妊娠し、不覚にも流産していた。悲しみに暮れた。

 男か女かわからなかったが、もし、その子が無事に生まれてきていれば、この綾くらいの年齢になる。もうそんなに立つのかと思う。あれから夢中でやってきた。あの子が生きていたら、今の友子たちの生活は変わっていただろうか。いや、変わらないだろう。相変わらず一郎は仕事熱心で、その合間に釣堀に行く。友子もそんな一郎を気遣う。しかし、子供がいたらどんなに楽しかっただろうと思う。


 そんな想像をしてつい、うとうとしてしまったようだ。気づいたらベッドに突っ伏して寝ていた。

 はっとして綾を見ると、もうすでに目覚めていて目が合った。綾はにっこり笑ってくれた。

 少し顔色もよくなっていた。


 綾は落ち着いていた。きっと慣れない環境で戸惑っているはずなのに、そんなことは微塵にも見せていない様子だった。この娘は強い、そう思った。

 綾は体を起こそうとしていた。しかし、帝王切開をしたばかりだ。すぐに顔をしかめて力を抜く。


「まだ、動かないで。傷があるから」

 友子はあわててベッドのコントローラーを使って、枕もとを上げた。

「ねっ、赤ちゃん、連れてこよっか? すっごくかわいい女の子よ。おめでとうございます」

 綾はそれを聞いて、嬉しそうにうなづいた。


 友子はすぐさま病室を飛び出した。早く綾に生まれた赤ちゃんを見せたくて、階段を飛び下りるように駆け降りた。

 当直の看護師が驚いていた。

「あの人、目覚めたの。赤ちゃん、連れてくわよ」


 ゴロのついた赤ちゃんベッドのワゴンを引いて、そのままエレベーターに乗った。

 綾の赤ちゃんは生まれたばかりだというのに、しっかりとした顔をしていた。もう二、三か月くらいのあかちゃんのようにすっきりとしている。スヤスヤと眠っていた。

「はい、お待たせ」


 綾の顔がほころんだ。実に嬉しそうな笑顔。

 友子が綾に赤ちゃんを渡すと、綾は慣れた手つきで抱いた。こういう新生児を抱いたことのある、そんな安定感のある抱き方だった。


「雪江、そなたは雪江」

と綾は声をかけていた。

「名前、決めていたの? ゆきえちゃんっていうのね」

「はい」

 友子が新生児用のベッドの名札を取り外した。

 そこには、ただ、綾ベビーと書いてある。


 友子がペンを取り出して、「どんな字を書くの?」と聞いた。

「白い雪、入り江の江でございます」

 友子は言われたとおりの漢字を書いた。綾はそれを見て満足そうだった。


「名字は?」

「あ・・・・・」

 迷っている様子だった。何かいろいろと事情があるのだろう。

「いいわよ、後で」

と、名前のカードをベッドにとりつけた。


「ありがとう存じます」

と丁寧に頭を下げた。


 綾は本当に愛おしそうに小さな雪江を見つめていた。どんなにこの瞬間を待っていたことだろうと想像できる。

 綾は口数は少なかった。言葉遣いが違うことに気づいているからだろう。周りのことも不慣れなようなのに、何も聞いてはこなかった。どんな状況であれ、無事に生まれた赤ちゃんと身の危険がなければ安心していられるのだろうと思った。


 友子は、綾と子供の姿を見て胸がいっぱいになっていた。

 よかったと思う。最初はどうなることかと思ったが、無事に生まれてこうして綾が赤ちゃんを抱いている。友子には綾の喜びが手に取るようにわかった。


 涙が出そうになる。

 なぜかわからないが、その姿には心に響くものがあった。

 涙を隠すために立ち上がった。

「朝食、持ってくるわね。少し早いけどもう準備はできていると思うし、私もコーヒー、飲みたいし。あ、綾さんはお茶がいい?」

 綾はにっこり笑って友子の言葉に答えた。


 友子が下の厨房へいく。

 近所に住む栄養士二人が忙しそうにしていた。人のいい中年女性二人。友子を見ると破顔した。田中文江と高橋良子だった。


「夕べ、急患ですって?」

 文江がもう友子のマグカップにコーヒーをついでいた。

「そう、今まで付き添っていたの。今、起きているから。準備できてたら私がもっていくわ」

 二人とも、師長自らが、という意外そうな目を向けたが、良子がすぐに味噌汁とご飯をよそってくれた。文江からコーヒーを渡され、すぐさま口にする。

「ご親戚の産婦さんですか?」

と聞かれた。

 そう思うのも無理はない。今まで友子が付き添って、わざわざ朝食まで運ぶということは一度もなかったからだ。しかし、身内ならば、きっとそうしていたかもしれない。


「そう、そうかもね」

 友子は曖昧な言い方をして、お盆を受け取った。


 綾の病室には一郎が来ていた。

 いつもなら、回診時にしか病室には来ない。一郎も友子と同様に綾のことが気になっているらしかった。

 一郎は友子の持ってきた朝食を見て、「俺も腹減ったな」と笑った。


「検査して、もしまだ貧血しているようだったら、今日の午後からまた輸血をするから。少し熱があるようだけど、もう少し様子をみる」

と、友子に言う。

「傷の消毒はした。大丈夫だ」

「あなたがですか?」

 友子は驚いていた。一郎が自分で熱も測って、傷の様子も見ている。異例の対応だった。

 これこそ一郎が今まで見せたことのない姿だった。

 心配な患者がいても、友子たち看護師にそう指示することはある。しかし、そう心配ない綾にここまでするとは前代未聞だった。


 一郎は部屋を出るとき、綾に笑顔を向けた。一郎も、友子が感じた自分たちの娘のような意識を感じているのかもしれなかった。

 綾も笑みを浮かべて、丁寧に頭を下げた。


「朝食、どうぞ。きちんと食べてたくさんお乳を出してね」

というと、綾は素直にうなづいた。

 綾は食欲はなさそうだったが、無理して口に運んでいるようだった。

「お口に合うかしら」

「大変、おいしゅうございます」

 やはり、綾はどこか違う。

 綾の食べている姿を眺めながら、友子は考える。


 若くして一人で赤ちゃんを産み、一人でこの状況に耐えている。いったいどんな事情があるのか。

 しかし、質問攻めにしてもかわいそうだし、たぶん綾にもいろいろ聞きたいことはたくさんあると思う。その質問に友子が答えられるかわからない。

 綾と友子の間には、触れたくても触れられない、そんな見えない空間があった。


 一応、昼間は赤ちゃんは病室にいて、お母さんが世話をすることになっていた。綾に新生児用の紙おむつの取り扱い方を教える。

「濡れていないようでもちゃんとおしっこしているのよ。生まれたばかりの赤ちゃんはすぐにおしっこするから、こまめに取り換えてあげてね」


 午後、傷の様子を見るために綾の病室を訪れた。

 綾はまた、眠っている雪江を抱いていた。かわいくて仕方がないらしい。

 その写真を撮った。


 一郎が、一応警察に届けなければならないと言った。だが、一郎も友子もそうしたくないという気持ちが強い。肩の傷を隠し、行き倒れの、ショックで何も覚えていない女性ということで届けようというのだ。知り合いの交番だから、直接合わせずに写真だけ見せて、一応の対応をしてもらおうという考えだった。誰かが綾を探していれば、それでいいし、もしそうでなかったら、その時は・・・・。


 すぐにプリントアウトした写真の一枚を綾に渡した。

「これは・・・・・・」

 綾は息をのんでいる。

 やはり、写真というものを初めて見る、そんな表情だった。自分の顔と赤ちゃんがそこにあった。綾の狼狽はすぐに失せた。綾は嬉しそうに見つめていて、やがて枕元に置く。

 あとで、うちに放りっぱなしになっている写真立てをもってきてやろうと思う。


 翌日、綾を一階の和室に移動させようかという話が出た。

 隣の留美が、綾の部屋にいたのだ。綾はまだ、熱が引かない。それどころか、少し上がりつつある。それに、根掘り葉掘り聞かれてはかわいそうだという思いがあった。友子たちが敢えて聞かない質問も平気でしているかもしれないと思うといても立ってもいられない。


 留美は赤ちゃんを病室に置き去りにして、あちこちふらふらと出歩いている。

 西村留美、二十歳の女性だった。


 その日、友子が夕食を運んできたときも、留美が綾の部屋にいた。留美の騒がしい声が廊下にまで響いていた。

「ね、綾さんって何歳? 若いよね。私と同じくらいかな。旦那さんとかいるの? やっぱ、できちゃった結婚?」

 留美の質問攻めに、綾は十八とだけ答えた。

「じゅ、十八? じゃあさ、高校生なわけ? やばい、やばいじゃん。すっごく落ち着いているからさ、私よりも年上かと思ったけど、まさか十八とはね」


 友子もその会話を聞いて驚いていた。

 いつかは聞かなければならない質問だったが、綾が十八歳だったとは思わなかった。それほど若いとは。高校生で、つきあった男の子の子供を産んでしまった、という話はよくあるが、綾にはそんな感じには見えなかった。

 子供を産んだことを誇らしげにしているし、留美よりもずっと落ち着いた威厳があった。


 友子はドアをノックする。綾を疲れさせないように留美を追い返すことにした。

「はあい」

と留美が間延びをした返事をした。

 入ってきたのが友子だと気づいて、バツの悪そうな顔をした。

「あら、西村さん。赤ちゃん、一人にしたらダメだって言ったでしょ」

 留美はさっさと退散という感じで立ち上がり、女性雑誌を置いていった。

「もう読んだからあげる」



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