二十一世紀の病院にて
神宮寺一郎は、釣り具を前にしてボーとしてテレビを見ていた。時々、うつらうつらしていた。妻の友子はそんな姿に苦笑しながら目の前のテレビを消した。
「あなたったら、もう。ちゃんと寝てください。お布団敷いてありますよ」
そう言われてはっと目覚めた一郎は、すぐさま何もなかったかのように釣り具をまた磨き始めた。
「夕べも出産で起こされたんですから、今夜こそ早く寝なきゃ、体がもちませんよ」
再度、友子が言う。
こんな会話は毎日のことだから、一郎は気にすることなく、耳から耳へ素通りさせていっているのだろう。
神宮寺一郎は産婦人科医だ。ずっと勤めていた大学病院から抜け出して、五年前に入院設備のある個人病院を建てた。
友子は看護師で、一郎が医学生だった時から同じ病院に勤務し、つきあいはじめて結婚。今も看護師としてやっている。
普段の診療では、少人数の看護師と友子で十分だが、入院患者と新生児が複数になると、一郎だけでは手が回らなくなる。それで、三人以上の入院患者がいるときは、大学病院の若手医師にバイトで来てもらっていた。
今夜は、いつも来てくれている医師の青木がいた。
友子は、大あくびをしてやっと腰を上げた一郎を見て微笑む。
毎日、大勢の患者をみていて忙しいが、子供が生まれる職場にいることが誇らしく、生きがいになっている。
そんな忙しい中、いつの間にか四十代後半になって、自分たちの子供がいないことにようやく気付いた。以前は子供が生まれて嬉しそうにしている家族を見て、うらやましいと思っていたが、今は他人の子でも関係なく、赤ちゃんを取り巻く笑顔に喜びを感じられるようになっていた。
一郎の唯一の趣味は、釣りだった。六十歳になったら、きっぱりとリタイヤして、好きな釣りを楽しむと言っていた。
産婦人科医はそう遠出はできなかった。海外旅行も無縁だ。
他の医者のように、留守の期間は他の医者へ頼んでいくということができないでいる。
予定日が出産日とは限らない。夜中に駆けつけてくる人もいるし、一日に続けて三人も陣痛をうったえて来院する日もある。それらの命を守る責任は重大だ。
だから、一郎はすぐ近くにある釣堀へ行き、好きな酒も晩酌にほんの一杯だけに止めていた。体力との勝負だった。
友子は白衣を着て病棟へ続くドアを開けた。今は消灯前の授乳の時間だった。
「あ~あ、いっそのこと、私も双子を生めばよかった。こんなに大がかりなこと一度で終わっちゃったのに」
屈託なくそう言ったのは西村留美だった。授乳室からの声が聞こえてきた。友子はそちらへ目を向ける。
「夕べさ、彼がもう一人欲しいって言ったの。産んだばかりなのよ。あんなに痛い思いをして、やっと一人産んだのに、もう次の子の話ってどういうことって思ったの、呆れちゃった」
ちょうど三人の産婦が新生児室の横にある授乳部屋にいて、それぞれ生んだ子供を抱っこしている。留美は今回初めてのお産を終えた新産婦だが、あとの二人は経産婦で、落ち着いた表情を浮かべ、留美の言葉に苦笑していた。
昼間、双子を出産した経産婦がいた。その家族には既に一人男の子がいて、今回女の子を二人出産していた。その人の話なのだろう。その気持ちはわかるが、安易な発想だった。
西村留美は若い。二十歳だという。二日前に男の子を出産していた。イマドキの女性だ。童顔だから高校生と言ってもいいくらい若くみえる。美容師の卵だということで、その髪は金髪というよりも黄色に染め上げられ、短い髪にかなりきつめのパーマがかかっていた。美容師仲間の練習台になった結果なのだと訊ねてもいないのにそう言った。
「西村さん、双子を生むってことは大変なんですよ」
とちょっと窘める。
経産婦たちは入室してきた友子に気づいた。
しかし、留美は悪びれる様子もない。
「わかってます。でも妊娠期間とかの通院、入院なんか一度で済むでしょ。私、早く子供を保育園に預けて美容師の資格を取りたいんです。彼、あと三人欲しいなんて言い出して驚いちゃった。冗談じゃないよ、誰が痛い思いして産むと思ってんのっ、て怒鳴っちゃった」
最初はですます調ではなしていても、段々とタメ口になってくるのが留美だ。しかし、憎めないかわいらしさがある。
「それもそうね」
そんな男性の言葉に、留美の心がわからなくもなかった。
「で、じゃあ、あと一人ってことで話がついたってわけ。でもさ、あの痛みをまた経験するのかと思うとちょっと無理かも、って思う」
他の経産婦がいう。
「人は忘れるっていうことができるの。だから大丈夫なのよ。育児に専念して、子供のかわいさに忙しい日々を送っているとね、陣痛、出産の痛みなんて忘れちゃうの。そしてそのうちにもう一人欲しいって思えてくる。だから、私もこうして二人目を生むことができた。最初の子は丸二日、微弱陣痛で苦しんだの。あの時はもう絶対にいやだって思った」
留美はそれを聞いて目を丸くしていた。
「ひえ~、丸二日? 冗談でしょ。帝王切開にしてもらいたいかも」
また安易な発言だった。
「帝王切開はお腹を切るということ。出産後、本当に大変なのよ。多少入院は長引くし、お腹は痛いし。それに双子を妊娠するってことも簡単じゃないの」
一度言葉を切る。
「普通、一人の赤ちゃんがお母さんのお腹を独占しているでしょ。それを二人でシェアするのよ。場所が半分、栄養はそれぞれ必要なのに足りなくなることもある。早産の危険率は高まるし、臨月で生まれても小さかったりするの。確かに双子ちゃんってかわいいわよね。私も何人もとりあげたことあるわよ。おそろいの洋服を着せて、街を歩くと皆が振り向くでしょう。でもその育児も大変。一人が泣けば、他の子も泣く。二人で一人ではなくて、独立した二人なの。きちんと向き合って育てなきゃいけないのよ」
留美はふ~んと聞いていた。
「いいこともあれば、大変なこともあるってことね。じゃあ、仕方がない。二、三年したらまた産む」
留美のいいところは他人の意見を素直に受け止めるところだ。多少きつい言い方をしても反発しないで聞いてくれるのだ。
「あ、でも江戸時代とかは双子は嫌われていたって聞いたけど」
他の経産婦が言った。
「知ってる、昔ってエコーなんかないから、一人生まれたと安心していたら、もう一人いたってことで驚くらしいわね。お産婆さんが間引くこともしたらしいわよ」
なにやら話の方向が違ってくる。
「間引くって?」
留美がそう聞いていた。
「間引くって、殺しちゃうこと」
ひっと喉を鳴らした留美。
「そうね、或は後から生まれてきた方を地下牢みたいなところへ幽閉していたっていう話もあるみたいだし、今は医学や生物学で証明できるから異常ではないって知っているけど、昔ならそう思うでしょうね」
もうそこまでにしておいた方がよさそうだ。
「さあさ、赤ちゃんも聞いてるわよ。そんな話よしましょう。授乳が終わったらお部屋に戻ってくださいね。面会の人も現れることでしょうから」
友子の一言で、その話は終わりになった。新生児室で間引くだなんてそんな恐ろしい話はしたくなかった。三人もバツの悪い顔をして、自分の胸に吸い付いている子供を見ていた。双子を持った経産婦は今夜は自分の部屋で授乳をしていたから、そんな話ができたのだ。
当直室を覗く。パソコンを覗いている青木がいた。
「青木くん、これ、先生からの差し入れ」
昼間、一郎のために買ってきた揚げ煎餅だった。青木も好きだと知っていたから、持ってきた。
「ありがとうございます。先生はもうお休みになりましたか」
「今やっと布団に入ったとこなの」
友子はため息交じりにそう訴えた。やれやれと言ったところだ。
青木とはこの病院設立以来だから五年になる。一郎の性格やその癖も知っていた。青木は同じ大学病院にいた。年は違うが一郎とウマがあった。だから、人手が必要になると真っ先に青木を呼んだ。産婦人科は体力勝負なのだ。しかし、一人では限界がある。数人の医者と連携して具合が悪い時などは代わって診療してもらったりした。
その夜は寒かった。友子はそれから一時間ほど青木と当直室にいた。面会に患者の家族が訪れていた。顔見知りになっているから挨拶をかわす。
いつものように友子は消灯時間になると一度、病室の様子を伺うことにしていた。入院患者次第で時間を九時半から十時にすることもあった。消灯といってもその時間に寝ろというわけではなく、廊下などの照明を落とし、見舞客用の通用口のドアに鍵をかけるだけだ。しかし、それ以降は自分の部屋で静かにし、なるべく早く寝るようにすると入院患者にはそう説明している。
「皆さん、変りはありません。新産婦の西村さんもお乳が順調に出て来るようになったそうですね」
留美ならもうさっき、その様子を見せてもらっていた。
「あ、でもまだ、旦那さんがいるのかな。面会にいらしていました。仕事の関係で遅くなってしまうとこぼしてましたから、消灯の時間だって強く言えなくて」
青木が言葉を濁した。友子が時計を見る。もう十時に近くなっていた。
「わかった。じゃあ、ちょっと行ってくる。他の部屋にも声が漏れると思うし」
青木はお願いしますとパソコンの画面から目を離さずに言った。
静まり返った病院内、友子の靴の音が階段に響いた。二階の廊下にくると留美の部屋から笑い声がしてきた。廊下にも聞こえるほどの声を出していた。
ノックをし、ドアを開けた。
留美は友子の顔を見るとしまったという顔をする。留美の夫が頭を下げた。そして時計を見る。
「あ、すみません。こんな時間まで。もう消灯時間過ぎてますよね」
割と夫の方はきちんとしているらしい。同じように若いが、人の空気を読め、その笑顔は見る者を安心させる。すぐに帰る支度をしていた。
「明日もくるからな」
「うん、メモした物、買ってきてよね」
何かおねだりしたらしい。
「わかってる」
そう言って夫は、留美の額にキスをした。友子の目の前だが、別に気にした様子はなかった。いつものことなのだろう。
留美の夫は友子と共に部屋を出た。階下に降りると通用口の反対側にある新生児室に目をやる。
「あ、すみません。一瞬でいいんで、もう一回子供の顔をみせてもらっていいですか」
友子は笑ってうなづいた。
新生児室は階段のすぐ横にある。看護師の一人が赤ちゃんの様子を見ていた。
そのガラス越しに、自分の子供を見つけると愛おしそうに眺めている。友子はそういう人の表情を見ることも好きだった。人の幸せは自分にも連鎖すると考えていた。
「子供ってかわいいですね。生まれるまでそんなこと思ってもみなかったんです。でもオレにそっくりだし、この子は将来何になるのか、どんな人生を送るんだろうって考えたら、わくわくして眠れなくなっちゃって」
えへ、とばかりに笑う。
「皆さん、そうだと思います。子供もそうやって愛されて育つんです」
「オレ達、籍を入れてないんです。まだ結婚なんて早いって思ってて。今回、子供ができたこともあまり喜べなくて、しくじったって思ったくらいでした。でも、これを機にちゃんと結婚しようと思いました。子供のためにも、親になる自分たちのためにもその方がいいって思えて。あの子がオレ達の目をさましてくれたんだって・・・・・・」
そう照れながら言ってきた。友子も応援したいと思う。人はそうやって親になっていくんだと思った。
留美の夫が通用口から出ていった。そのドアに鍵をかける。今夜は急患がありませんようにと思う。
そして薄暗い廊下から自宅へのドアへ向かう。
その時だった。通用口のドアが叩かれた。誰かがノックしている。緊急時用のインターフォンがあるのにもかかわらず、ドアをたたいていた。それは、友子がまだこのドアの近くにいることを知っている人物だろう。
急いでドアへ向かう。最初は留美の夫が忘れ物をしたのかと思った。しかし、その叩き方は切羽詰った様子だ。
「はい」
一応、インターフォンで声をかける。スイッチを押すと外に電気がつき、画像が見えた。やはり留美の夫だ。それでやっとインターフォンに存在に気づいたらしい。
「あ、すみません。この病院の駐車場の前に妊婦さんがうずくまっているんです。急患かもしれません」
「えっ」
友子はすぐさま当直室にいる青木に声をかけていた。
「急患みたいよ」
青木もすぐに顔を出した。
「どこですか」
産気づいてやっとここまで来たが、動けなくなったのかもしれなかった。
「すぐ前の駐車場」
友子はドアを開ける。そして留美の夫の後を走った。こんなに短距離なのに、友子の息はハアハアと上がっていた。
表の駐車場に行く。確かにその隅に女性がうずくまっていた。街燈からの明かりでそのシルエットはかなりお腹の大きい妊婦だということがわかった。
病院の玄関に明かりがつき、正面玄関の自動ドアが開く。青木が中からストレッチャーを押してきていた。
友子がその女性に駆け寄る。
「大丈夫ですか」
そう声をかけて、その背に触ろうとした。しかし、一瞬手が止まる。その背はぐっしょり濡れていたからだった。長い黒髪も濡れて水が滴っていた。その女性は白い浴衣のような寝間着一枚だった。この寒空に、どうしてこんな姿で、どうしてここにいるのだろうと思った。
しかし、肩から出血しているのを見つけた。
「ケガ、してるっ」
これは一郎を呼ぶしかない。
「青木くん、先生を呼んでくるから、この人をすぐに処置室へ」
「はい」
留美の夫もおろおろしながら、何か手伝おうとしていた。
「毛布を掛けてあげてください。私、夫を呼んできます」
友子はまたもや全力で走り、病院へ入る。明日は筋肉痛に悩まされるだろう。
布団に入っていた一郎に声をかけるとすぐに起き上った。白衣を着て病院の処置室へ向かった。
処置室で女性が騒ぐ声がした。慌てて友子が駆けつける。
「いったい・・・・そなたたちは・・・・。何者じゃ、ここはどこなのじゃ」
鋭い声が飛ぶ。
その女性は髪を振り乱して、ストレッチャーの上に半身を起していた。今は陣痛がおさまっている様子だ。
その小さな肩から血が流れだしている。傍目にもひどい傷だとわかる。体が温まるにつれて出血がひどくなったらしい。
青木が近づこうとすると、きっとにらみつけられた。
何も持っていないただの小柄な女性なのに、その気迫は身ごもった子供を守る親犬のように威嚇をしていた。青木はひるんでいて近づけない。
だが、すぐにまた陣痛がきたようだ。
くぅと呻く声を出して、腹をかかえてうずくまった。バランスを失って台から落ちそうになる。
慌てて友子が駆け寄った。女性は苦痛に耐えながらも友子の存在に気づいて、わずかに表情を和らげた。友子なら受け入れてくれると、そう確信した。
その女性が落ちないように落ち着かせて寝かす。痛みのある腹を撫でながら、その顔に優しく話しかける。
「大丈夫、ここは病院です。産科の病院。医者がまずあなたの肩の傷を見るから落ち着いてくださいね」
女性は医者という言葉に反応した。
白衣を着た一郎の方を見て合掌し、すがるようにして哀願する。
「どうか・・・・・ややを助けて、お願いいたします」
「やや?」
と青木が訳が分からないと言った声を出した。
友子は青木を睨んだ。不用意に大きな声を出しては患者を刺激するからだ。
「やや、赤ちゃんのことね。今、何週目? かなり大きいけど」
明かりの下で改めて見るその顔は、意外と若かった。二十歳前半といったところだろう。
「いつ生まれてもよいと言われました」
「じゃあ、臨月ね。よかった。あなた、お名前は? 誰か連絡してほしい人いる?」
一度にいろいろ言ってしまって後悔した。黙ってしまったからだ。
しかし、その女性はぽつりと
「綾・・・・・」
とだけ言った。
「綾さん、綾さんっていうのね」
名前だけでも教えてくれた。ありがたい。
一郎は綾の肩の傷を見た。鋭い刃物でざっくりと切られたような傷だった。しかし、出血量の割には深くはなかった。よく消毒して包帯で巻く。
途端にまた陣痛が始まった。
感覚が短くなっていた。しかし、一郎がさっと触診したところ、子宮口はそれほど開いていないと言った。何があったのかはわからないが、ずぶ濡れで一人、あんなところにいたことから考えると刺激を受けて、いきなり強い陣痛がきてしまったようだった。
一郎は友子に伝えた。
肩からかなり出血もしていた。どのくらい血を失っているかもわからない。それに子宮口が十分開いていないのにもかかわらず、この強い陣痛は危険だと言った。
帝王切開に踏み切ることにした。
まず、友子が濡れた着物を脱がせて、手術時に着る衣類に着替えさせた。
「綾さん、旦那さんは? 他のご家族とか、来てほしい人は?」
というと、綾は陣痛への苦悶の表情から、一瞬だが誰かを思い描いたような安らかな表情になった。
「旦那・・・・・さま」
そしてすぐに首をふる。
いないという意味なのか、それともここには来られないという意味なのか。
身内にも連絡が取れないようならば、綾本人に手術の同意書にサインをしてもらうしかない。
一郎と青木が手術の準備をして入室してきた。
その時、バッシャーンという音がして、温かな水が床に飛び散った。破水したのだ。
友子が胎児の心音を確かめる。
「赤ちゃんは大丈夫」
新生児室の看護師も駆け込んできた。
「血液型O型。輸血の準備、整っています」
友子は綾の苦痛に耐える姿を見た。かなり痛いはずだ。
「我慢強いのね。痛かったら声を上げてもいいのよ」
綾には意外な言葉だったらしく、目を丸くして友子を見た。
「今から医者が、赤ちゃんをお腹から出すからね。心配しなくていいの。綾さんが寝ている間に済んじゃうから」
どこまで綾が理解してくれているかはわからなかった。それでも簡単に説明をした。
綾は安心した表情をしていた。友子を信頼していた。
やがて、麻酔に眠る綾の腹が消毒されて、メスが入った。




