わずかな瞬間に崩れていった幸せ・ここはどこ?
「よせっ、そのおなごに手を出すなっ」
と、叫んだその声を、綾は知っていた。
綾が肩を斬られた直後の孝子の悲痛な叫び、そして新太郎が倒れるのを見た。孝子にはこんな姿を見せたくなかった。
ぐらりと体が揺れ、倒れていく。どうにもできなかった。体から力が抜けていた。
池へ落ちる寸前、久四郎の苦悶の顔が見えた。刺されているのが目に映った。
皆、綾のために倒れてしまう。あんなに幸せだったのにそれが音をたてて崩れていく瞬間だった。申し訳なさに心が震えた。
それでいて、綾は不思議に何も感じていなかった。ざっくり斬られたはずの肩の痛みも池の水の冷たさも、そして息のできない苦しさもなかった。
もう自分は死んでいるのかと思った。無力だ。その無念さだけが残る。
一人残していく正重のことが心配だった。そして約束したはずの、龍之介を守るということも果たせないまま、終わるのか。
そのまま池に沈んでいく。最期の正重の口づけが思い起こされた。あの柔らかで温かな感触、忘れはしない。正重の温もりを。
その時、腹の子が大きく動いた。ぐるりと一回転するかのように、この狭い腹の中で動いていた。
まるでその子が、私はまだ生きている、私は生きたい、と綾に知らせるかのようだった。
そう思ったら、急に肩が火を押し付けられたかのように痛み、心の臓を凍らせるかのような冷たい水とその中の苦しさを感じていた。そして、思わず水を飲んでしまう。苦しかった。水の中をもがく。
そして・・・・・・一番恐れていたことが起こった。
衝撃とショックで陣痛を引き起こしていた。急にものすごい張りがくる。
無事に産まなければならない子を、こんな時にこんなところで、産気づいていた。
この子は正重の子で、龍之介と共に生涯を過ごす運命を持つ子だ。どうか無事に産ませてほしい。無事に・・・・・どうか。どこかこの子が生きていかれるところ、誰でもいいから助けてほしいと願う。
お願いします。
綾の悲痛な心の叫びだった。意識が遠のいていく。このまま、この子を産めずに死ぬのか・・・・・と思った。真っ暗闇の中を通るような気がした。次の瞬間、ものすごく固い地面に投げ出されていた。
綾はぐっしょり濡れて、寒さに震えているが、もうそこは水の中ではなかった。
咳き込んで、飲み込んだ水を吐き出した。それでようやく空気が肺に入ってくる。息ができるようになっていた。
それと共に慣れない異臭がする。今まで嗅いだことのない異様な臭いがあった。そして、聞き慣れない音。しかし、それは遠くの方で聞こえる。異様なくらい固い地面。
そして、夜のはずなのに、やけに周りが明るかった。
だが、今の綾にはそれらを確かめる余裕などなかった。
寒い、そして再び腹が痛くなる。その痛さに思わずうめき声を上げた。
誰かが来る。足音。しかし、綾にはそれが誰なのか、どんな人物なのか、どうして綾は池から逃れられたのか、わからずにお腹を押さえていた。
「大丈夫ですか。どうしたんですか?」
男の声だ。
「あ、妊婦さんですか。ちょっと待っててください。今、人を呼んできます」
その人はそう言ってどこかへ行ってしまった。
綾のことよりも腹の子を助けてほしかった。




